竜の調教師の話


空の国、と呼ばれる国がある。

世界一標高が高く、空に最も近い山として名高い霊峰、クィヴァーレン山の中腹から頂までを国土とする歴史の古い国だ。国土面積は世界の国々の中で最も小さいが、クィヴァーレン山から採掘される鉱石資源採掘量は世界の中でもトップクラスを誇り、掘り出される鉱石の質も高い事で有名な一方で、「珍しい生き物と共生する国」として一目を置かれている国でもある。

その生き物は元来、人馴れしにくい気難しい性質の生き物なのだが、人の手によって卵から孵化させ、幼体のうちから人馴れさせながら育成することで共生を可能にしている。この共生関係はいったいいつから始まったのか、歴史を遡っても正確な年数が分からないほどに古くから空の国の人々はその生き物と共に生きてきた。人にはできない力仕事を生き物が補い、絶対数の少ない生き物が安心して繁殖活動ができるよう人が環境を整え、子育てを手伝う。その不思議な共生関係の話を聞きつけ、生き物の利便性に目をつけた他の国から攻め込まれた時は共闘して敵軍勢を蹴散らす等、種を超えて固く結ばれたその関係性は世界に広く知られている。


そのパートナーを卵から孵らせ、空の国の人々と共生できるように子育てを補助する調教師の家系のもとに生まれたユリがその生き物と出会ったのは、この世に生まれて落ちてから一か月も経たない日のことだった。

空の国の中で彼の右に出るものはいないと名高い調教師である父、キンジュの腕に抱かれて赤ん坊のユリはその生き物と対面した。初めてその生き物の姿を視界に映した時、あまりの大きさから全体像を視界に収めることが出来なかった。辛うじて見えたのは、燃え盛る炎のような美しい色合いの鱗と鋭い鉤爪を備えた太く逞しい四肢、その四肢に支えられる大きく逞しい体躯とその体躯に沿うように折り畳まれた巨大な翼だけで、長い首筋を辿って視線を上に向けなければ爬虫類によく似た骨格を持つ頭を見ることも叶わなかった。全長は二階建ての一軒家であるユリの家とほぼ同じ大きさだろうか。キンジュの腕に抱かれて家の外に出ると、そんな巨大な生き物が広い庭先を気儘に闊歩していた。ユリは驚くあまり泣き叫ぶことも忘れ、目を見開いてその生き物を見つめた。そんな娘の様子に気付いた様子もなく、キンジュはその巨大な生き物に向けて「ザクロ」と声を掛けた。どうやらそれがその生き物の名前のようだった。すると、ザクロと呼ばれた生き物はユリ達に顔を向け、のっしのっしと足音を響かせて近づいて来た。自分よりも巨大な生き物が迫ってくる様に、体に伝わってくる不快な振動に生まれて初めて恐怖という感情を覚えたユリは漸く泣き声を張り上げた。そうして自分を腕に抱くキンジュに恐怖の意思を示したのだが、彼はニコニコと微笑んでユリを見つめるだけだった。キンジュの代わりにユリの恐怖を悟ったのは、恐怖を抱かせた生き物、ザクロの方だった。ユリの甲高い泣き声を聞くなりピタリと歩みを止め、伏せをする犬のように上体を低くして巨軀を縮こまらせた。それでもその巨軀は一軒の平家よりも大きく、ユリからすれば未だ恐怖の対象である巨大な生き物だ。湧き上がる恐怖のままに泣き声を上げていると、ザクロは暫しの間を置いて、喉から不思議な音を発し始めた。逞しい巨躯から発せられているとは信じ難いほどに優しく、鳥が囀るように「クルルル」と発せられたそれは酷く穏やかなもので、その音が聞き慣れた音であると気付くのにそう時間は掛からなかった。それは母から乳をもらう時、寝かしつけられる時、ユリが満たされる時にどこからともなく聞こえてくる音だった。生まれ落ちてから聞こえていたその音は聴き慣れた生活音の一部であり、安らぎを得られる時に聞こえてくるものだとユリはその音を覚えていた。その安らぎの音が、恐怖を覚えたザクロという生き物から発せられている。怖いやら、安心するやら、感情がせめぎ合うという複雑な心理状態を初めて経験したユリは困惑のあまり泣き止み、音を発するザクロをじぃ、と見つめた。ザクロは巨軀を縮こまらせたまま、安らぎの音を発しながら、恐る恐るといった様子でユリの様子を伺っていた。巨軀同様に燃え盛る炎のように美しい色合いの鱗に覆われたその顔は、こめかみから生えている複雑に折れ曲がった二本の角を除けばどこか蜥蜴に似た面立ちをしており、大地の割れ目のように裂けた口は赤ん坊であるユリどころか、大の大人であるキンジュをも簡単に丸呑みにできそうなほどに大きい。しかし、そんな大きな口よりも目を引くものがあった。クィヴァーレン山から採掘されるトパーズのような煌めきを放つザクロの大きな金眼は、乳を与えてくれる母のように優しい眼差しをユリに向けていた。その優しい眼の煌めきに惹かれ、ユリは恐怖を忘れてザクロに向けて手を伸ばした。しかし、キンジュに抱き上げられているユリの小さな手は煌めきに届かない。それを不満に感じ、「あぁう、あう」とキンジュに向けて不満の声を高らかに上げると、それを見たキンジュは何を思ったか、声をあげて笑った。

