武器屋の話

精霊の炎スピリートゥス・フランマという武器屋がある。

その武器屋を話題に出せば、武人を名乗る者は目の色を変えてその名を口にした者へ飛びつくだろう。その武器屋の名は武人界隈では特別な武器屋として広く知られている。その理由として以下三点の特徴が上げられる。

一つ、その武器屋に店舗は無く、移動販売のような形式で武器を販売していること。一つの国に留まらず、箱型の不思議な四輪駆動の乗り物で旅をしながら武器を販売しており、常に様々な国を放浪しては居場所を変えるので、望んでその店に行こうとしても出会える確率はほぼ零に等しいことから「出会えた者は一生分の運を使い果たした」と言われている。

二つ、普通の武器屋ではまずお目にかかれない、古の魔術で強化された武器を取り扱っていること。世界各地に存在している高名な武器職人達から武器を買い取っては、職人達の許可を得た上で特別な古の魔術を武器に施し、世に二つとない特別な武器を商品として売っており、世に名を轟かせて活躍する武人の殆どがその武器屋から買った武器を必ず所持していることから、世界中の武人達からは「その武器屋で武器を買ったものは栄光を掴む」と噂されている。

三つ、店主が気に入った客にしか武器を売らないこと。血の滲む様な思いをしてその店を訊ねることが出来たとしても、店主が客を気に入らなければ武器を売ってくれず、いくら金を積まれようが頼まれようが泣いて懇願されようが、店主が気に入らなければ決して武器を手にすることは叶わない。そこそこ名のある武人がやっとの思いで店を見つけて店主に武器を売って欲しいと縋り付いても、店主は決して首を横に振るばかりで武器を見ることも叶わず、武人がその場で泣き崩れた話は特に有名だ。武器を売ってくれないことに腹を立てて店主に襲いかかった武人も過去にはいたようだが、店主に返り討ちにされて何処かへ埋められたと実しやかな噂もある。

以上三点の特徴から、武器屋精霊の炎スピリートゥス・フランマは武人界隈では控えめに言っても色んな意味で有名だ。店主に気に入られないと武器を売ってもらうことは叶わないというとんでもない噂を聞いたとしても、栄光を夢見る武人達のほとんどが精霊の炎スピリートゥス・フランマの武器を手にしたいと願うほど、憧れの武器屋の一つとして名を挙げられる。

さて、そんな名の知られた武器屋である精霊の炎スピリートゥス・フランマだが、武器屋としての名声は高いが、実は店主についての話を知る者は驚くほど少ない。無体を働いた客を返り討ちにしたという噂が流れているくらいなので、店主は武人顔負けの武力を誇る気難しい大男なのでは、と勝手なイメージが一人歩きしているが、店主の姿について語るものは誰一人としていない。何としても精霊の炎スピリートゥス・フランマで武器を手に入れたいと願う武人が「店主を見掛けたらすぐ分かるようにしておきたい」と、武器を購入することが出来た者達に店主の容姿について聞き回ったこともあったらしいが、皆口を揃えてこう言うらしい。

「覚えていない」と。

驚いたことに、皆しっかりと店主の顔を見て会話もして武器を売ってもらったはずなのに、店から離れた途端、店主の姿や声を覚えていられなくなるのだという。気がついたら精霊の炎スピリートゥス・フランマから購入した武器を手にして帰路の道についていたというので、話を聞いた武人は話の面妖さに「店主は本当の精霊か幽霊なのでは?」と疑い始め、やがて「精霊の炎スピリートゥス・フランマの店主は亡霊だ」等というとんでもない噂も流し始める始末だった。


火の国と森の国の国境近く、深い緑に覆われた人気ひとけの無い森の中、よく見れば道として整備されていた時代もあったらしい轍の後が微かに残る、苔むした道の傍らに一台の四輪駆動車が停車している。古代文明では移動販売車ケータリングカーと名称されるその乗り物は全身濃紺色で染められており、非常にシンプルな長方形の形をしている。かどが丸みを帯びていることもあってどこか可愛らしさを感じるフォルムのそれは、国によっては古代文明の遺物として丁重に保管される事もある貴重な古代の乗り物で、現代ではなかなかお目にかかれない代物だ。ましてや、エンジンの掛かるものは非常に珍しいとされるのだが、その濃紺色の移動販売車ケータリングカーはどうやら今尚現役で稼働する代物らしく、タイヤは土で汚れ、車体のあちこちには微かな擦り傷もある。

