三 片割月

 兄に頼まれて水を汲みに行ったある日、沢で一人のわらわが待ち構えていた。御雷みかずちの里では見覚えのない子どもだ。簡素ながらも清潔な身なりから、月読つくよみの館で下働きをしているのだろうと思われた。


「葦火さまですか」


 頷くと、童は駆け寄ってきて小声で言った。


「今宵、もう一度此処に来てください。月が昇るころ」


 驚いて絶句していると、童はすぐに踵を返して去ろうとした。葦火は慌てて呼び止めた。


「待って」


 彼はこちらを振り返った。


「誰からの言伝なの」

「青嶺さまです」


 呟いて、童は今度こそ去った。葦火は沢のほとりに突っ立ったまま、手に持った桶を茫然と握りしめた。


 ひと月ほど会っていない彼と再び会うことは、驚くほど胸を高鳴らせた。その日はほとんど上の空で過ごして、皆が寝静まるのをじりじりと待った。暗い家を抜け出すと、外は片割月かたわれづきの明かりに白々と照らし出されていた。

 躊躇う理由などない。葦火は早足で沢のほとりへと向かった。水音は涼やかに流れ、月下に水面が静かにさざめいていた。


 立ち止まるとすぐに、近くで下草を踏む音がした。葦火は歓喜の表情を浮かべて振り返った。


「身の程知らずが」


 目線の先にいたのは、長身の男だった。見上げるほどに背が高く、氷のように凍てついた目つきだった。葦火に欠片ほどの興味も、敬意も抱いていない、ただ蔑むような視線。長く武骨な体つきは、思い起こせば見覚えがある――月読の館の下人だった。


「何を期待して来た」


 言い放つと彼は躊躇いなく、手に握った何かを葦火に振り下ろした。頭を打たれて、驚く間もなく沢の中に倒れ伏した。水音を聞くより前に、激しい痛みに意識を手放しそうになる。


 身の危険を感じ、起き上がらなければと思うのに、激痛と恐怖で体が動かない。何とか手を動かそうとした時、男の足が頭を踏みつけた。声にならない声が喉の奥で鳴った時、鈍い音が響き渡った。


 殴られたかと思いきや、殴打されたのは自分ではなかった。一拍遅れて、下人のうめき声が聞こえる。間髪入れずに、さらに鈍い物音がした。


 必死で体を起こすと、入れかわるようにして下人が沢の中へ倒れた。葦火のほうに後頭部を向けており、目は開いているのか、意識はあるのか、わからない。だが暫くしても、微動だにしなかった。


 唇を震わせながら、葦火は後ずさった。何が起こったのか、理解できていなかった。せせらぎの音だけが、時間が動いていると伝えている。

 倒れた下人の近くに、佇む者がいた。肩で息をし、顔を引き攣らせている。白銀の月明かりに照らされる顔は、驚くほどに見覚えがあった。


「――兄様」


 赤松はこちらを向いた。葦火が無事なことを確かめると、安堵したように大きく息を吐いた。


「念のためついてきてみれば、案の定だ」


 下人を殴った棍棒を放り捨てると、兄は葦火に歩み寄った。緊張が残る、呆れたような顔だったが、声色は穏やかだった。


「あまり心配をかけるな」


 慰めるように肩を抱かれて、強烈な安堵が溢れ出した。恐怖から解き放たれた安心に任せて、葦火はひたすら嗚咽を漏らして泣いた。


「どういうことなんだ」


 赤松に肩をさすられ、その場を離れながら、葦火はぽつりぽつりと顛末を説明した。話を聞き終えた彼は、ひどく難しい顔になった。


「……青嶺自身がやったとは思えないな」


 葦火は希望を込めて強く頷いた。しかし、兄はそれを一層厄介な事態ととらえているらしかった。


「奴から話を聞いた月読の長が、お前に手下を差し向けたのかもしれん」


 思わず葦火は身震いした。伊伎いきで月読の長に敵対することは、どこにも住む場所がなくなることと同じだ。たとえ、葦火が御雷の娘であっても。月読の氏族と御雷の氏族には、埋めがたい力の差がある。


「事情を探らねばならんな。明日、原辻はるのつじまで行ってくる」

「いったい、何をしに」


 恐れおののく葦火に、赤松は静かに答えた。


「青嶺とやらに直接尋ねに行く。長のたくらみでこうなったのか、そうだとしたらどこまで本気なのか」

「私も行きます」

「待っていろ。危ないだろう」


 赤松の制止を、結局葦火は聞かなかった。自身も原辻へ遣いに行っていた赤松は、館までの足取りは確かだったが、青嶺の居どころを探り当てるには及ばなかった。翌日の真昼、最終的に二人で彼を見つけた時、青嶺は目を丸くした。


「何をしている」


 呟いた彼を、二人で手招きして木立の中へ引っ張り込んだ。

 ゆうべの顛末を聞いた彼は、赤松の言った通り驚愕し、絶句した。


「そんなことが」

「父君や下人は何か言っていたか?」


 青嶺は黙ったままかぶりを振った。


「だが葦火のことは知っているんだな?」

「妻にしたいと話した。考えてみると、笑って言っていたのに」


 激怒したと訊かされるよりかえって、葦火の背筋は冷えた。青嶺の前では反対の意志などおくびにも出さず、長は下人や童を差し向けたのだ。

 青嶺によれば、長以外には誰も葦火のことは打ち明けていなかった。葦火に敵意を抱いたのは、長でなければ有り得ない。

 愕然とする葦火と、憤りもあらわな赤松を前に、青嶺は暫し考え込んでいた。だが、やがて言った。


「父に真意を質す。同じ沢のほとりで、今宵待っていてくれ。遣いではなく、俺が行く」

「俺もついて行くぞ」


 牽制するように赤松が言うと、構わない、と青嶺は頷いた。


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