「ザクロ、どうやらお前はユリに気に入られたみたいだぞ!見ろ、ご機嫌だ!」

残念なことにユリの心情を把握出来なかったらしいキンジュの発した言葉に、ザクロはスンと鼻を鳴らして上体を起こした。二階建ての家屋と同等の大きさを誇るザクロの巨躯が再びユリの前に現れる。しかし、ザクロの巨躯を見上げるユリの中に恐怖は無かった。それどころか、優しい煌めきが更に遠のいてしまって不満の感情が高まるばかりだった。

「あー、あう、あー!」

不満の声を上げながらザクロに向けて両腕を伸ばすユリに何か感じるものがあったのか、キンジュは腕の中の我が子とザクロを見比べ、やがて、ユリの要望に応えるようにその小さな体を頭上に掲げた。すると、ザクロもキンジュの意図を察したように恐る恐るユリに顔を近づけ、再びあの優しい音を発した。クルルル、と体に響く優しい聴き慣れた音と、自分を見つめる優しい煌めきを宿した美しい金眼。漸く欲しいものに近づけた満足感から、ユリは楽しげな声を上げて喜んだ。そんな我が子とザクロの様子を眩しそうに見上げながら、キンジュは優しい口調でユリに語りかけた。

「いいか、ユリ。俺達ゲンティアナ家は代々国に仕える竜の調教師の家系だが、竜と共に生きる事を選んだ空の民でもあるんだぞ。竜は──ザクロは、共に暮らす大切な家族の一員で、お前の姉であり、母でもあるんだ。決してそれを忘れないでくれよ」

そんなキンジュの言葉に応えるようにユリは高らかに、楽しそうに「あー!」と声を上げた。

これが、空の国の人々と共生関係を結ぶ生き物、空の支配者と誉れ高い竜とユリのファーストコンタクトだった。


時は流れて、二十年後のとある日のこと。

父の後を継いで竜の調教師となったばかりのユリは、務め先である空の国が誇る竜騎士軍の竜舎の中にいた。竜舎の中でも竜が育成される特別なスペースにいるユリの目の前には、地面に満遍なく敷き詰められた干し草の上に転がって無邪気に遊ぶ成牛ほどの大きさの、純白の鱗に覆われた子竜がいる。角まで純白に染まったこの子竜は卵から孵って二週間ばかり経過した赤ん坊の竜だ。その子竜を同僚である男と共に見守りながら、ユリは唇を真一文字に引き締めている。隣に立つ同僚の男、クチナシは酷く困惑した表情で目の前で転がって遊んでいる子竜とユリを交互に見つめ、やがて、意を決したように口を開いた。