そんな古代文明の遺産である移動販売車ケータリングカーの前に、一人の男が折り畳み式の簡易椅子を広げて腰掛けている。墨色の作務衣を身に纏い、火はおろか、刻み煙草も詰められていない煙管を銜えて眉間に皺を寄せ、気難しそうな表情で足元を見つめるこの男こそ、この移動販売車ケータリングカーの持ち主であり、存在が怪し過ぎて「亡霊だ」等と噂されている精霊の炎スピリートゥス・フランマの店主、グランディスだ。

彼が渋い顔をする理由は、つい先日訪れた街中で聞いた己に対する噂が原因だった。

精霊の炎スピリートゥス・フランマの店主は亡霊、ねぇ……いやいや、生きてるわ。亡霊は失礼過ぎるだろ」

そうボヤいたものの、それに応える者はいない。応える者どころか、周囲を見渡しても人っ子一人いない。

人気ひとけの無い苔むしたこの道は、十年ほど前まで火の国と森の国を繋ぐ重要な国道として使用されていたのだが、火の国と森の国の国交が閉ざされて以来、この道を通る者はいない。

人通りの多い場所が苦手な性分故についついそういった寂れた道を好んで通り、道に沿って運転すること約四時間、長時間の運転に飽きて休憩がてら開店してみるかと道の脇に停車して一時間程こうしてぼんやりしているのだが、見事に人一人も通らない。通ったのは野鼠一匹ぐらいだ。心の中にいる冷静な自分が「開店する場所を間違えたな」と脳裏で呟く声を聞き流し、銜えた魔具の煙管をユラユラと揺らした。

こうやって場所を選ばずに開店するのでなかなか客に巡り会えないんだよなぁとそこそこ反省はしているのだが、まぁ、運が良ければ一ヶ月に一人くらいはこういう場所で開店していても客に巡り会えるので、実を言うと反省はその場限りのもので、次回の開店場所選びには生かされていないというのが現状である。何度もそういうことを繰り返してしまうものだから、いつの間にか武人界隈では「精霊の炎スピリートゥス・フランマに出会えたら奇跡」等と噂されるようになり、中には「店主に気に入られないと武器を売ってもらえない」というとんでもない内容の噂までもが流されてしまっている始末だ。さすがに後者の噂については真っ向から否定したい。特別な武器欲しさに万引きをしようとする輩や転売目的で武器を購入しようとする輩、値段が高いから手持ちの端金で何とかならないか等ととんでもない相談をしてきた輩をこてんぱんに叩きのめしたことはあったが、自分の客の好みで商売をしたことは一切ない──と、思う。たぶん。

聞かせる相手のいない釈明の言葉を心の内で呟くも、噂を真に受ける客層へその釈明の言葉が届くことは無い。奇跡的に訪れた客へ伝えられることが出来たとしても、それが世間へ広がる事もないだろう。何せ、それを伝えたところで客は全て

大きくため息を零したグランディスに同情するかのように、風が微かな湿気を帯びて頬を撫でる。その風を吸い込むと微かな異臭が鼻についた。赤錆びた鉄の臭い。嗅ぎ覚えのある臭いだ。立ち上がって素早く周りを見渡したが、異変はない。しかし、人より多少利くと自負している嗅覚が臭いのする方向を知らせている。神経を一瞬で研ぎ澄まし、そちらへ視線を向けた。そこにあるのは苔に覆われた寂れた道に侵蝕する木々の根や幹だ。その木々の奥には深い緑に覆われた豊かな森が広がっており、その奥から物騒な臭いは漂ってきていた。臭いに影響されて粟立つ首筋を宥めるように擦りながら、深い緑のその奥にあるであろう臭いの発生源が見えないかと目を細めて見つめるも、見えてくるのは豊かな緑のみだ。しかし、嗅覚はこの臭いの発生源が近いことを知らせている。脳裏で鳴り響く警鐘に溜息を零しながら、わざと剽軽な声色を意識して呟いた。

「血の臭いたァ、穏やかじゃないわな」

この臭いは到底好きになれそうにない。そんな思いを込めた独り言に返事をするかのように、深緑の奥にある茂みの一角が大きく揺れた。臭いが濃くなっていることに気付き、どうやら臭いの発生源と鉢合わせするようだと茂みを見据えた。戦闘に関してはズブの素人だが、魔術には少々腕に覚えがあった。と言っても、戦闘に使えるようなものは目眩しのようなものしか使えないのだが。さて、臭いの正体は何者だろうかと思考を巡らせながら銜えている煙管の羅宇を指先でなぞる様に触れると、装飾として埋め込まれている飾り石のひんやりとした温度が伝わってきた。ただ黒に染められた羅宇の中央部にポツリと埋め込まれた暗い赤色のそれは、魔術の発動に欠かせない特殊な祝詞が緻密に彫り込まれた魔石であり、パッと見ただけでは非常に分かりづらいが、煙管そのものが魔具である事を示している。魔術発動の際に精霊へ捧げる触媒の魔石は懐に忍ばせているので、呪文を唱えればいつでも魔術を発動できる。唱えようとしている魔術は殺傷能力が低い下級魔術だが、それを用いて盗賊や魔物を退けてきたのでまぁなんとかなるだろう。呪文も短いので、臭いの正体が茂みの奥から姿を表しても先手を打つことは出来るな、と楽観視すらしていた──茂みから上半身だけ覗かせたそれを、視界に収めるまでは。

