第21話 剣闘試合

「わしが悪かった…許せ」


 ルシウスがローマの両親を嫌々ながらも訪ねると、思ってもいない言葉を父からかけられて面食らった。


 そういえば、道を歩いていても以前よりじろじろフードの奥を覗き見られることが少なくなっていたし、驚いたことに獣化した手足などの部分を出して歩いている者までいる。

 それだけ病気がこの世に馴染んできたということだろうかとルシウスが考えていたが、父は先回りして息子に教えた。


「ローマの法律で獣化した市民を差別するのは禁止となったのだ。もちろん忌避する空気は残ってはいるが、あからさまに暴言を吐いたりなどはできない。わしらは酷いことをおまえに言った。すまなかった…」


 法を順守するのはローマ市民の美徳であった。

 そして父はこうして獣化した息子に会っているのが伝わって、ルシウスはげんなりした。その上彼は薄くなった髪を隠すためカツラなど被っている。


(カルタゴを打ち破った大スピキオの実の息子がカツラだと!なんと情けないことだ!!)

 

 幼少より父の後ろをついて歩き、ローマ人たることを教えてくれた父はルシウスにとって躍進する大ローマそのものだった。

 幼い頃から無意味な体罰が伴う教育にも耐えた。学んだことはすべて暗記し、生徒から先生への質問は一切受付けられない。疑問や理由を聞いてもまた殴られるだけで、体罰に泣くことはおろか、うめき声さえもあげるのを許されなかった。そのようにして勇猛果敢なローマの戦士が作られる。

 それもすべて大ローマと尊敬する父の為だった。


 しかしその幻想は打ち砕かれた。


 それに比べ、ユリアの父ガイウスは元老院で奮闘して獣化した人間の差別を抑制する法律を作ったとアエリウスから聞いた。

 ガイウスは恩があるとはいえ赤の他人であるルシウスの為に動いたのだ。実の父親の自分に対する仕打ちとはあまりにかけ離れた尊敬すべき振舞いだった。


 あまりに表面的な父親の変心にルキウスは正直がっかりしていたが、もし自分が父の立場だったらと思うと全く責められない。痛みを知らぬ傲慢な以前の自分であったら発病した父を迷いなく家の為に父をローマから追い出したであろう。

 信じるものを失った今、家督を継ぐのは弟でも誰でもよかった。もう見栄や意地を張る必要もない。何かの為に生きる必要もない。

 ユリアがそばにいないならばどれも同じく空虚な人生なのだとわかってしまったから。


 結局父は病気を恐れて実の息子に触れることもなく、親子は表面的に和解した。ルシウスの妻との離婚は役所で速やかに承認された。顔を合わせることもなかった。


(できたら妻に一度会って詫びたかったが…)


 以前のルシウスならちらりとも思わなかったであろうことを考えていた。

 ふと馬車に乗る前にやせ細った花売りの少女が目に入った。ルシウスは彼女の持つオレンジと薄い黄色のバラを籠ごと買い取り、実家の玄関の前に置いた。


 心が躍るような春の匂いは愛しい人を否応なく思い出させる。


 手が獣化した花売りの少女は思わぬ幸運に驚き、嬉しさで目に涙を浮かべていた。




「なあ、ルシウス。今夜、あのガイウス・ユリウス・カエサルが有名なパーティープランナーを呼んで広大な家屋で仮面パーティを開くそうだ。誰とは言わないが、魅力的な彼の娘が婿探しをしているとローマっ子の間で大評判だ。せっかく離婚が成立したんだし、気晴らしに行かないか?ガイウス将軍にあやかりたい名だたる未婚の貴族と、彼らを物色する女性が集まるから見ものだろ?顔を隠せるからおまえにはもってこいだし」


 親友ラエリウスの家をルシウスが訪れるやいなや、開口一番で誘われた。


 一目でもユリアを見たいと強く思っていた彼は、ゆっくりぜんまい仕掛けの人形のように深く頷いた。チャンスを断るという選択肢はひとかけらもなかった。

 

 ラエリウスはにやりと笑い、意外に素直なルシウスの肩を思いきり叩いたが、彼の分厚くて頑丈な身体はびくともせず、ただラエリウスの手の痛みが残った。




「これでは少し派手で軽薄ではないか?…もっと、こう…」


 店主のイチオシのパーティ用トゥニカは、凝った織りで作ってあった。その上、高貴な身分の象徴である紫色の生地は豪華で色彩豊かであった。上着はこれまた紫色で、アカンサスを全面に金糸で刺繍した見事なマントだ。


(獣人が着るには目立つし豪勢極まるな…)


「いや、これが最近のローマの流行だぞ、知らないのか?」とバカにしたようにラエリウスが言う。


「そうでございます、とてもお似合いで!」となじみのすらりとした仕立て屋の店主が以前と変わらない様子で言う。ルシウスが獣化しても驚くどころかまったく関心がないようだ。

 そばにはいつも見目麗しい若い男子をアシスタントで使っている。

 相変わらず人であろうと獣人であろうと、服がその者に似合うか似合わないかだけが専らの関心である変人店主に安心した。似合わない時ははっきり言うので好みが分かれるが、おべんちゃらを言わない美意識の高い彼をルシウスは気に入っている。