「あのさ、ユリ」

同僚のクチナシが言いたいことを察しつつも、ユリは敢えて素知らぬふりをして応えた。

「なにかな」

「この竜……卵から孵って二週間、経つんだよな?」

「そうだね。正確には卵から孵って二週間と三時間四十分だけど」

「あ、そう……時間までは覚えてなかったや。ごめん。その、孵ってからまだ二週間しか経ってないのにすごく元気に遊んでくれるし、育成状況も悪く無いから……その、尚更この子のっていうか」

「そうだね。すくすくと健康に育ってくれて嬉しい限りだよ。健康すぎて牙の成長も早いのか、この竜舎のありとあらゆる柱を齧りまくって整備局から泣きつかれるぐらいには元気な子竜だ。昨日、君が整備局のハゲに呼び出されてこっぴどく注意されたって聞いたよ」

「あー、いやほんとな……あのハゲには困ったよ……子竜の噛み癖なんとかしろって無茶振り過ぎない?子竜は本能で柱に噛み付いて牙を研いでるってのにさぁ……むしろその本能が見られない子竜は異常だってこと分かってないんだよなあのハゲ。それなのに竜舎の柱の修理費用がすごいぞってそりゃあもうこっぴどく怒られて……怒られてもどうしようも無いってのに。あーあ、僕の頭もこの竜舎の柱達みたいに禿げそ、っじゃなくて!僕の言いたいこと分かってて話逸らしただろ!?」

クチナシが突然大声を上げたので、目の前の子竜が驚いたようにピタリと動きを止めた。不安そうに此方を見上げてくるルビーのような瞳を見つめ返しながら、恐らく、クチナシから放たれる感情を敏感に感じ取ったであろう子竜に向けて、ユリは安心させるように微笑みかけた。

竜、という個体は非常に賢い生き物だ。知性は人間と同等、もしくはそれ以上であり、種を超えて他者の感情に敏感な生き物でもあり、なおかつ警戒心の強い生き物でもある。敵意を向ければ相応の敵意を返すし、心を開いて接すれば同じように心を開いてくれる。優秀な竜の調教師である父と竜に囲まれて育ったユリは幼い頃から何度もその話を聞かせられて育ち、今のクチナシのように育成途中である子竜の前で負の感情を露わにするのもあまりよろしくないという教えも耳に胼胝ができる程言い聞かせられてきた事だった。

その為、クチナシから放たれる焦りとの気配を察知して警戒している子竜を安心させるように微笑みかける。

何でもないよ。ここには君に害を与えるモノは何もない。

そう気持ちを込めて微笑みかけるとそれが伝わったのか、子竜はルビーのような瞳でユリを見つめて瞬いた後、再び地面を転がり始めた。しかし、負の感情を見せたクチナシのことは警戒しているのか、クチナシから距離を取るように転がっていき、スペースの端に高く積まれている干し草の山に頭から突っ込んだ。どうやら頭部の角と干し草が絡まってしまったらしく、四肢をジタバタと振り回して干し草の山から抜け出そうと奮闘している子竜の姿は可愛らしいものだった。それを見ていたユリの口元に穏やかな微笑が浮かんだが、隣のクチナシは対照的にため息を溢した。

「……ごめん」

それが何に対する謝罪なのか理解し、クチナシの肩を叩いて慰めた。

「大丈夫だよ。歴戦の調教師だって子竜の前で負の感情を露わにすることはある。お父──玉竜褒章を貰ってる手練れの調教師ですら子竜の前で飲酒して、あろうことか絡み酒して全治二週間の火傷を足に負ったことだってあったんだから」

「ユリ、慰めてくれるのは分かるんだけど個人を特定できる事例を挙げるのはやめてやれ。竜種に絡み酒した調教師はキンジュさんしかいないって新人調教師の僕でも知ってる。あと、玉竜褒章を授与される程の調教師だったからこそ全治二週間の火傷んだぞ、それ」