それは一見、赤と黒が入り交じった毛並みを持つ猪のように見えた。が、猪にしては巨体すぎる。口から生えている牙は人間の大人の腕よりも太く、意図せずかち合ってしまった血走った眼は握り拳大ほどの大きさがあるように見えた。下半身は森の豊かな緑に遮られて見えないが、見えている上半身だけでも相当な巨体の主であることが知れる。魔物か。はたまたこの森を縄張りとする獣の類か。その正体を見極めようと咄嗟に見詰めてしまったのが運の尽きだった。こちらに気付いた猪と視線がかち合うこと僅か数秒後、咄嗟に視線を逸らしたが、それでも猪は見逃してくれなかった。ギイイイ、と聞くに耐えない雄叫びを挙げてこちらに向けて突進してくる。豊かな緑に隠れていた猪の全身が顕になり、見えたその巨体に目を見開いた。移動販売車ケータリングカーとほぼ同じ大きさはあるだろうか。巨大な黒猪が地響きをたてて木々を薙ぎ倒しながらこちらへ突進してくる様は圧巻だった。あれはヤバい。目眩しのような魔術でどうにか出来る相手ではないと本能がそう警告してきた時には遅すぎた。巨大な黒猪は既に数メートル手前まで迫ってきている。すぐ後ろにある移動販売車ケータリングカーの下に潜る時間も無いだろう。逃げられない。いつでも魔術を唱えられるようにと羅宇をなぞっていた指は黒猪の迫力に圧されて強ばり、呪文を唱えようとしていた唇は痺れたように動かない。今出来ることと言えば、迫り来る巨大な黒猪を見つめることだけだった。あぁ、これは死ぬ。短い人生だった、と諦観に近い心持ちで瞼を閉じたが、一瞬の間もなくやってるであろうと覚悟していた衝撃はいつまで経ってもやってこなかった。極度の緊張状態で体感時間が遅いのだろうかとも思ったが、数秒、十数秒経てども衝撃は来なかった。どういう事だ、と恐る恐る目を開くと、目の前は黒一色で染っていた。黒猪の巨体が目の前に迫ったのだろうと思ったが、直ぐにそれは違うと分かった。これだけ目の前に迫っているのにいつまで経っても衝撃がやってこない上に、未だにこうして思考する時間がある。おかしい、あれだけの突進力がある巨体なのだ、とっくにこの体は黒猪の巨体に跳ね飛ばされて宙を舞っているか、地面に叩き付けられて踏み潰されているかの悲惨な目に遭っているはずだ。どういう事だ、と困惑しながら目の前の黒を見詰めていると、目の前の黒が風に靡くように──翻った?驚きのあまり後退ると、その黒の正体が明らかとなった。黒猪だと思ったその色は、グランディスに背を向けるようにして立つ一人の人物が纏う外套の色だった。黒い外套を身に纏うその背丈は自分の頭一つ分は高い。背丈からして恐らく男、だろう。いつの間に現れたのか。咄嗟のことに思考が固まった次の瞬間、地鳴りのような地響きが腹の底を突き上げた。何事か。いやそれよりも黒猪はどうなったのだ。いやいや、それよりもこの目の前の男はいったい。現状を全く掴めず、とっ散らかる思考を置いて体が勝手に後退ると、すぐ後ろにあった移動販売車ケータリングカーに背中を打ちつけてしまった。その音に気付いたのか、目の前の男が半身だけ振り返り、その姿が顕になった。二十代後半ぐらいだろうか。黒々としたくせっ毛質の髪に、血のように赤い瞳が印象的な精悍な顔立ちの男だ。少々釣り目気味の目元のせいか、はたまた黒い外套から覗く上衣や下穿き、ブーツさえも黒で統一されている服装のせいか、にこりとも微笑まずにこちらを見る男は近寄りがたい雰囲気の持ち主だった。何と言えばいいのか、人の上に立つ人間が発する逆らい難いオーラのようなものを滲ませている、とでも言えばいいだろうか。何者か、と問う事も憚られるような男の雰囲気に気圧されて言葉を発せずにいると、その心情に気付いたのか、赤い瞳がきょとりと瞬いた後、鋭い眼差しが少し柔らかくなった。

