二 青嶺

 青嶺あおねからの注文は途切れることなく続いた。


 それだけでなく、品物を渡す時には必ず他愛もない話で引き留められた。

 彼が話をするのに加え、葦火について根掘り葉掘り聞いてくるので最初は戸惑った。徐々に当惑が消える頃には、葦火の方からも青嶺に尋ねたいことが増えていったけれど。


 原辻はるのつじに行くとなかなか帰ってこない、と兄たちから揶揄されるまで、時間はかからなかった。


 一度だけ、青嶺が葦火を香良加美からかみまで送ってきたことがあった。集落に入る手前で別れたけれど、一番年の近い兄の赤松あかまつが彼を見ていた。


「葦火は月読のよつぎに好かれていたんだな」


 普段から何かと葦火の行動に口うるさい彼のことだったので、何か言われるのは必然だった。何とも言えず、葦火は口を噤んだ。それまでは兄の言葉に口答えしたり、だんまりを決め込んだことなど、なかったのだけれど。

 始末の悪いことに、赤松は夕餉の席で、家族皆の前でもそれを言った。そして言い足した。


「道理で、遣いに行くとなかなか帰ってこないわけだよな」

「好かれてなんかない」


 本当にそう思ったので、葦火は言い返した。長兄が問うような目線を向けてくる。


「いつも、あの人から品物を渡されるというだけ。早く帰ろうと思っても、四方山話をして帰してくれないものだから」


 眉一つ動かさない父の傍らで、母が呆れたようにため息をついた。兄が慎重に尋ねた。


「どうして彼が四方山話よもやまばなしをしようとするのか、わかっていないのか?」

「話がしたいからじゃないの?」


 問い返すと、呆れと驚きがないまぜになった沈黙が降りた。周りの反応の意味が分からず戸惑った葦火は、取り繕おうとさらに言った。


「それか、伽羅国からくにのことを私が知りたがったから、話してくれるのかも」


 事実だった。伽羅国から筑紫洲ちくしのしまへ向かう船が立ち寄った時の話は、葦火にとってひどく新鮮だったから。

 色鮮やかな絹に金糸銀糸の刺繍を施した衣をまとい、聞いたこともない言葉を話す使節たち。大八洲おおやしまのどこにもない知恵の産物である物や制度が溢れる、煌びやかで豊かな国から来る人びと。

 母が深いため息をついた。


「いくら月読の嗣と言っても、毎回用もなく四方山話をする暇は、普通ないんだよ。わざわざ話すのは、お前が気になるからさ」


 そういう母の胸元で、翠のぎょくが静かに揺れた。高志こしの翡翠を磨いてできたという首飾りだ。秋津洲あきつのしまからきた商人の手から、巡り巡って父から母の手へ手渡された。


「許婚がいるのに、葦火をからかうなんて失礼な話だな」


 長兄がそれとなく言った。

 葦火がぱっと振り返ると、彼は少しだけ目を瞠ってみせた。


「長の嗣なんだ、許婚くらいいるさ。同じ原辻にいる、月読の娘だよ」


 そう、とだけ葦火は呟いた。青嶺と自分はただの友達なのだと、親兄弟にあれこれ言いわけを考えていたのに、それらは跡形もなく消え去ってしまった。突如必要を失った言葉たちは、妙に空虚な心地のする胸の中で宙に浮いた。


 何も心配する必要はなかったんじゃないか。青嶺が葦火を好きになるはずがないのだから。


 今までひそかに悩んできたことが、急に意味を見失った。青嶺が、御雷の娘である自分を受け容れてくれるか、家族が青嶺を気に入ってくれるか。自分が月読の民にまじって暮らせるかどうか。


 葛藤がなくなったはずなのに、葦火の胸のうちは妙に寒くなった。まだ夏の残滓がある夜なのに、冷たい風が身体のなかに巣食ったようだ。同時に強い当惑がせり上がってくる。どうして、と葦火の知らない誰かが頭の中で叫んでいた。止めようとしても、その声は何度も同じせりふを繰り返す。


 突然言葉を失い、悄然とした葦火を、誰も追及はしなかった。それとなく切り替わった話題について皆が喋り始め、月読の嗣のことはもう触れられなかった。


 どうして、どうして、と内面の叫びを聞きながら、葦火は深いため息をついた。

 どうして私は、青嶺と近しくなれるなどと思ったりしたのだろう。




 原辻に行くのは今日が最後だ、と赤松が言った。


 まだ仄かに火の気配を宿した大刀を受け取って、葦火は頷いた。青嶺に別れを告げて来いと言う意味なのは、言われなくてもわかった。汗ばむような夏の陽気の中、大刀はくるまれた布の中でなお熱を失わなかった。


 いつものように青嶺は、四方山話の後に注文の品を渡した。弟のものだという環頭の大刀だった。


「ありがとう。鍛え終わったら、兄が届けに来るわ」


 なるべくさりげなく言ったつもりだったが、目鼻の利く青嶺はすぐ異変を感じ取った。


「どうして葦火が来ない」


 十五の青嶺は、葦火ににじり寄るようにして尋ねた。年は下でも背の高い彼にたじろぎながら、葦火は答えた。


「もう原辻には来られないの」

「答えになっていない」


 できれば普通の顔をして最後の話を終えたかったのに、青嶺の剣幕がそれを阻んだ。にわかに目頭が熱くなって、咄嗟に唇を噛んだ。


「貴方ともう、会わない方が良いから」

「なぜだ。誰に言われた」


 目を伏せても、青嶺は葦火の顔を覗き込むようにして訊いた。


「貴方には、許婚がいるから」


 青嶺は言葉を失って、唇を引き結んだ。知らないはずのない事実だから、当然のことだった。しかし、彼の動揺を見て取ると一層、葦火のやるせなさは募った。こらえきれなくなった涙が頬を伝った。


「ひどい。知っていて、からかったなんて」


 見る間に青嶺は動揺した。先ほどとは比べ物にならなかった。


「違う――傷つけるつもりは、なかった」


 慌てる彼に、葦火は声にならない怒りのこもった目を向けた。


「そうね。からかっただけだもの」


 電が閃くような憤りに戸惑いつつ、青嶺は反駁した。


「でも俺は本当に、葦火が好きなんだ。許嫁より、誰より」


 涙を零しながら、葦火は黙っていた。それが本当なら誰より信じたかった。


「だからと言って、どうにもならない」

「どうにかしたいんだ。父君に掛け合ってみる」


 それがどれだけ望みのないことなのか、葦火にもわかる。力なくかぶりを振ったが、青嶺はにわかに葦火の手を取って言った。


「待っていてくれ」


 食い入るように自分を見つめる目に、嘘はなかった。多分青嶺は、嘘で自身を演じるような狡さはない。長い間、彼と会話を重ねてきてそう思った。


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