深いため息と共に返された言葉に思わず目を瞬かせた。

父であり、優秀な竜の調教師に贈られる玉竜褒章という勲章を授与された一流の竜の調教師でもあるキンジュは、調教師界隈では色んな意味で有名だ。そんな男の子供であるユリも「キンジュの子供」として調教師達の話題に上がる事も少なくない。中にはユリがキンジュの子供だと分かった途端に同情の眼差しを向けてくる者もいる。しかし、その眼差しを不快に感じたことは一度たりとて無く、むしろ、何故そんな目で見られるのだろうと不思議に思っていた。向けられる同情の根本にある思いが「優秀で高明な同業者の父を持つと大変だな」というものではなく、「調教師としての腕が良いとはいえ、あの破天荒で型破りな父親を持つと日常生活も大変だろう。困った事があればいつでも相談してくれ。できる限り力になるからな」という周囲なりの親切心の類からくるものだからだ。どうやら周囲の人間からすると、キンジュは竜の調教師としての名声よりも、一人の人間としての評価の方があまりよろしくない意味で有名らしい。物心ついた頃から父の後ろについて回って竜と共に育ったユリからすれば、キンジュは子供にも竜にも分け隔てなく優しく接してくれる、ちょっと剽軽な性格が玉に瑕の、どこにでもいる父親だと思うのだが。

とにかく、玉竜褒章を授与された一流の竜の調教師の端くれとは言え、子を持つ親として如何なものかと周りから思われているようなキンジュに敬意を抱いているような口ぶりで話すクチナシのような人物は珍しかった。普段からそういった人物との会話にあまり慣れてないこともあり、込み上げてくる照れくさい気持ちをどう処理したものかと困り果てていると、干し草から頭を引き抜こうと奮闘していた子竜が勢いよく干し草から頭を引き抜き、勢い余って尻餅をついて転がった。角に絡まっていた干し草を無理矢理引き千切って脱出したらしい。小さな干し草の塊を純白の角に突き刺して不機嫌そうに「グルルル」と唸り声を上げた子竜は、自らの失態を誤魔化すように真っ赤な長い舌で毛繕いするように体のあちこちについた干し草の屑を取り除いていたが、途中で飽きたのか、純白の角に小さな干し草の塊を刺したまま、辺りをのしのしと歩き始めた。純白な鱗で覆われた美しい体躯に干し草の屑があちこちに引っ付き、体躯同様に純白の美しい角にも小さな干し草の塊を突き刺したその姿は、空の支配者と誉れ高い竜種の子供とは到底思えない程間の抜けた姿だった。それでも本人は気にした様子も無く堂々と歩き回っているので、子竜の間の抜けた姿と堂々とした態度の差が可笑しくて思わず笑ってしまった。

「せっかく角まで綺麗な白なのに、そんな恰好で歩き回ってるんじゃ竜種の威厳もあったもんじゃないなぁ」

そんなユリの言葉に反応したのは子竜ではなく、クチナシの方だった。複雑そうな表情で此方を見るクチナシの言いたいことは分かっていた。さっきもそれを言いたかったのだろう。分かっているからこそ、クチナシに向けてこう告げた。

「確かに、この子はアルビノ種だ。でも、この子は今までのアルビノ種と違うよ、クチナシ。この子は生まれてから一度だって体調を崩す事は無かったし、私達竜の調教師が太鼓判を押せるほどの健康優良児だ。力だって他の子竜と遜色ない」

そう言うと、クチナシは困ったような表情で「そりゃそうだが……」と言い淀んだ。言い淀むクチナシの考えている事が分かってしまう分、ユリは苦笑した。

アルビノ種とは、千頭に一頭の割合で生まれる純白の鱗に覆われた珍しい毛色の希少な竜の事を示している。卵から孵ったばかりの頃の竜は皆総じて淡い色の鱗なのだが、二週間もたてばそれぞれの個性に合わせて色が浮かび上がる。しかし、アルビノ種と分類される竜は二週間が経過しても鱗が白い。それだけの理由ならば見目のいい竜として評判になっていただろうが、クチナシが言い淀む理由が別にある。件の竜達は純白の鱗を持つ竜であると同時に、他の色の竜種に比べて圧倒的に力が弱く、体も弱い事で知られている。竜の強さは色では決まらないというのが調教師界隈では常識だが、彼らに関してはそれが全く当てはまらない。彼らはその特徴故に竜騎士軍の騎竜には不向きな個体だと知られており、それは生態学的にも立証されている事実でもあった。それ故にアルビノ種は竜騎士軍では好まれないどころか疎まれさえする個体であり、その種の竜だと断定されれば竜舎から追い出され、個人でやっている竜の調教師に引き取られて魔術の触媒として育成されることになる哀れな竜でもある。それが空の国でのアルビノ種の扱いだった。