「怪我は、ありませんか?」

顔立ちからは想像も出来ない穏やかな微笑を浮かべた男が問い掛けてきた。先ほどまで男の纏う雰囲気に気圧されて言葉を発せなかった自分があほらしく思えてしまう程に人好きのする穏やかな表情だった。虚を突かれて咄嗟に頷きかけたが、半身だけ振り返った男の向こう側に黒猪の巨体が見えて全身が硬直した。黒猪が直ぐ後ろにいるのに何故この男はこちらに振り向いているのか。危ない。咄嗟に男に向けて手を伸ばしたが、黒猪の様子がおかしいこと気付いた。黒猪はこちらに突進するどころか、地面に蹲るように突っ伏していた。動く気配もない。一体どうしたのだろう、と男越しに黒猪を恐る恐る観察すると、黒猪の足元から赤黒い液体が広がり始めていることに気付いた。黒猪の血、だろうか。地面に突っ伏した黒猪を中心に夥しい量の血が音も無く広がり、鉄が錆びたような臭いに生臭さが加わったような異臭が鼻をついた。一体何が起きたのかと困惑のあまり言葉を失っていると、目の前の男が淡々と告げた。

「魔物除けの香が効かないほど興奮しているようでしたので首を落としました。不死アンデッド種の魔物では無いようですからもう動くことは無いでしょう」

「首を……落とした……?あの猪の首をか?」

驚くあまり素っ頓狂な声で男の言葉を繰り返すと、男は肯定するように浅く頷いた。

「はい。確認しますか?」

男が黒猪に向けて歩み始めたところで、何となく男がこれからしようとしていることを察し、慌てて首を横に振った。

「い、いや、いい。結構だ。その猪がもう動かないんなら、それでいい」

そう言うと、男は足を止めて半身だけ振り返った。距離が離れたことで黒い外套を身に纏う男の全身をくまなく観察することが出来たが、見れば見るほど不思議な男だった。移動販売車ケータリングカーとほぼ同じ大きさの黒猪の首を切り落としたとは信じ難い程に、その体格はあまりにも細身だ。これまでに会ってきた客の武人と比較すると圧倒的に小柄な部類に入る体躯をしている。背丈はグランディスより頭一つ分大きいが、体の幅はほぼ変わらないだろう。腰には鞘に収められた反りのある細身の剣を吊るしているが、あれで黒猪の首を切り落としたのだろうか。あんなに細い剣で。そうだとしたら男はとんでもない剣の技術を持った剣士ということになるが、それにしてはあまりにも体つきが貧相な気がする、と思考が堂々巡りに入りかけたところで、男が再び口を開いた。

「国道とはいえ、この道は人が通らなくなって久しい上に魔物も多い。この魔物の血の臭いに釣られて他の魔物が現れる前に急いで通り抜けた方がいいでしょう。それでは失礼します」

「え、」

忠告めいた言葉を発したかと思うと、男は突然別れの言葉を告げ、何故か緑が鬱蒼と生い茂る森の方へと歩き出した。思わずその背を見送りかけて、慌てて声を掛けてしまった。

「おっおい、そっちは道じゃねぇぞ!?」

男は律儀にも足を止めて半身だけ振り返った。先程から体ごとこちらに向けられないのは、グランディスを警戒しているのだろうか。それともそういう癖の持ち主なのか。男の不思議な立ち居振る舞いに首を傾げるグランディスを他所に、男は「えぇ、知っています。ですが、こちらの方が火の国方面へ向かうのに最短ですから」と丁寧に応えた。男が口にした国の名は、グランディスの目的地の手前にある国だった。この国道を道沿いに沿って歩いていけば辿り着く国でもある。それなのに、最短だからという理由だけで獣道すら無さそうな森の中へ入ろうとするとは、どうやら男はよほど旅路を急いでいるらしい。しかし、幾ら先を急いでいたとしても、道を通らず森の中を突っ切って旅をするのは旅慣れている冒険者でも切羽詰まった状況では無い限り取らない手段だ。特に、火の国の近くでは命を落としかねない手段にもなり得ると知っていたグランディスは顔を顰めた。

「火の国方面に向かうんなら森の中を突っ切るのはやめたほうがいい。あの国は今、魔の国への侵攻に向けてだいぶピリついてるからな。森の中を突っ切ってる所を火の国の兵士に見つかろうもんなら怪しまれて問答無用で牢へ放り込まれるぞ」

