孤独のシンガーソングライター、異世界をうたう

しぐま ちぢみ

第一曲「異世界をうたう」

僕の人生を振り返るとしたら、まずは間違いなく、「失敗した」としか言えないだろう。

生まれて落ちて早七年程にして、僕は自らが下の存在だと、気付いてしまった。

決して明るくない性格、少ない口数、長く目を覆う髪、細い身体に白く窶れた肌、勉強も運動も大して上の方ではなく、長所が無く、短所だけはある存在。

子供の集う学校とは、縮小化された社会の擬きであり、例え擬きと言えど、それは大人しか分からず、子供達にとってはそこが社会の全てである。

故に、彼らは全力で社会人を演じる。

故に、彼らは社交性を分からぬままに重んじる。

子供の持つ残虐性は、社会に溢れた僕を吊るし上げるのに、幾許の躊躇いも無かったように見えた。

僕が何かをすれば、虐げられ。

僕が恋をすれば、蔑まれ。

僕が懇願をすれば、嘲られた。

人としての一切を嗤われるその社会において、僕は酷く、心を病んだ。

しかし、心を閉ざせど、如何せん子供。

学校には通わないといけず、些細な事で心が動く。

気分の悪くなるような矛盾に自らを潰されながら、酷く醜く生きてきた。


クラスの隅で漫画家を目指して落書きをしていた。

描いていたのはヒーローでもヒロインでもなく、「かいじゅう」だった。

ある時、棒人間の絵を何枚も連続させ、動いているように見せる、極々シンプルな動画を見た。

棒人間に表情は無かったけれど、その動きが、膝を着いた敵に流す涙が、全てを物語っていた。

そして何より、彼らを動かしているような、たかが3分も無い動画に棒人間の人生を詰め込んだその音楽が、何よりも僕を惹き付けて止まなかった。

お小遣いを必死に貯めてMTRを買い、バンドでも歌い、PCの時代になればDTMにのめり込み、インターネットの大波に上手く乗れた。

無機質な機械音で感情豊かに歌う歌姫は、僕の手によって眠りから目を覚ましたようで、とても気が晴れた。

暗い事も、明るい恋も、全ては曲を生み出す動力になった。

やがて機械音は僕の声に変わり、ぽつりぽつりとファンが増え、瞬く間に社会が僕を認めだした。

成り行きでメジャーデビューしてしまったから、戸惑いもあったし、若干の嫌悪も、無いと言えば嘘になる。

ただ、僕の行く方向に、横に並んで着いて来てくれる人が居るだけでも、満足だった。


やがて、憧れていたバンドの方々と共にステージに立ち、自分は雲の上に来てしまったのだと思った。

僕に同情してくれていたファンの方々はいつしか距離が出来てしまい、増えたファンの方々に埋もれてしまった。

彼らが望んでそうした事で、僕がそこから引き上げようとすると、必ず良くない事が起こるのは目に見えていた。

だから、その代わりにと、更に音楽を追求していった。

今まで通りの作詞作曲に加え、プロデュースもして、音楽家として更なる飛躍を目指した。

漫画家に転向する気はもう無いけれど、絵を描くのは止められない。特に、今はアニメーションにハマっている。

僕だけが生み出せる僕の曲に合わせた、僕のアニメーション。

そこに他人の協力はあれど、表現されるのは着の身着のまま、ありのままの僕。

……まだ足りない。まだ、僕を曝け出し切っていない。

これだけじゃない。僕は暗い沼だけじゃない。明るい陽だまりだけじゃない。目も眩むような雷だけじゃない。冴えないだけじゃない。まだまだ、僕は絶えない。

だから、まだ僕が尽きない内は、音楽を続ける。

そして、その音楽と共にあの人と歩けるのならば、世界がどうなろうと構わない。

それはきっと、音楽家の純然たる性なのかもしれない。


さて、途中からは僕の人生の中では比較的成功していた話になってしまった。

もう少し言えば、全国ツアーも勿論、世界で公演する予定もあった。

紛うことなき、成功者であると、自覚はしている。

だが、それも踏まえた上で、僕は自分の人生を、「失敗」だと考える。

それは一体どうしてか。

あにはからんや、今の僕の目の前を確認すれば全てが事足りる。


僕は、成功の最中で死んでしまうような、敗北者でしかなかったのだから。






















「お兄ちゃん!こっちも採れたよ!」

小さな籠の中に薬草を詰め、女の子が丸く笑っていた。

「……うん、偉いね……」

籠を背負った男が女の子の亜麻色の髪を撫で付けると、女の子は猫のように気持ち良く喉を鳴らす。

その大きな手からは、女の子の髪色と同じ、亜麻色の三角形状の突起物が出ていた。

有り体に換言すると、それは猫耳と呼ばれるものである。

「……そろそろ、大丈夫だろうし、帰ろうか……」

木漏れ日が朝露に反射する森の中、男と女の子は手を繋いで帰路に着く。

その姿は、まるで親子のような、兄弟のような、信頼が目に見て取れるようである。

だがその容姿は、間違っても、血の繋がりを感じさせるものでは無い。

かたや人間、かたや獣人。

黒髪と亜麻色の髪、ロングの縮れ毛にショートボブのストレート、そして少女にしか存在しない猫耳と縞模様の長い尻尾。

しかし、異形象る二つの影が見せる繋がりは、決して容易いものでは無い。


それはおよそ、一年ほど前の話である--



「…………」

交差点に飛び込んで来たトラックを最後の記憶に、目を覚ますと、そこは豊かな陽だまりでした。

成程、ここがあの世というものか。

僕的には、まず三途の川から始めて欲しかった気もするが……まあ、アレは世捨て人が生み出した厭世の指南書のようなものだし、あまりアテにするものじゃないしな。

……それにしても、ここは天国、或いは楽園と呼ばれるような所、なのか?

天国と言えば薬草、香草、綺麗な花畑と桃の木が茂る平野的なものを想像していたが……些か、多い茂り過ぎてやしないか?