クチナシが先ほどから複雑そうな表情で子竜を見ているのはそういう理由からだ。その種の竜だと断定されて竜舎から追い出されるであろう目の前の子竜の行く末を憐れみ、上層部へこの事を報告すべきか思い悩んでいるのだろう。共に働き始めて数か月程しか経過していないが、一日の大半を共に過ごして働いていればいくら他人と言えども同僚の人柄は見えてくるものだ。子竜の行く末を憐れみ、共に子竜の育成を担当するユリへ「子竜がアルビノ種であることを上層部へ報告に行こう」と言い出さないクチナシの心根の優しさを理解しているからこそ、ユリも安心してこの場に立っていられる。これが他の人間だったならば、こうやって肩を並べて子竜の将来について考える時間も無かっただろう。クチナシのその優しさは竜騎士軍に所属する竜の調教師には不要なものだと弾劾されるだろうが、同じ思いに駆られてとある決心をしたユリにとっては好ましく思えるものだった。

「クチナシ、大丈夫だよ。この子の事は私に任せてほしい」

「任せろったって……どうするんだよ。この子竜、このままじゃ竜舎から追い出されて……」

ユリが想像していた通りの事を考えていたらしいクチナシの言葉に思わず笑ってしまいそうになったが、どうにか堪えて子竜に歩み寄った。純白の角に突き刺さった干し草の塊を引き抜き、純白の鱗についている干し草の屑も払い落としてやると、子竜は遊んでもらえると思ったのか、ユリのお腹に頭を擦り付けてくる。竜種は幼体の時から人より遥かに力が強く、それはアルビノ種である子竜も例外ではない。ぐりぐりとお腹に突っ込んでくる子竜の力に圧し負けて後ろへたたらを踏み、あわや後ろへひっくり返りそうになったところでどうにか踏ん張って堪えた。人よりも圧倒的なパワーを持つ竜を相手にする竜の調教師でなければ、今頃尻餅をついていただろう。他の子竜と遜色ない力の強さを発揮して見せた子竜の逞しさに微笑みつつ、それでもアルビノ種というだけでこの竜舎から追い出されるであろう目の前の子竜の将来を見据え、ユリは口を開いた。

「この子は、私が引き取る」

「……それ本気か?」

クチナシの固い声色にユリは頷いた。

「うちは代々竜の調教師やってるし、今更子竜一頭の面倒見ることなんて朝飯前さ」

「面倒見るってそんな簡単に……竜だぞ?犬猫の面倒見るんじゃないんだぞ!?」

「?犬も猫も竜も世話の仕方はそう大して変わらないだろう?」

「いや規模!スケールがちげぇから!竜だぞ!?舐めてんのか!?」

ギャンギャンと大声を上げるクチナシに驚いた子竜があっという間にユリの背後に隠れて体勢を低くし、「グルルル」と威嚇の声を上げて鱗を逆立てる。どうやら子竜は大きな音が苦手らしい。自分の背後で威嚇している子竜の頭を撫でて宥めながらクチナシに視線を向けると、彼はそれだけで自分の二度目の失態に気付いたようだった。クチナシの表情が再び気まずげなものになり、ユリの背後にいる子竜が鱗を逆立てたままだと知るや否や、眉尻の下がった情けない表情へと変化した。その変わりようが面白くて思わず笑ってしまうとジロリと睨まれ、慌てて顔を引き締めて誤魔化すように咳払いをした。

「勿論、竜の面倒を見るのは大変だってことは分かってるさ。

そう言うと、クチナシは怪訝そうな顔をした。どうやらこちらの言いたいことを掴み損ねているらしいのでさらに言葉を重ねた。

「身内に竜の事しか考えられないような破天荒な調教師がいるとね、家も周りの環境もそれなりに破天荒な造りになるものなんだよ。それこそ、高位種の竜の面倒も見れるぐらいな、ね」