忠告のつもりでそう言ったのだが、男は恐れた様子もなく目を瞬かせ、口元にうっすらと笑みすら浮かべた。

「魔の国へ侵攻、ですか。それは、穏やかでは無いですね」

「……アンタ、どこの田舎から出てきたんだよ……ここ一年近く、どこの国でもこの話は有名だぞ……」

「そうでしたか」

初耳でした、と堂々と言い切る男はどうやらよっぽど世間知らずな人物であるらしい。いったい何の用事があって火の国方面に向かうのかは知らないが、子供ですら噂話にして話してる事だぞ、と思わず呆れて溜息を零すと同時に、この男が無事に火の国方面に辿り着けるのだろうかと心配になってきたグランディスはつい、男に声を掛けてしまっていた。

「火の国に用事があるんなら、乗っていくか?アンタの知る最短ルートは通れないが、国道を歩いて向かうよりは遥かに早い時間で火の国へ着くぞ」

男には黒猪から命を助けて貰ったという恩もある。目的地まで男を送る程度の事では恩を返しきれないだろうが、足りない恩返しの分は現金でも包んで謝礼として渡せば多少は恩返しの形になるだろう。もしくは、の手段を使うか。まぁ、後者については現金よりもよっぽど恩返しに相応しい代物になるのだが、命の恩人である男に対して失礼な事をしなければいけなくなるので、出来れば使いたくはないというのがグランディスの本音だ。それはさておき、足りない恩返し分として包む現金がはどれくらい用意しようか、と脳裏で恩返しの算段をしていると、男がきょとりと目を瞬かせた。

「……乗る、とはそれの事ですか?」

移動販売車ケータリングカーの事を知らないのだろう。グランディスの背後にある移動販売車ケータリングカーを不思議そうに見つめるその表情は、幼い子供のように純真な興味心に染まっているように見えた。

「古い乗り物だが、馬力はあるぞ。乗り心地も悪くない」

軽口を混じえてそう告げると、男は何かを考え込むように一瞬だけ俯き、真剣な面持ちでグランディスを見た。一言でも無駄なことを言えば視線を逸らされてしまいそうな静かな眼差しだった。

「歩くより早いと言いましたが、火の国まではどれくらいの時間で着きますか?」

男のその眼差しに圧のようなものを感じ取り、グランディスにしては珍しく「1日も掛からない」と端的に返すと、男は何やら思案するように視線を逸らし、やがて首を横に振った。

「辞めておきましょう。ご迷惑をおかけしますので」

「迷惑って……そんな事思っちゃいないさ。アンタの目指す火の国方面は通り道なんだ。そこまで乗せていくなんざ屁でもないぞ」

まさか断られるとは思ってもみず、慌てて捲し立てたものの、男は淡い微笑を湛えて再び首を横に振った。どうやら頑として断るつもりらしい。ならば、謝礼の金額を増やすか。グランディスが再び脳裏で謝礼の計算を再開させると、それを悟ったように男が口を開いた。

「助けられた恩を返そうと思っているのであれば必要ありません。この魔物はもともとでしたから。私がこの魔物を見つけて斬りかかった時にたまたま貴方がそこに居て、偶然助けたという結果に繋がったにすぎません。お気になさらず」

淡々とした口調で謝礼を断り、今にも踵を返して去ってしまいそうな男の雰囲気に思わず呆気に囚われてしまった。男の放った言葉に違和感を覚えたものの、発言から判断するに、どうやら男は魔物狩りを生業としており、もともと黒猪を目当てにここに訪れていたようだった。取り付く島もないという事はこの事か、とグランディスは困り果てた。気にするなと言われても気にしてしまうのが人間だ。そこまで拒否されてしまうと返って何かお返しをしなければいけない気になってしまう。どうしたものか、と途方に暮れながら男を見詰めていると、それは視界に飛び込んできた。

男の腰のベルトから赤い紐で吊り下げられた緩やかな反りのある細身の得物。それが目に入った途端、恩返しの手段が決まった。の手段に出るしかあるまいと覚悟を決め、今にもここから立ち去ってしまいそうな男に向けて声を掛けた。

「待ってくれ!アンタの考えは分かった。だが、アンタのおかげで俺の命が助かったのは紛れもない真実なんだ。何もしないで見送るなんてとてもじゃないが出来ない。金品が要らねぇんなら、せめてアンタの剣を研がせてくれないか。こう見えても武器屋を営んでるんだ。自分で言うのも何だが、それなりの研磨技術を持ってるつもりだ。時間もそう取らせない」