これでは、どちらかと言えば、ジャングルである。

それも、蔦が垂れ下がってたり、無駄に足元の草が茂ってたりしないだけマシ、な。

幸い、ここは水辺のようで、すぐそこには清流があった。

「……喉」

潤いを求めて、一直線。

やや生水に躊躇いはあったものの、掬った一杯の美味さに、夢中になってしまった。

水だけで開業出来そうだ。

だが、その上質な水源らしき山脈は見当たらない。

余程の下流なのだろうが、それでもこの美味さであれば、上流はかなりのものであろう。

と、水に舌鼓を打った後、事態を咀嚼し始める。


「トラック……」

まずは、交差点に居た僕へと突っ込んできたトラック。

特に衝撃を感じる間も無く即死だったのか、その辺の痛みは無く、身体も至って正常だ。

「喉……」

次に、生理現象だ。

生理現象は字の如く、「生者の理」である。

つまり、この喉の渇きは、紛れもなく死に瀕した僕の生理現象であり、死者には存在し得ぬものである。

死後の世界等、誰一人として語り継げないので、もしかすれば死者にも喉の渇きはあるのかもしれない。

地獄にもそういった類のものがある。

だが、それはあくまで地獄の話だ。

ここを地獄と言うなら、些か、否、結構に牧歌的である。

そして、そう。

僕は確かに、地獄で轟々と裁かれる程の罪は犯していないとは思うが、それにしたって、天国に来る理由も無いと思われる。

僕の音楽は結局、人を救うには足りなかったのだから。

誰かの指針になる事はあったかもしれないが、それはあくまで指針でしかなく、例え無かったとしてもその子は人生を全うするだろう。

音楽にここまで没頭した僕が言うのもなんだが、音楽そのものにはそんな力は無い。

それは僕の働きかけでしか起こり得ず、僕は特に何も働きかけた事は無い。

全ては、最終的には自分のためだけだ。


……とまあ、うだうだといつものように考えてしまうが、僕の音楽で一人勝手に助かった人が居るのなら、それはそれで嬉しいものである。

自分の身一つ守れなかった人間の考えではないけども。

とりあえず、思考を切り替えよう。

ここは何処か、それを聞けるだけで儲けものだ。

周りに人の気配は無いが、川に沿って進めば、集落に当たるとよく言う。

ここで水の流れと同じ方向へ歩き出した辺り、無意識に下へと向かう習性が垣間見えてしまった気がした。


歩き出してそう長くもない内に、民家らしき建造物が見えた。

ただ、それは集村と呼ぶよりは、山小屋のように、一人寂しく佇んでいた。

巨大な水車がランドマークの、蕎麦屋のような茅葺き屋根。

時代が時代であれば、さほど珍しくもない、普通の建築。

しかし、僕の時代では、もはや化石とまで言えそうな程に、時代錯誤な建物である。

同時に、時代は如何にせよ、ここは日本で間違い無さそうだと、安堵もした。

言語の違いというものは、各所において大きな障壁と成り得る。

とりあえず、その心配は無さそうだ。

あわよくば、東京にも戻れるかもしれない。

新曲を作っている途中だったのだ。

この際、交通事故で自分がどうなったかなど、考えもすまい。

自分は今ここに居る、それで十分だ。


近付く程に分かったが、完全に木造の建物のようだ。

一つとして人工物が建材に使われていない。

ここまで徹底されたものは、どんなに寂れた建物でも珍しいだろう。

ただ、無い事は無い、というくらいだ。


当然、インターホンも無いので、木の引き戸をノックする。

返事は無い。

念の為もう一度ノックをするが、反応は無い。

どころか、戸に触れて何となく察したが、鍵も錠も無く、恐らく、つっかえ棒のような物もされていない。

「……」

家主が不在の頃に、中を覗き見るというのは気が引けるが、もしその家主が中で倒れている場合も無きにしも非ず。

こんな所にこんな家を建てるのだ、まず若年ではない。

身体に不調をきたすお歳の方でもおかしくはない、というよりは、恐らくそれくらいの方の可能性が高いだろう。

家の外観や周囲を見れば、放置された空き家でも無いのは分かる。

とりあえず、少しだけ中を覗いてみよう。


戸に耳を立てる。

……吐息一つ聞こえない。