そう言うと、クチナシは漸くこちらの言いたいことを悟ったようで目を真ん丸に見開き、「まさか」と口元を引き攣らせた。

「キンジュさん、竜が好きすぎて家でも竜を飼えるように家を魔改造して空想で飼って楽しんでるっていうあの噂、本当だったのかよ……」

「うーん、いつ聞いてもその噂面白過ぎるんだけど。残念だけど、その噂は事実じゃないよ。実際にのさ。私が生まれる前から既に一頭いてね。そんな環境にいたもんだから、他の家でも竜がいるもんだと思ってたんだけど、皆にそのこと聞くと凄い顔で見られてね。赤ん坊のころから竜にあやされて育ったし、てっきり竜は子育て要員として家に一頭いるものだと」

「んなわけないだろ……竜が家にいる家庭なんてお前ん家ぐらいなもんだぞ……」

「うん。竜騎士軍に入隊してから私もそれを知った。どうりで他の調教師達と話が合わないなぁと思ったんだよね。家が広ければ皆も成竜一頭ぐらいなら余裕で育てられるのに」

「いや、無理だから普通に。家が広いだけじゃ竜とは一緒に住めねぇから。調教師でも無理だから。キンジュさんぐらいなもんだから。本っ当にあの人何でもありだな……家で竜を飼ってたって事は、許可証の申請も通ったのか……?」

「きょかしょう……?」

なにそれ、と目を丸くするユリにクチナシが肩をがっくりと落として「そこからかよ……」とぼやいた。クチナシの様子から察するに、どうやら自分は大切な何かを知らないらしい、と状況を把握してユリは頬を掻いた。竜のことは父から叩き込まれて何でも知っているつもりでいたが、まだ知らないことがあったとは。

「もしかしてそれ結構重要なやつだったりする?」

そう聞くと、クチナシは頭を抱えて唸り出した。

「竜騎士軍に所属する調教師が竜騎士軍の竜舎以外の場所で竜を飼育しても良いって国からのお墨付きを記した書状だよ……軍に所属してる調教師が個人宅でも竜を飼育するなんて滅多に無いし、申請もあんまり通らないことで有名だから現物見たことないけど、確か緑色の羊皮紙の書類だったはず……家で竜を飼ってたってんならそれっぽい書類見たことあるだろ?」

そう言われて記憶を辿ったが、思い当たる書類は何一つ出てこなかった。一緒に住んでいた姉のような存在だった竜、ザクロは悪戯もしない聞き分けの良い利口な竜だったのでその許可証とやらを隠したり食べたりしていたという事もないだろう。そもそも、竜と共に暮らしている家に竜の吐く炎で燃えてしまうような書類等というものが存在している筈がない、と言い訳めいたことを危うく口にしかけ、寸でのところで堪えた。しかしクチナシは何やら悟ったらしく、訝し気にこちらを見つめてきたので誤魔化すように曖昧な微笑を浮かべた。それを見ただけでクチナシは大きな溜息を吐いて項垂れた。

「……家に許可証があるって前提で話を続けていいか?いや、いい。何も言うな。言わないでくれ。許可証があると信じて話を続けるぞ。っていうか軍に所属する調教師が許可証無しで竜の育成とか竜の調教師免許剥奪もんの重罪だから流石のキンジュさんも申請通してるって信じて話続けるぞ。とにかく、普通の竜種なら許可証一つで一緒に住めただろうが、この子竜はアルビノ種とはいえ、竜騎士軍の高位種の竜の血を引く竜だ。普通の竜種とは訳が違う。高位種の竜を引き取って竜騎士軍の竜舎以外で飼育するんなら他にも必要になるものがある。まず前提条件として専用の設備を備えた竜舎が必要になるだろうし、」

「竜舎なんて要らないよ。大きな家があればいいんだから」

「お前の家の規模で話を展開するな。俺の気が狂う。やめろ。お前が引き取るのは普通の竜種じゃなくて高位種の竜だって言って――頼むからそのキョトン顔でこっちを見ないでくれ……俺がおかしいみたいだろ……」

