第16話 宣告

 夜の散歩が再開し、ユリアは希望に満ちていた。

 ラエリウスからルシウスの話を聞いて情報収集もしていた。それを生かして彼になんとか気に入ってもらい身の回りのお世話させてもらう、という作戦だ。



「あの…ルシウス様。右手をお借り出来ませんでしょうか?」


 ある月夜の晩、いつもの散歩でユリアがルシウスに頼んだ。ラエリウスの滞在が4週間ほど経ってもうそろそろ帰る話がでている時だった。

 もう季節は春、空気が温かい。

 ルシウスはユリアのいつもと違う行動にビビッて心臓を高鳴らせながらも、ぶっきらぼうに手をずいとユリアの目前に差し出した。


「あ、あぁ…これでいいか?」

「はい、ありがとうございます」


 ユリアは手に引っ掛けていた巾着からシャラシャラと儚い音がするものを出し、ルシウスの右手に付けた。彼の太い手首に丁度いいサイズだったのでユリアはほっと小さな息を吐いた。


「なんだ、これはっ」とルシウスは灯で手元を照らした。


 小さな貝が丁寧に細い紐でつなぎ合わせてある。痛くないので、角を削って取ってあるのだろう。彼女の白く細い指がひとつひとつ貝を細工している場面がたやすく頭に浮かんだ。


「ブレスレットでございます。もし良かったら、つけて頂けると……うれしいのですが


 そんなの知っているし良いに決まってる、とルシウスは言いたかったが彼女からの予測していなかったプレゼントで彼の心の重しが外れてしまった。そんなものを貰うのはあまりにも久しぶりだ。


「っ…おまえはっ…どれだけ俺の心をかき回すのだっ!」


 一気に溢れた激情でルシウスはユリアを背骨が鳴るほど思い切り抱きしめた。


「ひゃっ…!ルシウス様、申し訳ございません…少し…痛いのですが…」


 ルシウスの今までにない急な激しい接触にユリアは苦しいながらも心底驚いていた。そして、心身が今までにない快感で満たされ指の先まで震えているのを感じた。


 どれくらいの時間そうしていたろう、恋愛経験の全くない彼女は情報を処理しきれなくなり意識がプツンと途切れていた。

 



「怖い思いをさせてすまなかったな…」


 ルシウスは気絶してしまった彼女を部屋のベッドに横たえ、布団をかけた。


 ベッドの端に座るときしんで傾いたので、少し腰を浮かし、彼女の顔の向こう側に右手をついてベッドのバランスをとった。貝が小さくシャラリと鳴る。目の前には彼女の血の気がない白い顔が月光に浮かび上がっていた。


(俺が彼女を扱うと、やはりこういうことになるのだ…)


 ルシウスは強いショックを受けていた。

 薄い部屋着だが全く寒くなかった。愛しい女性を前にして身体は熱いが、頭も沸騰しそうだ。剛毛に囲まれた目がむさぼるように彼女を見つめている。


「ユリア…俺はおまえを愛しているのだ。しかしこのままだといつか激情のままに壊してしまうかもしれない。その前に…」

 

 ルシウスが空いた左手でおずおずと彼女の白い頬を撫でると、ユリアの鼻から気持ちよさげな吐息が漏れた。彼の心臓が外に漏れるくらいの大音量で全身に血流を流す。

 彼は情欲のままに彼女のすべてを奪おうと覆いかぶさろうとしたが、しかし寸前で凍ったように固まった。そしてしばらくしてから、ギシギシときしむ身体を離れがたそうに無理やり動かし、ベッドから腰を上げた。




 ユリアは次の日の朝、なぜ昨夜の散歩の途中から記憶がないかを不審に思った。しかし、手にぶら下がったままの巾着の中身が無くなっているのをみて、ルシウスにプレゼントを渡した緊張で倒れてベッドに連れてきてもらったのだと解釈した。

 意識を失くすなど小娘のようであまりに恥ずかしくて仕方ないが、ルシウスには今夜の散歩で失礼を詫びようと思っていた。




 しかしユリアはその夜の散歩でいきなりの死刑宣告を受けた。


「おまえを買ってみたがやはり気に入らない。ラエリウスと一緒にローマに戻れ、もう顔も見たくないのだ」


 ユリアからそっぽを向いて真っ黒の海を見ながら、ルシウスは不機嫌に言い放った。

 その瞬間、ユリアの中の何かがパチンと弾けた。縦横の突っ張り棒が失くなった案山子のようにへたへたと身体の力が抜ける。

 彼の太い腕につかまっていられず、ユリアは手を離してくたりと砂浜にへたりこんだ。

 そして反射でぼんやりと「……は…い」と絞り出すように答えていた。




「ふいっ、ふっ…なんっ…なんでっ…」


 止まらないか細い泣き声としゃっくりが砂浜に響く。

 もちろん波の音で普通の人間ならば聞こえないが、ルシウスの敏感な耳には嫌がおうでも入ってくる。ルシウスはユリアが泣くのを見るのは初めてだったので酷く動揺し、砂浜に置き去りにしてしまった。てっきり彼女は自分から解放されて喜ぶと思ったのだ。