となれば、寝ていたり居留守をしている訳ではなさそうだ。

深呼吸を一つして、戸に手をかける。

両手で音を立てないように、中が見えるくらい僅かに開く。

中は思っていたよりも暗く、正直、よく見えない。

ただ、人影のようなものは無く、もぬけの殻のようだ。


それなら、ここの家主が帰るのを待つのも良いだろうと、考えてみる。

どうせなら、中で待っていても良いだろう。

正座でもしていれば、盗人と間違われる事もあるまい。

そう思い立ち、戸を一気に引き開いた。


「えっ……」

瞬間、目に飛び込んで来たのは、黒く滲んだ赤色。

無論、装飾ではない。

夥しい量の血が、壁を登るかのように張り付いていた。

「うっ……!」

吐き気に襲われ、空えづきをする。

死体は無かったのが、不幸中の幸いだったのかもしれない。

家の中を鮮烈に彩るものから目を離して見てみれば、箪笥は無造作に開かれて中からは衣服の類が出ており、卓袱台や畳には無数の斬られた痕が残っていた。

「強盗……山賊……?」

血痕とその様子から察するに、襲われたのはそう最近でもない。

そして、残された衣服を見てみれば、現代とは全く違う素材。

麻や木綿で作られた衣服も、本当に探せば現存しているのだろうか。

大概は虫食いで処理されているだろう。

それに、よく見なくても分かるのが、これは和服の類ではない。

詳しい文献等を見た事が無い為に断言は出来ないが、前面と背面を縫い合わせただけの簡単な造りに、形はワンピースに類似している。

サイズは全体的に小さい……というか、明らかに子供用である。

7~10歳辺りの成長期を迎えた頃の子供が来ているようなサイズ。

そして、そのサイズしか無く、全て同じ造りに、バラバラな寸法。

あまり事情を考えたくは無いが、ここに居たのは、小さな子だけなのだろうか。

それとも、親の服だけが布として使える部分が多いから持って行かれたのだろうか。

そうであって欲しい。勿論、そんな事が無いには限るが、状況証拠が揃い過ぎている。

今更強盗の事を、考えられない訳が無い。


となると、この家はもう空き家なのだろうか。

何の悲劇があったにせよ、ここに住んでいた人が孤独だった筈が無い。

近くにまだ町があるかもしれない。

その人たちなら、色々と手助けしてくれるだろう。


そして僕は、建前を並べて、気分の悪くなる家を飛び出た。


「あっ……」

直後、幼子とぶつかった。

衝突の直前、咄嗟に避けようとしたが、僕の身体能力じゃ完全には避けきれなかった。

けれども、直撃じゃない分、まだ軽傷か、無傷で済むだろう。

「大丈夫……っ!?」

地面に倒れ伏すその子を見て、自分の中の何かが動いた。

亜麻色のショートボブに、白く細く、かつ子供の持つ柔らかさが見てわかる肌。

そして何より、耳がある。

猫のような、三角形の大きな耳が、頭頂部付近に二つ生えている。

紛れもなく、異形。

可愛らしい容姿ではあるが、それは俗に言う、化け猫の類によく似ていた。

「うぅ……ん……いったぁ……誰ぇ……?」

後頭部を擦りながら、起き上がり、こちらを振り向く。

恐怖で動けない僕は、彼女の瞳に吸い込まれるようにして、目線を合わせた。



「それがシラコお兄ちゃんとの出会いなんです!」

豪傑達で賑わう、木造の大きな酒場。

そのカウンターに座る獣人の子は、樽のような器に注がれたオレンジジュースを飲みながら、店主へと語る。

「あらぁ、そうなんどすねぇ。何百回と聞いても飽きまへんわぁ。ねぇ?」

黒髪ロングストレートという清楚を纏った店の主人が、黒く切れ長の目をこちらへと向ける。

その目は、まるで不審者のような行動をしている友人をからかう目そのものであった。

「だから……僕は色々と混乱してたんですよ。ナタリィの事だって、本当に申し訳なく思ってるんです」

そう言いながら、僕は水を飲んだ。

別に僕に悪気があって何をしたという訳でもないのに、喉が渇く。

「そもそも、赤い染料をぶちまけて放置していたのも、部屋を荒らしっぱなしにしていたのも、戸締りをしていなかったのも、全部ナタリィですよ。僕はこの子に惑わされたんです」