とうとうクチナシが顔を両手で覆ってしゃがみこんだ。何やらよく分からないが、クチナシの心を折ってしまったらしい。そのままブツブツと独り言を呟き始めたクチナシの様子が気になるのか、子竜がユリの背後から顔を覗かせて鼻をスンスンと鳴らす。逆立っていた鱗はすっかり元に戻っており、どうやらクチナシへの警戒心を解いたようだった。それどころか、興味を示しているらしい。子竜の態度の変化を微笑ましく思いながらその純白の鱗を撫でていると、クチナシが両手を下げてゆらりと立ち上がった。その顔は酷く疲れ切っていた。

「ユリ、その子竜を引き取るって決めたんならとりあえず一回キンジュさんに相談しておけ。さっきも言った通り、普通の竜種ですら飼育するのに許可証がいるんだ。これまで一緒に住んでた竜と一緒にして考えるんじゃないぞ。何度も言うが、その子はアルビノ種とはいえ、竜騎士軍の高位種の竜なんだ。そんじょそこらの竜とは訳が違う。許可証が既にあっても、高位種の竜の飼育には別の許可証も必要になる筈だ」

「なるほど……ん?今ある許可証はもう一回取得しなくていいの?今家にあるの前に一緒に住んでた竜の分の許可証だけど」

「あぁ、竜に対して許可証が交付されるわけじゃなくて、面倒を見る調教師に対して交付される書状だからな。ユリはまだ調教師になりたてだから多分どう頑張っても許可証の申請は通らない筈だ。キンジュさんが面倒を見るという手で引き取る形にすれば別の許可証の申請も通るかもしれない……前に取得した許可証をきちんと保管していれば、の話だけどな」

ジロリ、と胡乱な目つきを向けられて咄嗟に笑って誤魔化したものの、ふと、ある疑問が浮上した。

「そういう書類って一回交付されてたらもう一回再取得する必要は無いって認識でいいのかな?」

「――何度でも言うが、許可証をきちんと保管していればの話、な」

「あ、いや、そっちの許可証の方じゃなくて……高位種の竜の育成に必要な別の許可証の方の話。それも一回交付されたら再取得しなくていい感じ?」

「多分な。前例はあんまり無いけどそれも調教師に対して交付される書類だろうし」

クチナシが肯定の意を込めて浅く頷いたのを見てユリは安心した。家で竜と一緒に暮らすためには許可証という書類が必要になるだなんて初めて聞いた話だったので少々驚いたが、ザクロと共に一緒の家で暮らしていてキンジュが竜の調教師免許を剥奪された事は一度たりとて無いし、きっと家中を探し回れば許可証は見つかる筈だろう。クチナシの話を聞いている限り、

そう胸を撫でおろしているユリの様子が気になったのか、クチナシが心配そうに眉を下げて話しかけてくる。

「おい……さらっと別の許可証も交付される前提で話進めてるけど、その申請が一番審査厳しいやつだからな?一流の調教師のキンジュさんでも申請通るか分からない書類だぞ?今日家に帰ったらキンジュさんに必ずこの許可証の話しろよ?ユリがこの子を引き取れるまでどうにかしてこの子が竜舎から追い出されないように先輩にも話し通して上層部にも掛け合ってみるから。申請通るまでに何日かかるか分からないし、早めに行動を、」

「あ、そのことなんだけど」

どうやらこちらの心配をしてくれているらしいクチナシの気持ちを有り難く受け止めつつ、事情を説明するために敢えてその言葉をやんわりと遮ると彼の表情が真顔になった。

「許可証やっぱり無いとか今更言うなよ」

「あ、うん。今日家に帰ったら家中探すよ――じゃなくて、別の許可証の方なんだけど、多分大丈夫」

そう発言すると、クチナシが「何が?」と怪訝そうに眉を顰めた。どうやら言葉が少なすぎて言いたいことが上手く伝わっていないらしい。そう察したユリは先ほどの発言を言い直した。