この申し出も断られたらどうしようもないと思いながら必死に語りかけると、男が困惑したような面持ちで眉尻を下げた。食い下がられて困っているようだと察したものの、命の恩人を手ぶらで見送るわけにはいかないという気持ちがすっかり心に根付いてしまったのでこちらも引き下がれない。これが駄目なら無理やりにでも男を移動販売車ケータリングカーに引っ張り込んで火の国迄送り届けよう。せめてそれぐらいはさせてほしい、と腹を括って男を見つめていると、男が小さく溜息を零した。

「……断っても、次がありそうですね」

まるでこちらの考えを汲み取ったかのようなその発言に、もしやこれも断られるか、と内心ヒヤリとしたが、男が告げた言葉は予想に反していた。

「時間が掛からないなら、お世話になります」

男はそう言って、腰に吊るした剣とベルトを結ぶ赤い紐を外し、鞘ごと剣を差し出してきた。男があっさりと折れてくれた事に驚きつつも、これでやっと恩を返せると安心したグランディスは安堵の笑みを浮かべ、魔具の煙管を懐に仕舞って剣を受け取った。

「任せてくれ」

早速、刃の状態を確かめるべく剣を鞘から抜くと、現れたのは片刃の刃だった。鞘の形状通り、その刃も細身で緩やかな反りがある。その独特な刃をざっと目にした途端、その剣がとある国の武人達に愛用されている武器である事に漸く気づいた。それも、とんでもない武器だった。

「こりゃ魂消たな……カタナか。隠の国で鍛えられたヤツを何振りか扱ったことはあるが、ここまで上等な刃を見るのは初めてだ……おい待て。この刃の色と波紋、それに肌に吸い付くような刃の触り心地……まさか、材質はゲッショクタマハガネか?本物だったらとんでもねぇ代物だぞこれ。隠の国の武人でも早々お目に掛かれねぇ代物だ」

手の中にある武器が相当に価値のあるものだと気付いて思わず男を見上げると、男の顔は微かに強ばっているように見えた。どうやらあまり触れない方がいい話題らしい。今にも「やっぱり返せ」と言い出しそうなピリついた空気を醸し出した男から瞬時にそう判断し、カタナを取り返される前に研磨作業に入ろうと、慌てて懐から魔石を取り出すと、魔石を見た男が微かに目を見開いた。

魔砥術ウェトストネですか」

男から飛び出した言葉に、今度はグランディスが目を見開く番だった。

「おや、よくご存知で」と素っ頓狂な声を上げると、男は「しまった」とでも言いたげに視線を逸らし、心做しか、硬い声音で言葉を紡いだ。

「……故郷にいた刀鍛冶が、使っていたもので」

男の言葉に関心を引かれ、つい手を止めてしまった。

魔砥術ウェトストネとは古代魔術の一つで、名前が示す通り武器を研磨する魔術だ。使用用途が単純明快で至ってシンプルな魔術ではあるが、とある理由から鍛冶屋達からは敬遠されており、魔術のエキスパートである魔術師達がその名を聞いても首を傾げてしまう程、今ではすっかり廃れてしまった知名度の低い古代魔術の1つでもある。使いこなせれば手で直接研磨するよりも圧倒的な速さで武器を仕上げられる上に、古代魔術ならではのによって武器の切れ味は格段に増し、その効果は武器が折れるまで持続する。その為、研磨作業の時は大抵魔砥術ウェトストネを用いてきたのだが、先述の通り知名度が低い魔術であるため、客が選んだ武器に仕上げとして魔砥術ウェトストネを用いた研磨作業を施そうと魔石を取り出しただけで「魔術で武器を壊されるのではないか」と勘違いした客に研磨作業を妨害される事も度々あった。精霊の炎スピリートゥス・フランマの扱う武器は特別だという噂の正体とも言える魔術にも関わらず、武器を破壊されてはたまらないと必死になって武器を取り上げようとする武人はこれまでに何度も見てきた。ところがだ。研磨作業を妨害されるどころか、魔石を取り出しただけで魔砥術ウェトストネを使おうとしていると見破った客はこの男が初めてだった。それも、故郷の刀鍛冶が使っている技術だと言う。見知らぬ土地で同郷の仲間を見つけたような喜びが心を逸らせた。男の言う「故郷の刀鍛冶」とやらの詳しい話が聞きたくて口を開きかけたが、男の硬い表情を見て思い留まった。どうやらこれも触れてはいけない話題らしい。これ以上話しかければ問答無用で手の中のカタナを取り上げられそうな空気を感じとり、慌てて魔砥術ウェトストネの発動に集中しようと手の中の魔石を握り締めた。

「彼の地にて微睡む聖焔の大御神よ、聞き届け給え。汝が創りし鐵の御魂、汝の加護を賜りてその威光を語らん。鐵が裁きし肉塊は汝への供物、溢れる血は彼の地への道標、捧し陽炎の面影と沈黙は汝への畏敬を示すものなり。太古に交わせし誓約の下、彼の地よりその御力を降臨させ給え。鐵の輝きを蘇らせ給え」