そう言い、隣の獣人の幼子を見やる。

彼女の名はナタリィ。

幼くしてから両親を失い、今は亡き祖父からの知恵を使って己の身一つで生きていた、何とも悲劇的で、然して強かな子だ。

出会いの経緯は先程言った通り、その後、僕の面倒を見るという事で、一緒に住まわせて貰って、共に暮らしている。


「それにしてもぉ、ナタリィちゃんが男の人を連れて、冒険者登録させに来た時は、うちかてびっくりしましたえ。伴侶かと思ぉて、早過ぎるてぇなぁ」

ただの人間なのに、狐の耳が見えるようなこの人は、この酒場の主人にして冒険者ギルドの管理長兼受付嬢、名をリーシェさんという。

「やだなぁリーシェさん、伴侶だなんて!今はまだ違いますよぉ!私、こう見えてもまだ11歳なので、結婚なんてとても……ね?シラコお兄ちゃん!」

住まわせて貰ってる以上は、彼女について、そのガサツさ以外に対して反抗する訳にはいかない。

適当に相槌して流す。


ともあれ、一年も暮らしてか、はたまた、ナタリィを見た時からか、いつそれに気付いたのか、最早、定かではないが。

だがどうやら、ここは僕のいた世界では無いらしい。

そちらへの造詣はあまり深く無いのだが、聞いた事くらいはある。

つまり、僕は異世界転生したということだろう。

なんというか、この世界にも慣れてきたせいだろうか、今となってはもうどうでも良い事実である。

何も分からぬままに手を引かれ、彼女に冒険者にされた僕であるが、危ない事はしないように、と彼女から厳命されている。

僕もそんな事はしたくないので、冒険者というのも名ばかりの、日雇いのお手伝いさんとして働いて日銭を稼いでいる。

ナタリィの家からもそう遠くない、この辺鄙な村に来る依頼はそう危険でもなく、今日も薬草採取の報酬で夕食と洒落こんでいる。

豪勢な食事ではないが、それなりに満足する量はあるし、栄養もちゃんとしている。あと安い。

それもそのはず、冒険者は身体が資本な為に、その身体を壊されて依頼が滞ってしまえば、イコールでギルドの損害になる。

故に、ギルドは如何に自分が切り詰めようと、冒険者への手立てはしっかりしているのだ。

冒険者という身分から離れれば無職でしか生きていけない彼らも、その事を重々承知している。

故に、ギルドの危機とあらば、一にも二にも無く駆け付ける。

リスクリターンの話もあるが、彼らの関係は、正しく信頼によるものだ。

冒険者は、筋骨隆々であったり、知的な雰囲気に溢れていたり、金勘定に五月蝿かったりと、ジョブによって個性豊かであるが、皆一様にして人として出来ている。

ただ優しいだけではなく、大人らしい、冷静さも兼ね備えているのが、そう表現した理由だ。

リスクリターンのビジネスライクな事は考えつつも、信頼関係の重みをよく知っている、出来た社会人のような彼ら。

酒が入ると騒々しいのもまた、愛嬌だろう。


「おうおう!シラコさんよぉ!アンタも飲まねぇか!ほら!」

こういう絡みは、現代だとアルハラと呼ばれて忌避されるのだろうか。

まあ、人によって行為の解釈が違うのは当たり前だ。

だが、それはあくまで自分の中だけでの、気持ちに過ぎない。

彼らの想いを汲み取れずに、自分が嫌だからという理由だけで、あたかもそれが通念的な悪事だという風潮を生み出せるのは、大人らしさと子供らしさの両面を持ち合わせる若者らしい特技ではあるが、特にこれといって今更のことでもない。

そういうのが苦手な子が喚いて、大人は大人の対応をしているだけ、つまりは、その辺のファミレスなんかでもよく見るあの光景だ。

