第19話 冬の獣人
詩人がこぞって詠う最も美しい季節。花は咲き誇り、空気にはふんわりと芳香が混じる。
皆が心浮かれる春たけなわだというのに、ルシウスの心は全く晴れず真冬に逆戻りしていた。
気が付くと、海辺にユリアがいないかベランダに出て確認している。いるはずもないのに目が彼女の姿を探してしまう。耳が波音の中に混じっているかもしれない彼女の声を拾おうとする。
いないのを再確認するたびに深い暗闇にぐいと飲み込まれそうで踏みとどまる。
(俺はこれから先ずっとこのように何度も絶望しながら生きていくのだろうか…たまらんな)
そんなこんなで食事は喉を通らないし仕事が手につかない状態が1か月続いている。なんならこのまま死んでもいいのかとも思うほど無気力になっていた。
「ルシウス様、どうかこちらだけでもお召し上がり下さいませ」
マルクスが少量で精が付くものを作らせては部屋に運んでくれるが、無理に流し込む一口目しか喉を通らなかった。後はすぐに戻ってきてしまい吐いてしまう。
心配する老執事がルシウス以上にやせ細ってきたのを見るにつけ、なんとかせねばと思うのだが、ルシウスにはどうしようもなかった。
「ルシウス様、ローマのご実家から手紙を預かってまいりました」
ローマ軍時代の元副官で、今は仕事の部下だあるティトゥスがやつれた主人に驚愕つつ実家からの手紙を差し出した。ラエリウスや取引先との手紙もあるので結構な量だ。
彼は1ヶ月以上に及ぶ商隊から帰ってきて、ルシウスの部屋にいるのだが、ユリアがせっせと世話をしていた別荘の庭が真っ盛りに咲き誇るのが主人の部屋から見えて余計に切なく感じた。ユリアの置き土産を何とも言えない表情で毎日眺めているであろう主人に心を痛める。
ティトゥスは二人が両思いなので一緒に住むうちにうまくいくだろうと高をくくり、からかい半分祝福半分の目で見ていたのだが、自分がいないうちにユリアが別荘から追い出されルシウスが病人のようにやせ細っていたので驚いた。
てっきり諸国商売行脚から帰ってきたら二人が恋人になっていると期待していたのだ。その上執事の老マルクスまでもがフラフラしているではないか。
(ルシウス様への尊敬で過信したっス…!こんなことになるなら、もっと相互理解が進む様に立ち回っておけば良かった…しかし、あれほどユリア様に好かれまくっているのに気が付かないなんて、私の敬愛するボスはなんて
「ふん、今更実家など知るか!おうっ…こ、これは…」
ティトゥスはラエリウスに頼まれてユリアの家にも寄り、彼女の相変わらずのルシウスへの思慕を目の当たりにした。彼女がルシウスを全く諦めてはいない様子だったのが大きな光明で心強い。
そして手紙を預かってきた。ユリアからアガサ宛。
そして、ラエリウスの指示通り、主人への手紙に紛れ込ませた。
案の定、ボスはユリアの筆跡を手紙の中に見つけて心臓を酷く傷めている。思わぬ衝撃に椅子に座っていられなくなったルシウスは、手紙の束をぐしゃりと握りしめたままソファーに移動してどかりと倒れ込んだ。
彼は震える手で封筒をよく見た。それが自分宛ではなくアガサ宛と知って明らかに落胆しうなだれている。
「一人にしてくれ…」とルシウスは顔を大きな手で覆い、枯れた声を絞り出した。
「はい、ルシウス様」
(なんてわかりやすい人っスかね…ラエリウス様の作戦にまんまと引っかかってくれそうっス)
ティトゥスはひそかにニヤリとし、仕事の資料を持って部屋を出て一階に向かった。耳のいい主人だ、廊下にいたらすぐにバレてしまう。
春の
そして、そうでなければボスはこのまま痩せ細って死んでしまうかもと思い、背筋をぞっとさせた。
ローマに帰ったラエリウスは親友ルシウスとユリアの為に嫌々だが動いていた。もともとこういうのは向いていないのだが仕方ない、親友の為だった。
まず、ルシウスの父に息子夫婦の離婚を勧めた。家長の許可なしでは結婚・離婚は出来ないからだ。
夫婦の不和を知っている上にラエリウスを信用しているルシウスの父は、カツラがちゃんと乗っているか確認するように撫でながらしぶしぶ承諾した。
そして次にラエリウスはルシウスの妻に、『子供がルシウスの種ではないと知っている。黙ってるし悪いようにはしないから離婚に同意するように』と密かに申し入れた。彼女には長い付き合いの金持ちの恋人がいて、彼と再婚したいのもお見通しだった。
案の定、彼女は提案に飛びついた。離婚・再婚は不名誉でも珍しいことでもない。その上、ルシウスは獣人である。彼女の父も離婚を望んでいるのは明らかだ。
あとは、ルシウス本人がローマの父に離婚を認めてもらうことだった。これが一番の難問だ。
ルシウスは自分をはじき出したローマとスキピオ一族を心底嫌っているので、対面させるのは難しいだろう。しかし、ユリアをこっそり見られるとあればルシウスもローマにも来ると確信していた。
「これはアガサ宛だ。紛れ込んでいたぞ」
夕食の席でルシウスは何でもないようにティトゥスに一通の手紙を渡した。
何度となくユリアが書いたであろう文字を穴があくほど見て撫でながらため息をつき、彼女がこれを書いている場面を思い浮かべていたのはおくびにも出さなかった。