祝詞を唱え終わると、手の中の魔石がじわりと熱を持った。魔砥術ウェトストネが発動した証だ。握りしめた手をゆっくりと開けば手の中から薄青の淡い光が漏れ出て、地面へと

「おっと、勿体ない」

淡く発光する魔石から滴る光を無駄にすまいと慌ててカタナの上にその光の雫を垂らすと、雫が触れたところからカタナが薄青に淡く輝きだした。男の様子をチラリと視界の端で確認したが、この光景を前にしても動揺している様子はない。まるで見慣れた街の風景でも眺めているかのような無に等しい表情で淡く輝くカタナを見ている。これまでの客は同じ光景を見ると目をひん剥いて言葉を失って見つめているのだが、先ほど男が言っていた通り、故郷の刀鍛冶が魔砥術ウェトストネを使用していた事でこの光景も見慣れているのだろう。この光景が見慣れるほど魔砥術ウェトストネが流用される故郷とはどういうところなのだろうか。男の言う刀鍛冶とやらのの内容はそう重くないものなのか。男が話した故郷の刀鍛冶について思いを馳せながらカタナの刃に満遍なく薄青の光を滴らせていると、手の中の魔石が砕ける甲高い音が響き、魔石から放たれていた薄青の淡い光は掻き消え、カタナに宿っていた輝きも消えた。古代魔術による研磨が終わった証だった。残す作業は仕上げ工程だ。さて、最後の工程に取り掛かるか、と気合を入れ直してカタナを鞘に収めた途端、男にカタナを取り上げられた。研磨作業が終わったと思ったのだろう。せっかちな男の態度に少々驚きはしたものの、残りの仕上げ工程はカタナが手元になくてもできる作業故に目くじらを立てることもあるまいと、男がテキパキとした動きで腰にカタナを吊るす光景を言葉も無く見ていたが、ふとある事に気付いた。男の腰のベルトとカタナを繋ぐ赤い紐。隠の国の言葉でサゲオと呼ばれるカタナを腰から下げるのに使用されるその紐が、所々擦り切れて毛羽立っている。パッと見ただけでもその紐がどれほど長い時間使われてきたのか、何となく分かるほどに年季の入った紐だった。大切に使われている紐なのだろうか、紐を扱う男の手つきは慎重なものだったが、あの傷みようではいつ千切れてもおかしくないだろう。幸い、サゲオなら数は少ないが、精霊の炎スピリートゥス・フランマでも取り扱っていたので、恩返しのちょっとしたオマケにでもつけようと軽い気持ちで男に話しかけた。

「アンタ、そのサゲオ千切れそうだぞ。数は少ないが、ウチでも何本か取り扱ってるから見ていくか?」

男はグランディスの申し出に即座に首を横に振った。

「いえ、結構です。見た目はちょっとアレですが、この紐はかなり丈夫なので問題ありません」

そう言って赤い紐を労わるように指先で撫でるその手つきは、物に触れるにしては随分と優しいものだった。相当思い入れのある紐らしい。つい、興味心から口を開いた。

「恋人からの贈り物か、それ」

軽口半分で問い掛けると、男は何と言われたのか理解できなかったのか、一瞬呆けたような顔になり、それから直ぐに微苦笑を浮かべた。

「兄からですよ」

「何だ、兄貴か」

「ご期待に沿えなくてすみません。カタナも研いで頂きありがとうございました。それでは、私はこれで」

「えっ?あ!ちょっと待ってくれ!研磨作業は終わったがまだ仕上げ工程が残ってるんだ」

男が突然別れの言葉を告げ、踵を返してその場を去ろうとしたので慌てて引き留めると、男は素直に動きを止めて半身だけ振り返った。ここまでに何度も呼び止められれば流石に気分を害したかと思って男の表情を観察したが、男は未だに不機嫌そうな表情一つ見せず、ただグランディスを見返している。旅路を急いでいるようだが、呼びかければ丁寧にそれに応えて足を止めてくれるのだから相当真面目な性根の持ち主なのかもしれない。もしくは、表情を取り繕うのが非常に得意なのか。男の纏う雰囲気が変わったのはカタナと男の故郷について話が触れた時ぐらいなもので、それ以外は物腰柔らかな態度を貫いている。隙あらばこの場から立ち去ろうとするが。これまでに精霊の炎スピリートゥス・フランマの武器を求めて出会ってきた客とは正反対な男の態度に度々調子を狂わせられるが、それが返ってグランディスの興味を擽った。自分にとって命の恩人という特別な立ち位置にいる人物だからという理由もあるかもしれない。とにかく、男に最後の仕上げを施すのがと思ってしまうぐらいには、男に親しみすら抱いてしまっていた。しかし、これを施さないととっておきの恩返しは完了しない。これから行う事に男へ内心で謝罪しながら、グランディスは重い口を開いた

