六 内海

 赤松と葦火は、夜半に原辻に着いた。

 月読の館からは遠く離れたところだ。船を迎え入れる遠浅の内海から、洲の内陸へとつながる幡鉾川はたほこがわのほとりだった。

 月影を跳ね返す水面の脇に、男が佇んでいた。焦がれるほどに再会を願った相手だ。


「青嶺」


 葦火が駆け寄ると、青嶺は心底からほっとした様子で、強張った胸から安堵の息を吐いた。まるで目の前に彼女がいることを確かめるように、彼女の肩を抱き、髪を撫でた。彼が触れたところにだけ、甘い熱が宿るかのような感覚に見舞われる。緊張と恐怖に固まっていた胸がほぐれる。

 だが安穏と過ごすことはできないようで、青嶺はすぐに身を引き離した。彼は単刀直入に言った。


「洲を出よう」


 葦火はきょとんとした顔で青嶺を見つめた。

 驚きは、あると言えばあった。まさか彼の口からそんな言葉が出るとは。

 だが、躊躇いはなかった。でも、互いに寄り添って生きたいと願うなら、方法はただ一つだった。

 そう、一つだけあったのだ。今まで気づかなかったのは、奇妙なことだったけれど。


 選択が残されているのなら、とらない理由は一つもない。葦火は、冷たい空白を埋める欠片がようやく見つかったように感じる胸から、深い息を吐いた。そして、青嶺の顔を見据えると、ごく自然な動作で頷いた。

 青嶺が言った。


「小舟を隠してある。それに乗って内海うちめまで」


 もう一度頷いてから、葦火は赤松に向き直った。


「兄様、ありがとうございます。でも、どうして」

「葦火が望んだことだからだ」


 迷いなく赤松は言った。鬼気迫る表情に気圧され、葦火はそれ以上のことを訊けなかった。


「さあ」


 促されて、葦火は小舟に乗り込んだ。青嶺も続く。


「内海までは見届けに行く。まだお前たちを信用していない」


 赤松はそう言って、葦火の隣に乗った。青嶺が綱を解くと、川の流れが緩やかに彼らを内海へと流し始めた。

 伊伎の湊は、遠浅の内海だ。大きな船は内海の途中までしか入ってこられないので、原辻まで行くには小舟に乗り換える必要がある。今も内海には、伽羅国からくにから来た船が泊まっているのだと言う。


「この舟を横に着けて、伽羅国の船に乗せてもらう。話はつけてある」


 青嶺が淡々と言った。


「だが、内海に潮が満ちるまでは船に近づけない。東雲しののめまで、此処で潮を待つ」


 河口近くの物影に舟をもやいながら、赤松が頷いた。今は引き潮なので、船に辿り着くまでの間に舟底がつかえてしまうところがあるのだという。内海には、引き潮の時だけ歩いて渡れるようになる小島もあるらしい。

 生まれてからほとんど香良加美だけで過ごしてきた葦火は、ただ感心しながら青嶺の説明を聞いていた。伊伎洲いきのしまの中だけでも、知っていることにこれほどの違いがある。まして月読方は、伽羅国や他の洲々との交易を担っている。


 自分が目に捉えている物事は、青嶺に比べると何と狭い範囲のことなのだろう。今更ながら当惑し、心許ない思いに襲われた。青嶺は葦火の当惑を知ってか知らずか、ただ静かに傍にいてくれた。

 東の空が朝焼けに染まり始める頃、青嶺は綱を解いた。内海に出ると、遠くに船影が見えた。


 比較的水の浅い箇所に差し掛かると、赤松は舟を降りた。葦火は唇を噛みしめて、兄に言うべき言葉を探したけれど、幼い頃から一緒に過ごした思い出が去来するばかりで、唇を開くこともできなかった。


「無事を祈るぞ。どこへ行くかは、訊かない」


 赤松の言葉には、葦火に代わって青嶺が頷いた。行き先を知ってしまえば、口を割らされ、葦火たちに追っ手がかかるきっかけになってしまう。だから最初から知ることなしに送り出そうと言うのだった。彼は、握りしめていた短剣を葦火に渡すと、舟を降りた。

 兄は膝までを濡らしながら、内海を歩いて行った。鏡のような海面は、天上の東雲を映して真っ赤に燃えるようだった。


 舟もまた、伽羅国の船影へと凪いだ海面を進んでいった。船に引っ張り上げられると、知らない言語を話す伽羅国の男たちがきびきびと立ち働いている。

 青嶺は、こちらの言葉を解するらしい首領に告げた。


「風が穏やかで、潮も申し分ない。すぐに出よう」


 首領は頷き、数十人いる水主かこたちに、位置につくよう指示した。青嶺と葦火は船尾に身を寄せた。

 不思議そうに青嶺を見上げる葦火に、彼は微笑してみせた。


「この船に、秋津洲あきつのしままで連れて行ってもらう。筑紫洲ちくしのしまでは行き来が多すぎて、すぐに足がついてしまうから」


 葦火は瞠目した。伊伎の南にある広大な筑紫洲は、行き交う船の大多数が足を延ばし、あるいは帰る場所である。伊伎から遠くないこともあって、噂が聞こえてくることも多かった。だから何となく、筑紫洲に渡るのだろうと思っていたのだ。

 いっぽう秋津洲は、筑紫洲の東に横たわる、筑紫洲よりはるかに広大な洲だ。いったい何があるのか、誰が住んでいるのか、葦火は全く知らなかった。


「とても遠いところなのではない?」

「筑紫洲よりは遠い。だが、潮に乗ればほとんど変わらぬ日子で着ける」


 何でもないことのように言うが、潮に乗るとは簡単にできることなのだろうか。葦火の疑問を見抜いたかのように、青嶺は付け加えるように言った。


「今の私には、潮が読めるのだ。月読の神宝かむたからの力を借りているから」


 青嶺が握っていた手を開くと、白い勾玉が載っていた。うずくまる赤子のような輪郭だ、と葦火は思った。頭に当たる丸い部分には穴があり、赤い紐が通されている。


「そんな、大切なものを」

「神々の末裔を助けるための神宝なんだ。今こそ私たちを助けてくれるはずだ」


 淡々と、だが確かな口調で青嶺は言った。葦火が手に持っていた赤松の短剣の柄、環になっている部分に勾玉の紐を括りつけた。


「大丈夫だ。必ず、生きていける地が見つかる」


 覚悟に満ちた口調に葦火もゆっくりと頷いた。先のことはまったくわからないけれど、青嶺が自分を選んでくれただけで、充分だと思えた。彼といると胸の奥に灯る温かい光が、きっとこの先も葦火の拠りどころとなってくれる。




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