主人に食事を取る気力が出たので、執事マルクスも厨房も大喜びだった。机には料理人が腕によりをかけた、しかし胃に優しい食事が並ぶのを見るだけで、ルシウスが使用人に愛されているとわかる。
そう、ルシウスが女性にモテるところを見たことがないが、やたらと同性には信頼されて頼られる人だった。ティトゥスはそんな男たちの気持ちがわかるのだ。
ティトゥスは戦場でも今の仕事でもルシウスが後ろにいると思うと何も怖くないし何でもできる気がする。ルシウスから絶大な信頼を受けている、と自覚して生きられるのはなんと幸せだろうと思うのだ。
「申し訳ございません、アガサ宛でしたか。見事に男性的な筆致でしたので、ルシウス様宛と勘違いしました」
ルシウスはティトゥスが彼女の太い字を男らしいとからかいで褒めたのにも気が付かず、胸と目頭がぼうと熱を持つのがわかった。彼女が姿勢よく手紙を書く姿が彼の頭に浮かんだ。もうすでに隣にはガイウスが用意した婚約者がいるのかもしれない。想像さえも彼を苦しめて仕方なかった。
「…部屋に戻る」
少しでも夕食に手をつけた主人を嬉しそうに眺める老執事のマルクスは、痩せてしまって顔のしわが目立つようになっていた。彼はいつものように主人に尋ねた。
「お部屋に海水で割ったワインをお持ちしましょうか?」
「いい。それよりティトゥスよ、早くアガサに手紙を渡してやれ。きっと喜ぶ」
執事と主人、二人そろってやせ細った世紀末的光景に身震いしながら、ティトゥスは素直に答えて立ち上がった。
「わかりました」
ティトゥスは調理場にいたアガサに、仕事は片付けが終わったらもう今日はいいのでユリアから来た手紙を恋人に読んでもらう様に言った。アガサは字が読めないのだ。
ギリシアのポリスでは、国家として子供の教育に責任を持った。
しかし、ローマでは元来教育とは個人的・家族的なものであって、国家が干渉するものではないと考えられていた。よって、学校はあったのだが、公的なものではなく、家庭教育の補助的な役割に過ぎなかった。教師の地位も甚だ低く、奴隷出身者がなるものだと考えられていた。
アガサの部屋はルシウスの真下の部屋(ユリアがいた部屋)に隣接する小さめの部屋だ。
「えー、ユリア様の婚約者を選ぶ仮面パーティーっ!?いつ?え、来月?そんなぁ、私もユリア様の美しい晴れ姿を見たいよぅ~」「そうさな、きっと美しいだろうよ。それにアガサのデザートをお嬢様はきっと食べたいだろうしな…」「ううう、お嬢様ぁ…会いたいよぅ…」「アガサ…きっとまた会える。だから泣くな」
ルシウスは階下の恋人たちの声をじっと盗み聴きしながら、自分の精巧な耳を疑えない辛さで獣の頭をかきむしった。情報が間違いであってほしいが、ユリアの普通の結婚は彼が望んだ事なので喜ぶべき事なのだ。
しかし仮面パーティーだと?ガイウスらしくない。お洒落なローマっ子か、と一人心で毒づいた。
「パーティーは来月1日だと書いてあるな。お嬢様もお可哀想に…きっと嫌だろうが、お父上に勧められているのだろう」とまた階下からアガサの恋人の声が聞こえて胸が激しく騒ぐ。2週間後だった。
心臓が破裂して飛び出すかと手で思わず胸を押さえつけた。
手のなかにいた彼女を離しただけで毎日身体が千切れそうなのに、来月早々に彼女が結婚相手を決めるのだ。運の良いその男をバラバラにしてやりたくなる。
確かに、ルシウスは以前からガイウスを見知っていたし、カルタゴからローマに同行した際に話したが、獣人のルシウスを恐れない豪胆な人物で尊敬に値する人物だ。しかしあまり人の裏を見極めるようなタイプではない。
事前に父親が調べてオッケーを出した男性がパーティーに参加するのは目に見えている。ということは…最悪の事態をルシウスは思い描いてしまい思わず床に膝を付いた。
「くっ…しっかりしろ、おまえが選んだ道だろうに!」
断末魔の獣のように床に
彼女がろくでもない男性と結婚して酷い目に合う光景が脳を支配する。彼女が素晴らしい男性と結婚してルシウスの存在をすっかり忘れ、幸せになるほうが苦しいけどずっとましだ。
そして、先ほどの手紙で父親からの呼び出しがあったのだと気が付いた。そこにはあの妻が信じられないことに離婚に応じているとあった。ずっと彼女を憎憎しく思っていたが、今では可哀想な事をしたと思う。
「
下の階からは二人の幸せそうな声が聞こえる。先月まではユリアが共に笑っていたのだ。
「一目だけ…ちらりと見るだけでいいのだ。そしたらこの酷い渇きも癒え元の生活に戻れる、はずだ…」
自分に言い聞かせるように呟くルシウスは、彼女の笑顔を想像した。それだけで魂が消え入りそうなくらい幸せな気持ちになる。
そして大切にしまってある桜貝のブレスレットを箱から取り出し慎重に触った。
彼が出て行けという前に彼女が作ってプレゼントしてくれたもので、もろい貝で作られている為、特注の立派な箱に入れられて鍵がかけられていた。
その箱の中には氷のように透明な水晶のネックレスも大事にしまわれていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます