五 赤松
翌日、原辻に赤松の姿があった。
月読の館への言伝を届けるためだった。香良加美への道を帰る途中、彼を呼び止めたのは青嶺だった。
「赤松」
名前を呼ばれただけで殴り殺しそうなほど、振り返った赤松の顔は怒りに滾っていた。対する青嶺は、その怒気にもかまわないほど焦っていた。
月読の長たちが不穏な動きをしていることや、香良加美への遣いがあったことは気付いていた。赤松は遣いに対する返事を持ってきたのだろうが、表情を見る限り悪い事態しか浮かばなかった。
「何が起こっている」
尋ねると、赤松は憤りと呆れの混じった顔を向けた。
「知らないのか」
「何も。昨日の遣いは何だったんだ」
赤松は、今度は純然たる驚きに目を瞠った。
「何なんだ、お前は。長の嗣なのに、まるで蚊帳の外か」
自分を恥じて、青嶺は口ごもった。確かに自分は、葦火に恋した以外、何もしていない。ことを進めているのはすべて、長である父親だった。長いこと香良加美を抑圧したがっていた父には、この件は降って湧いた好機だ。
加えて母の憤怒も深い。嗣を雷の娘に誑かされたと言って憚らなかった。青嶺の許婚は母方の係累でもあったので、彼女は許婚の周辺を代弁した怒りもまた負っていた。
「すまない。でも、本当に何も知らないんだ。何が起こっているか教えてくれ」
謝り懇願した青嶺に、赤松は憤然と顛末を語った。
鯨人と葦火が娶せられようとしていると知って、青嶺はまったく信じられなかった。仮にも長の娘を、下人に宛がうなど――しかもよりによって、彼女を殺すために差し向けた男を。
月読の長は、青嶺にとって言うまでもなく父である。物心ついた頃から、それなりに尊敬していた。反抗することがあっても、少年らしい意地や虚栄からであって、本気で父に打ち勝ちたいと思ったことはない。彼の暮らしを取り巻く秩序は、すべて父によって誂えられたものであることを、承知していたからだ。
だが今、青嶺は自分の庇護者であったはずの父が、彼の心の最も重要な一部を踏みにじろうとしていることに気付いた。青嶺が初めて自ら見つけ、胸を躍らせた出来事は、自分を育ててきた人によって摘み取られようとしている。
多分、青嶺にとっても、葦火にとっても、最も侮辱的なかたちで。
言葉もなく立ち尽くす青嶺を、赤松は黙って見つめていた。憎々しげな視線は、どこか羨望を含んで複雑な光を持っている。
ようやく口を開いた青嶺は言った。
「そんなことを、させてはいけない。止めなければ」
渋い顔をしていた赤松は、静かに言った。
「葦火は俺にとって、誰より大切な妹なんだ」
赤松の全身から異様な迫力が滲んでいた。ほとんど殺意と言ってよかった。
「お前たちにめちゃくちゃにさせるつもりなど、もとよりない」
父母と兄と話した後、葦火はずっと泣き暮らしていた。
絶望がわかるからなのか、誰も働けとは言わなかった。どうにもならないとわかっていても、時が過ぎていくことがひたすら恐ろしかった。鯨人の妻とならねばならない時が、刻々と迫ってくる。
夜に赤松がやってきた時にも、葦火は起きていた。眠れば朝が来てしまう。また一日、恐怖が近づいてくるのが耐えきれなかったから。
蹲る葦火の肩を揺すると、赤松は静かについてくるよう促した。微かな戸惑いはあったものの、葦火は考える気力もなかったので従った。
家を出た赤松は、葦火の手を引いて木立の中を歩いた。夜空には盈月が輝き、光に困ることはない。
兄は何も語らなかったが、暫く歩くうちに葦火は、あの日の沢のほとりに近づいていることに気付いた。何とはなしに嫌な予感がした。
「兄様」
「何だ」
「どこへ行くのですか」
「どこへも」
静かな声は、どこか投げやりな口調に聞こえた。ふと兄が腰に短剣を佩いていることに気付く。大刀のように柄の頭が環になっている、赤松がとりわけ大事にしている短剣。
「兄様?」
立ち止まり、振り返った赤松の表情は張り詰めていた。何か途方もない覚悟を決めている顔に見えた。
「お前はあの夜、此処で死ぬはずだった」
言いながら彼は、短剣を握った。声を出すこともできずに、葦火は呆然と兄を見つめた。
「あいつに嬲り者にされるより、その方がよかったかもしれない」
言って彼は、短剣を振りかぶった。
唇を噛みしめながらも、葦火は反論できなかったし、逃げることもできなかった。赤松の声は苦しみに満ちている。
「ごめんなさい」
兄や里の者を巻き込んだことに、今更ながら悔恨の念が湧きあがった。あの時は、誰もがする恋が、自分にも巡ってきただけだと思っていた。しかし、他愛ない情のやりとりにとどまらず、家族も香良加美も揺るがすことになってしまった。
力なくその場に座り込んで、葦火はただ、短剣を振り上げにじり寄る兄を見つめていた。赤松の肩越しに、夏の空に盈月が浮かんでいた。青嶺の遠つ祖が、宿っているはずの白銀の星である。
「青嶺」
はらはらと涙を流しながら、葦火は呟いて目を瞑った。最期に口にするのが彼の名で、自分を見送ってくれるのが赤松なのだから、これ以上のことは望めない。
はるか遠くに、鈍い雷鳴が響いた。
葦火は瞼を開けた。おかしなことに、兄の短剣はいつまで経っても降りてこなかったからだ。
見れば赤松は、刃を振りかぶったまま食い入るように葦火を見つめていた。彼女と目が合うと、力を抜かれたように腕を下ろした。
すっかり緊張の失われた声で呟く。
「こういう時に呼ぶのは、あいつの名なんだな」
意図が分からず混乱する葦火に、赤松は尋ねた。
「あいつと生きたいか」
迷うことなく、葦火は頷いた。同時に、叶わない願いだという思いがずきりと胸を衝いた。唇を噛みしめて涙を流す葦火を、赤松は暫し黙って見降ろしていたが、やがて跪いた。葦火の手を取って立ち上がる。
「来い」
「――どこへ」
反射的に疑問を口にすると、赤松は静かに言った。
「とにかくついてこい。大丈夫だ」
彼はごく柔らかい動作で、葦火の髪を撫でた。
「もう、怖がらせたりしない」
髪に触れる赤松の手が微かに震えていたことに、葦火は気付かなかった。
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