「多分、その別の許可証も家にあるから大丈夫」

「なんて?」

真顔のクチナシが間髪入れずに聞き返してきたので、ユリは更に言葉を重ねて説明した。

「いや、実はうちで一緒に住んでた竜が高位種の子だったんだ。ザクロっていう名前の子でね。騎竜を二百年も務めた竜だったらしいんだけど、もう年だから穏やかな余生を過ごさせてあげたいってお父さんが上層部に直談判して引き取ったらしいんだよね。年のせいか紅龍レッドドラゴンにしては珍しく凄く大人しい子で、でも高位種らしい気品と知性を持った綺麗な竜でさ。多分、人間の子供が好きだったんだろうなぁ……お父さんがふざけ半分で『ユリの面倒を見ててくれ』って言ったら本当に私の面倒を見てくれた気性の優しい子で――ごめん、話が脱線したね。とにかく、そういう事だからお父さんが既にそういう申請書類とか許可証とか揃えてると――クチナシ?どうかした?」

簡単に事情を説明するつもりがうっかり昔話に花を咲かせてしまい、慌てて話を戻そうと俯いていた顔をクチナシに向けると、彼は顔を両手で覆って天井を見上げていた。何をしているのだろう、と首を傾げるユリの真似をするように子竜も首を傾げる。クチナシはその恰好のまま言葉を発した。

「お前んほんと何なの」

向けられた言葉の意図を理解できず、ユリは思わず子竜と顔を見合わせた。よく分からないが、どうやら彼の心を再び折ってしまったらしい。子竜が「クチナシは一体どうしたの?」と言いたげに不思議そうに見上げてくるので、ユリは笑って肩を竦めて見せた。

「彼の事は気にしなくていいよ。多分直ぐに復活するさ」

そう言って純白の鱗に覆われた頭部を優しく撫でると、子竜は気持ちよさそうに喉をクルルルと鳴らした。懐かしいその音に目を細め、ユリは笑みを深くする。子守歌代わりにその音を鳴らして自分の面倒を見てくれていた姉代わりのザクロは、寿命で五年前に亡くなってしまった。亡くなる間際まで喉からその音を鳴らし、ユリを元気づけようとしてくれていた心優しい竜との思い出を脳裏に巡らせながら、ユリはこれから家族になる子竜に向けてこう言った。

「これからは私が君の姉でありお母さんだよ。まだまだ半人前の調教師だけど、よろしくね」

ザクロが自分の面倒を見ていたのと同じように、今度は自分が子竜の面倒をみるんだ。そう決意しながら子竜を見つめると、ルビーのような目が自分を真っ直ぐに見つめ返し、不思議そうに首を傾げる。恐らく、ユリの言葉を理解できなかったのだろう。竜は周りの生物の感情に敏感に反応するが、言葉も理解しているわけではない。その為、竜騎士軍では騎竜となる竜に一年ほど人間の言葉を覚えさせて言葉を理解できるように教育し、意思疎通が図れるようにするのだ。騎竜にならないとはいえ、この子竜にも同じように人間の言葉を教えたほうがいいだろうか、と子竜の今後の教育方針を自然と考えてしまい、思わず苦笑いした。まだいつから一緒に住むのか決まってもいないのに、つい気持ちが逸って先の事を考えてしまっている。子竜と共に暮らすのに必要な特別な許可証が既に家にあるだろうとはいえ、必要とされる二枚の許可証をこの目でまだ確認できていない。必要な手続きだってまだあるだろうし、この子竜と共に暮らせるようになるまでどれくらい時間が掛かるのか分からないと言うのに。

子竜と暮らせるのがよほど楽しみらしい、と自分の感情を客観的に分析しながら子竜の頭を撫でると、子竜は再び喉をクルルルと鳴らした。その懐かしい音に耳を澄ませていると、子供の頃の記憶が呼び起こされるようだった。心の優しい紅龍レッドドラゴンと共に過ごした穏やかな時間。子竜ともそんな素敵な時間を過ごせられたらいいなぁ、とこれからの生活に思いを馳せながら、ユリは慈しみのこもった眼差しを子竜に向けたのだった。

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陽だまりの花 @yamatori1109

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