第14話 招かれていない客
「どうだった?」
明るいアトリウムでいたずらに灰色の瞳で微笑むラエリウスを、ルシウスがぎろりと
ユリアには「おまえを買ったのはただの気まぐれだ」と言い放ってベッドに置き去りにした。しかし手ごわい彼女だ、あの様子では到底納得しないだろう。
「ラエリウス、おまえ彼女を気に入らなかったのか?彼女は頭もいいし、優しくて芯が強い。器量もいい。何の不満がある?」とルキウスは不本意だと言わんばかりに聞いた。
まるで大事でたまらない宝物をやると言っているのに断られた子供のようで、思わずラエリウスはプッと吹き出した。
「ルシウスこそ、僕にコーネリアをあてがおうと企んでここに誘ったくせによく言うよ。確かに彼女は魅力的だ。多くの男があの思慮深い青い瞳に夢中になるだろうが、僕は無理だよ」
「何故だ?」と大事なものをけなされたように感じたルシウスは声を荒げた。しかしラエリウスは慣れたもので、彼をあわれむような灰色の瞳でまっすぐ見つめた。
「…おまえわからないのか?親友が愛しいと思っている女性に手を出せるわけないだろ?」
ラエリウスの思わぬ急所への一撃にルシウスの血液が一気に逆流した。
「なっ!バカを言うな!!い、愛しいなどと…そんなわけがない。俺はこんな頭なんだぞ?化け物だ!彼女をそんな風に想う資格なんて…それに、妻も子供もいる…」
はあ、とラエリウスはため息をつき、悲しそうに灰色の瞳が揺れた。
「父親にあてがわれた妻になんて全く興味もないくせによく言うよ。あの女を何回抱いたか覚えてるのか?僕が知る限りおまえが彼女の元で夜を過ごしたのは最初の一回きりだ。子供だっておまえが引け目を感じて何も言わないのを彼女はわかってて利用してる。そうだろ?」
「知っていたのか…」とルシウスは俯いた。
ルシウスは戦場から帰っても妻の待つ自分の部屋には戻らず、父と政治や軍事的な相談をしているか、目の前のラエリウスとこの海辺の別荘にきて貝殻を拾ったり狩りをして休息をとっていた。
知らないうちに増えていく家族に戸惑いつつも、子どもは可愛いので妻の浮気の結果だと口にできないでいた。
そもそも思慮深さや優しさがかけらもない派手な妻とは初めて会った時から気が合わなかった。
長くて真っ直ぐに整えられた燃えるように赤く染めた髪、褐色の肌に黒い目。細く腰がくびれたしなやかな肉体。猫のような歩き方。彼女は自分自身にしか興味がないようにルシウスには見えた。それは家やローマの為に戦って生きるルシウスとは正反対で、軽蔑すべき生き方でもあった。
鏡で自分の美しさを確認しているか、着飾って外で男性の目を集めるために魅力を振り撒くか、ルシウスに
初めて会った婚約式ですでに合うわけがないと気が付いていた。しかし、それぞれの家長が政略的に決めたことに逆らうつもりもなかった。
彼女は最初、スキピオ一族内に自分の居場所を作るために必死で子作りをせがんだ。しかしルシウスは彼女を抱く気になれなかった。あまり女性の好みを考えたことがなかったが、あえて言えば妻は彼の好みの正反対だ。我が強く打算的で金儲けに熱をあげる女性。自分だけを愛する女性。
彼女は屈辱にまみれ他の男に走った。そして、発病して獣人となったルシウスに復讐した。当然の結末だとも思う。
『私と子どもに近寄らないで、このけだもの!私の家に災厄を持ち込むな!』
それが彼女から自分に向けての最後の言葉だった。そして、それは父を含む一族全体の意見でもあった。
妻の甲高い悲鳴のような罵倒を思い出しながら自分の部屋に戻ると、ルシウスは背後に圧迫を感じて振り向いた。小さなころから一緒に育てられ、15歳で正式に父の養子となった弟のプブリウスが黒い目に怒りを湛えて兄を睨みつけていた。