親が泣きわめく我が子を宥める様子を見ていると、心の底から気の毒に思うが、よく泣くのも立派な成長の一つ、周りの人が温かい目で見守っていくのもまた、大人の対応だろう。

「いえ、僕が酔い潰れちゃうと、ナタリィに迷惑をかけてしまうので。ありがとうございます」

魅力的な飲みの誘いはやんわりと拒否しつつ、そろそろ時間も時間なので、帰路に着く事とする。

「ん?もう帰るのか?」

僕が立ち上がると、リーシェさんと楽しげに話していたナタリィがこちらを振り向く。

「……そうだね。だけど、帰る前にちょっとトイレに行ってくるよ」

そう言い、酒場のトイレへと向かう。

どうやら、異世界転生の付き物というのか、言語的な障壁は全て取り除かれているらしい。

正直な話、非常に助かる。

トイレの男女別を間違えずに済むのは。

ピクトグラムではなく、文字表記なので、此処は本当に助かった。


「さて……」

トイレの個室に入った僕は、まず深く息を吐いた。

そして、大きく吸う。

何も、用を足しに来た訳では無い。

此処は、僕がよく、ボイストレーニングに使う場所なのだ。

狭い物理的に閉ざされた空間という条件付きではあるが、音を遮断する魔法を習得した。

それは全部、この為に。

この世界には、音楽が少ない。

楽器も珍しく、扱う人も、多趣味な貴族だけであり、楽器そのものの価値の高さが目立つ。

まず楽器の入手が困難な為、音楽を生業とする者は存在しない。


要するに、音楽は娯楽の中でも特にマイナーであり、精通した者が居ない為にその素晴らしさが正しく認知されていない状態。

歌自体はあるものの、民間の伝承を歌うものばかりで、メロディもぐちゃぐちゃ。

効率良く覚える為にリズムを都合よく利用している状態である。

年号を語呂合わせで覚える、受験生のようだ。

なので、音楽の普及は自分一人では果てしなく遠い道のりになりそうなので、せめてもの抵抗として、僕だけでも音楽を忘れないように、こうしている。


軽いウォーミングアップを終え、自分の曲を一つ歌う。

雷のような、恋の歌を。


歌い終え、すぐにナタリィの元へと戻る。

時間にして10分程。

しかし、話し込んでいたナタリィは時間の事など気にしない。

特に訝しまれることも無く、家に帰る。

これが、日常であった。

それに、窮屈な思いをしてはいるが、異世界での体験は、案外とインスピレーションを受ける事ばかりである。

歌詞が降ってきては止まない。

書き留める物が無い悲しさを味わったのは、いつぶりだろうか。


それに、いくら恋多き僕と言えど、こんな目に遭うとは、全く思いもしなかっただろうな。

「あ〜、飲みすぎたぁ〜……おんぶしてくれぃ〜……!」

「……はいはい」

オレンジジュースで酔ったふりをするような、強かな11歳の女の子に、恋をするなんて。

軽い温もりを背負いつつ、赤化粧の落ちきらない部屋へと帰り着き、僕たちは床に着いた。



その夜の夢の中で、僕は奇妙な体験をした。

女神……と言うのだろうか。

神々しいオーラに満ち、然して苦悶の表情をする女性に出会った。

彼女は口を閉ざしたまま、僕にこう語り掛けた。

「この世界に、謡あれ」と。

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孤独のシンガーソングライター、異世界をうたう しぐま ちぢみ @chizimi_B

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