 それに、涙に濡れる彼女を前にしたら思わず『全部嘘だ!頼むからずっと俺のそばにいてくれ』と懇願してしまいそうで怖かった。借金の弱みにつけ込むなど…彼女の幸せを考えたらルシウスに出来るわけがない。


(身代金の対価を払っていないから悔しくて泣いているのだろう、彼女は真面目だからな…しかし、こんな化け物とずっと一緒にいさせるのは絶対に無理だ。今ならまだ手放せる。愛着が湧いて手放せなくなり荒い気持ちで殺してしまう前に父親の元に帰そう。ラエリウスがちゃんと説明してくれる今が一番いいタイミングなのだ)


 彼は外でユリアが建物にはいるのを待っていた。深夜の海辺とはいえ、どんな危険があるかわからない。かといって、置き去りにした手前、迎えにいくこともできずいらいらしていた。あのままでは風邪をひいてしまうだろう。


「くそっ、建物に入ってから言えばよかった…」


 ずっと泣き続けるユリアを見守っていたら、とうとう夜が明けて、東の空が明るくなってきた。ルシウスはほっとして、もう起きてくるであろう誰かを捕まえてユリアを連れ戻すように頼もうと建物に足を踏み入れた。

 しかし彼の耳が怪しい音を拾った。


 砂浜では案の定、賊が3人、ユリアに背後から近づいていた。彼女は全く気が付いていない。


「ユリアっ!」


 海を割り、海岸を揺るがさんばかりのルシウスの咆哮ほうこうが響くと、ユリアと賊の3人はびくっとしたが、屋敷からこちらに向かってくるルシウスが1人だと知って賊は元気付いた。彼女は初めて見る海賊を怖がってまったく動けない。


「ばーか、1人で俺ら3人に叶うわけねぇ、返り討ちにしてや…えっ?」


 ルシウスはいつも頭を隠している紫のフード付きマントを邪魔そうに脱ぎ捨て、雷のごとく猛スピードで彼らとの距離を詰め、武器を構える3人の横面よこつらを素手で一気に吹き飛ばした。正に異名どおり『戦場の雷鳴』だった。


「きゃっ!」


 いきなり始まった戦闘の恐怖で身をすくめるユリアを片手でひょいと抱き上げ、海賊が持っていた刀を奪って顔の形が変わり口から血を流す彼らに向けた。今にも脳天から自分の刀を振り下ろされる恐怖に彼らは叫んだ。


「ひゃっ、お助けをっ」「殺さないでくれっ、頼む!」「命だけは助けてくれ」


 相手が戦意を喪失しているとわかったルシウスは、「行け!ここには二度と来るな。しかし今度は命がないと思え」と冷たく言い放った。

 彼女を怖がらせた罪で今すぐ3人とも縦に真っ二つにしてやりたいが、ユリアに血を見せて怖がらせるわけにはいかなかった。


「はゃ、ひゃいっ!」



 嵐が去って一気に波音だけになり、ルシウスは困惑した。震えてルシウスの首にしがみつく彼女をどうしたらいいものか。怖い思いをさせてすまなかった、と言えば彼女の事だ、かえって恐縮するだろう。

 彼が黙っていると、彼女は震える声を絞り出した。


「…ルシウス様、ありがとうございます。もう大丈夫ですので、降ろして下さいませ」

「お、おう…」


 彼がゆっくり砂浜に降ろすと、彼女は震えながらも顔を俯かせたまま頭を下げ、これ以上落とす肩が無くなるほどの無残な様子で建物に戻って行った。

 ルシウスに顔を見たくないと言われたのを思い出したのだ。


 そしてルシウスは自分の醜い頭部が露わになっていたことに今更ながら気が付いた。


(俺の獣のような頭を至近距離で見て怖がらせたか…当然だな。これで‥良かっ…)


 ルシウスはこれでもう二度と彼女と会えないのだと突然芯から理解した。獣人だと知られてしまったのだ。

 身体の半分を引き千切られたかのような痛みに体を焼かれ、灰になって空っぽになった身体でさえ重くて立っていられず、倒れるように砂浜にひざまずいて両手を地面に付いた。

 久方ぶりに彼の目から出た涙は、絶えることなく砂浜に落ちては沁み込んだ。

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