「プブリウス…すまなかった。すべてをおまえに投げつけてローマを逃げ出すような恰好になってしまい、申し訳ないと思っている」
ルシウスはプブリウスと二人きりで話した。執事マルクスは空気を読んでさっさとどこかに行ってしまった。
プブリウスは人が変わったように穏やかになった兄に驚きながらも、どうしてもルシウスの口から直接答えを聞きたかった質問をした。
「兄さん、もうローマには戻ってこないのか?スキピオ家はどうするんだ」
「それを聞きに来たのか?おまえらしいな…俺はもう家には二度と戻らないつもりだ。スキピオ家はおまえが家督を継げばいい。父が納得する以上の満足な戦果をあげているのだろう?」
それを聞いてプブリウスは今まで兄に遠慮して見せたことのない勝ち誇った笑みを浮かべた。
彼は何をしても兄には勝てなかった。
元々いとこだったが、スキピオ家に体格の良さを認められ、一人っ子のルシウスと兄弟同然で育てられた。しかし勉強はもちろん剣や兵術でもすべてにおいて兄が勝っていた。その上戦争では戦果はほとんど上官である兄のものだった。
家では次の家長は自分だと言わんばかりにいつもインテリぶって本を読んでおり、そのうえ剣の腕前、胆力、軍を引っ張る力、戦術においても優れ、戦場では『戦場の雷鳴』と称されるほどの機敏な動きで敵を次々と撃破した。自軍から頼りにされ、敵には酷く恐れられて常に一目置かれる存在だった。
要するにいつも自分より一つ上の段にいた兄がうっとおしくて仕方なかった。
「あっはは、ザマあないな!もう以前のような力は見る影もないようだな。ではオレがスキピオ家を頂こう。一筆書いてくれ、父に見せる」
ルシウスは黙って引出しから便せんを出し、さらさらと書いたものを封筒に入れ、弟に渡した。プブリウスは遠慮なく封筒から出して読み上げた。
「ふうん。『私ことルシウス・コルネリウス・スキピオは、病気の為に隠遁する。すべては弟であるプブリウス・コルネリウス・スキピオ・アエミリアヌスに譲る。ただし、カンパーニア地方のスキピオ家の別荘と領地は買い取ることとする』かあ。わかった、この別荘と領地は兄さんに譲る。父に遺言に書くよう話しておいてやるよ。じゃあな、兄さん。完全に獣になっちゃっても元気でね」
ルシウスがいつものように弟の挑発を無視していると、プブリウスは調子に乗って失言を犯した。
「で、あのコーネリアちゃんはどこで見つけてきたの、親戚だなんてラエリウスに嘘までついて。獣化のことは言ってないんだろ?兄さんの頭じゃ怖がられるだろうし、オレが買い取ってローマで性奴隷として抱き潰してやろうか?」
言ってからふいと背中を向けようとしたが、ビリッと空気が震えた。死の恐怖を本能が感じて足が動かない。
いつの間にか目の前に兄の獣頭があり恐怖で「ヒュッ」とプブリウスの喉が鳴った。
「あの娘に手を出してみろ、おまえの身体を千の肉片に刻んで生け
今にも手を伸ばして実行しそうな兄に対して、プブリウスは必死で動かぬ足を引きずり距離を取った。
「じょ、冗談だ!悪かった」
「フン、わかればいい」
ルシウスはまた机に向かい、仕事を始めた。
弟に対する全く興味を失ったかのようだったが、彼は弟だけでなくスキピオ家にも未練も興味もなかった。あれほど恨んでいたのにと自分でも思う。
プブリウスは別荘を大股で飛び出し、待たせていた馬車に乗り込んだ。
またしても兄との格の違いを見せつけられてギリリと歯噛みして大きな手をギュッと握りこんだ。
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