七 青葉潮

 郷里に最後の別れを告げようと、葦火は背後の洲を振り返った。

 潮の満ち始めた内海は、鏡のように滑らかな表面に暁の光を湛えている。初めて船の上から洲を眺める葦火には、ためいきが出るほど美しい眺めだ。しかも、この光景を青嶺の隣で目にできるなんて。


 ところが、不意に視野に飛び込んだのは、遠い浅瀬で誰かが揉み合う姿だった。小さな人影を目を細めて見やると、それが赤松と、あの男――鯨人いさとであると知れた。


「兄様!」


 叫んで身を乗り出そうとした葦火の肩を、青嶺が掴んで止める。手に短剣を握りしめたまま青嶺の力に抗おうとした時、遠い刃のきらめきが目に入った。

 鯨人が、赤松の体に斬りつけたのだ。顔から血の気が引き、すべての考えが止まった。

 鯨人はよろめく赤松の手を振り払い、こちらに顔を向けた。船に向かって何かを叫ぼうと、肩で大きく息を吸ったのだとわかる。


「やめて」


 呟いたその刹那、葦火の指に冷たい勾玉が触れた。

 紅の朝焼けに燃える空から、耳をつんざく雷鳴が鳴り渡った。あまの原から、瞬きするより速く、白い閃光が駆け下った。葦火には、稲妻が寸分の狂いもなく、鯨人の手にした刃物に落ちるのが見えた。


 絶句する葦火と青嶺を載せて、船は外海へと進んだ。水主かこの動かす櫂が海を掻く音だけが、しばらく耳に届いていた。

 棒立ちになった鯨人の体がやがて浅瀬に倒れ伏すまで、葦火は凍りついたように動けなかった。鯨人の隣では、赤松が上半身だけを起こした姿のままでいた。傷を負ったまま動けないのかもしれない。だが生きている。


 葦火は御雷みかずちの神のすえである。月読の神の末裔と違い、いかずちの民に神宝かむたからなどない。

 しかし、稲妻こそが自分たちの神宝なのだと、小さな頃に聞いた。今まで神鳴かみなりを呼んだことなどなかった葦火は、今初めて、雷鳴を呼び寄せたようだった。

 二人のはるか向こう、原辻のほうから、月読方の追っ手たちが駆けてくるのが見えた。何人かは鯨人に駆け寄り、何人かは原辻に事態を知らせるためか、駆け戻って行った。


 戦慄する葦火の肩を、青嶺が抱いた。慰めるように、彼の指が髪を撫でた。

 その時葦火は、ゆうべ短剣を振りかざした後に、自分の髪に触れた赤松の手が、青嶺と同じ熱を持っていたことに気付いた。まさかとは思ったけれど、否むことは難しかった。そう考えれば、これまでの赤松の行動にすべて説明がつくからだ。


 彼が想いを殺して葦火を逃がしてくれた以上、洲に戻ることは二度とできない。


 短剣に兄の温もりの残滓を探すように、葦火はいつまでも短剣を握りしめていた。





 葦火と青嶺の乗り込んだ船は、出雲国は宇禮保うれほという湊に向かっていた。


 しかし、途中で嵐に見舞われ、陸に避難することを余儀なくされた。彼らが束の間世話になった小さな村では、働き手が足りず困っていた。また、不漁に悩んでもいた。葦火と青嶺は、当初の目論見とは違ったけれどその地に留まり、伽羅国からくにの船とは別れた。

 伊伎洲いきのしまから追っ手が来ることはなかった。大きな湊で降りず、本来立ち寄るはずのない村に居ついたことが、奇しくも功を奏した。誰も彼らの足取りを辿れなかったのだ。


 夫婦になって幾年か、倹しい暮らしを送った。二人の子が生まれて、いずれも男だった。一人は葦火に、一人は青嶺によく似ていた。

 ある春に、葦火は三人目の子を産んだ。夕星の出る頃に産気づき、暁月が顔を出す頃に産声が上がった。今度は娘だった。


 青嶺は遠くから産声を聞いて歓喜したけれど、赤子を連れてきた村の女の顔は険しかった。彼女は青嶺に、子どもが女であることと、葦火が娘を腕に抱くことはできなかったことを告げた。

 絶望に言葉を失いながら、青嶺は初めて娘を抱いた。東雲しののめの頃で、月がまだ西の空に残っていた。

 葦火の命と引き換えに生を享けた娘は、何か耐えがたい苦しみでもあるかのように、全ての声を張り上げて泣いていた。朝焼けの薄紅の陽が、赤子の肌をさらに赤く照らし出していた。


 遠い海に、空を裂いて雷が駆け下った。


 その後、月読の里として青嶺の子たちが率いた村で、葦火のことはすぐに忘れ去られてしまった。潮読みの力を持った勾玉は月読の神宝として受け継がれたけれど、繋がれた先の短剣の出どころを、辛さのあまり青嶺は語らなかったからだ。




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