「流行など知らぬ。いい、店主おまえに任せる」


 ルシウスはパーティ用の衣装をしつらえた。ユリアがいなくなってから1か月、痩せてしまっていた。


「ユリアに会えるのか…相変わらず美しいのだろうな…一目でよい…ユリア…」


 鏡に映る痩せた自分の姿を見ながらも、口からは彼女の名前が漏れていることさえ気が付かないくらい頭がユリアの事でいっぱいだった。その間に店主は夕方までに仕立てられるよう、詰めたりする箇所を素早くチェックしていた。




 その日の夕方、ルシウスとラエリウスがカエサル家につくと、まわりは送迎の馬車でごった返していた。まるでお祭りだ。


「へぇ、さすが流行りのパーティープランナーだな、皆が評判を聞き付けて集まってる。僕たちも紛れたってわかんないよな、ルシウス?」とラエリウスはシンプルな黒の面をつけてにやりとした。


「ま、まさか招待されてないのかっ?全く、困ったやつだな…」


 ルシウスはすでに上の空でソワソワと自分の顔の上半分を覆う黒豹の仮面の位置を調整したり、馬車の窓から外を眺めていた。黒い帽子と仮面を付けると獣化しているなどわかりっこなかった。

 真っ赤の宝石だらけの派手な仮面をつけている者や、卑猥なレースの透ける仮面のものもいる。長い赤髪を編み込んで仮面を作っている奇抜な者もいて見飽きない。


「さ、行こう」


 車寄せに止まった馬車から二人はひらりと降り、人の流れに沿って庭に向かった。そこで二人は度肝を抜かれた。

 聞きしに勝るカエサル家の広大な庭には円形闘技場の縮小版が作られていた。剣闘士がすでに剣を交えて激しく戦っている。ルシウスは反射で騒ぐ血を押さえ、目立たない柱の影に移動し、パーティーを眺めるふりをしてユリアを探した。


(いない…屋内だろうか)


 彼女がどんな仮面を被っていようとも、ルシウスにはすぐに見つけ出せる自信があった。

 果たして、剣闘士の試合が終わると雨のように勝者にチップが投げ込まれ、ゴールドの房飾りで装飾された緋色のトガを着たガイウスと同じく身体にぴったりした緋色のドレスのユリアが拍手しながら屋内から出てきた。二人は白狐のお面を装着している。

 そして驚くべきことに二人の横に弟のプブリウスが付いているのを見て思わず声が出た。トラのお面を着けているが、間違いなかった。


「どういうことだっ?!」


 ルシウスは目を疑ったが、もちろんそんなことはお構いなしに闘技場の真ん中でガイウスが挨拶をした。 ユリアの隣にはプブリウスが違和感なく寄り添っていて、すでに婿殿の風格だ。

 ルシウスの胸は焼かれているように熱くなり、見たくないのに目が縫いついたように二人から離せない。これなら拷問の方がましだった。ガイウスがユリアの相手にプブリウスを選んだということだろう。

 ガイウスの挨拶の内容も驚くべきものだった。


「今夜はよく来て下さった。パーティのハイライトは私と挑戦者との戦いだ。我こそはこの娘を手に入れたいという者よ、剣闘試合に名乗りを上げよ!勝ち残って私に勝てばこの家も娘もその者のものだ!」


 夜空が割れんばかりの咆哮ほうこうが上がり、瞬く間に受付には長蛇の列ができた。先頭には当たり前のようにプブリウスが陣取っている。


 しかしルシウスは騒ぎをよそにユリアに目が釘付けになっていた。


 彼女は父と揃いの緋色に金糸の刺繍が施された絹の衣装をまとっている。ギリシア彫刻のようにまろやかな身体の線が出て良く似合っており、白い生花がまき散らされた金色の髪はふわりと編み込んで顔の周りに効果的に添えられている。その様はまるで神々の女王ユノーそのもので、ルシウスはうっとりと見つめていた。

 今は遠き彼女が、先日までそばにいたとは信じられなかった。

 一目見るだけのつもりが、その柔らかい手に優しく触れたいと強く願っている。そして自分のマントを着せて他の男にユリアの美しい身体の形がわからないようにしたくて歯ぎしりした。



 柱の影から彼女を見つめるルシウスをやっと見つけたラエリウスは、


「おい、ルシウス!プブリウスだけじゃない、アイツがトーナメントに申し込みしているぞ。おまえが大嫌いなヘッポコ将軍が!」と息を切らして報告した。人ごみの中ルシウスを探していたのだ。


「なにっ、まさかデキムスがっ?!」


 トーナメントにデキムスがいるという事は、何か卑怯な手段で勝ち上がってくるだろう。しかし、デキムスはユリアの父、ガイウスより戦闘力が段違いに格下なのは明らかだった。その上プブリウスがいる。

 常に最前線で敵と剣を交えるガイウスやプブリウスと、自分だけは最も安全な場所を確保して安全な闘いに挑むデキムスとでは勝負にもなるまい。


「そうか…しかし、ガイウス殿であればデキムスごときに敗けはしない。彼に勝つような者なら俺も諦めがつくしな」


 普通に考えればこの剣闘トーナメント自体がガイウスの意向でプブリウスの為にあると思わなければならなかった。弟ならば仕方ないと自分に言い聞かせながら、ユリアを柱の影から夢中で覗き見ている。


 その様子では全く剣闘試合には出る気はなさそうだ。


(まさかルシウスが出ないっ…?なんてこった…!)


 目論みが外れたラエリウスは、ユリアの自分へ向けられるであろう怒りを容易に想像して心底焦った。

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