「なに、直ぐに終わるさ。研磨作業よりももっと短い時間で済む」

そう言うと、男は納得したのか、カタナを鞘ごと渡そうとサゲオを再び解き始めた。

「あ、いや、そのままでいい。まじないみたいなものだからな」

そう発言を付け足すと、男は不思議そうな表情を浮かべたものの、直ぐにサゲオを結びなおし、グランディスに体ごと向き直った。どうやら素直に仕上げ工程を受けてくれるつもりらしい。それに内心ホッとしながら、最後の仕上げのために懐から魔石を一つ取り出した。命の恩人にを施すのに抵抗感が無いと言ったら嘘になるが、これも恩返しの為だと自分に言い聞かせ、魔砥術ウェトストネの祝詞のを唱えた。

「太古に交わせし誓約、沈黙を以て今果たさん――

祝詞を唱え終えた途端、男が目を見開いた。何かを言いかけたのか、男が口が開いたが、グランディスの手の中の魔石が甲高い音をたてて砕け散る方が早かった。砕けた魔石の粉がその場に吹いた風に乗って男の周囲を取り囲み、薄青に淡く輝きだす。危険を察知したらしい男がそれを手で払い除けようとしたが、そんな抵抗ではその光から逃れられない事をグランディスは知っている。また、その光が男に危害を加えるようなものでもない事も併せて知っている。ただ、姿。男の周囲を取り囲んでいた薄青の光の輝きは強さを増し、男の姿が光の中に完全に取り込まれる。光の中から男が出てこない事を確認し、グランディスは店仕舞いの支度を始めながら、男に対して「突然変な事してすまないな」と非礼を謝罪した。恐らく、男には聞こえてないだろう。そうと分かっていても不意打ちのような真似をしてしまったという罪悪感から謝罪をせずにはいられない。これも魔砥術ウェトストネの効力を発揮させるのに必要な事なんだ、と言い訳がましく言葉を零しながらせっせと店仕舞いに勤しんだ。

実は、グランディスが発動した魔砥術ウェトストネは――というより、魔砥術ウェトストネを含む古代魔術と分類される古の魔術は、発動させるのに少々厄介な条件があった。ここ百年の間に「魔術」と一括りに分類される近代魔術のように魔具と魔石を用いただけでは絶対に発動しない。むしろ、魔具は必要としない。その理由としては、魔術を発動させるのに力を借りる相手が少々特殊だからだ。近代魔術は人間に対して好意的な聖霊達から魔具を通して力を借りることで魔術を発動させるのだが、魔砥術ウェトストネの祝詞にもある通り、古代魔術は古に祀られていた神々から魔具を通さずに力を借りる。人間に対して好意的な聖霊達とは異なり、彼らは少々気難しい性質を持っている。ざっくりと簡単に説明すると、魔具を通さずに魔術を発動させられる代わりに、魔石以外の特別な捧げ物を要求されるのだ。聖霊達よりも求められる代償が多い分、近代魔術よりも絶大な威力を発揮するが、力を借りる神や魔術を発動させる個人によって求められる特別な捧げ物の内容には違いがあり、下手をすれば術者の命を求める神もいる。特別な捧げ物は必ず用意しなければならないものであり、魔砥術ウェトストネを発動させたグランディスの場合は『武器の持ち主が覚えている術者に纏わる記憶』が聖焔の大御神から要求された捧げ物だった。おかげで客からは一切顔や姿を覚えて貰えず、精霊の炎スピリートゥス・フランマの店主は亡霊だのなんだのと噂されるような羽目になっている。しかし、そんな目に遭っても魔砥術ウェトストネの効力の事を考えれば取り扱うことはやめられない。折れるまで持続する特別な切れ味を持った武器。それは武人にとっては喉から手が出るほど欲してしまう程の理想の武器であり、武器屋を営むグランディスからすれば自信をもって客へ販売できる目玉商品だ。例え客に顔を覚えられなくとも、精霊の炎スピリートゥス・フランマ魔砥術ウェトストネを用いて研磨された武器を購入した武人がその武器を用いて活躍すれば、自然とその武人が扱う武器に人々の注目が集まり、精霊の炎スピリートゥス・フランマという武器屋の名前は広がる。その武器が折れるまで効果が持続するという魅力に取りつかれた一部の熱狂的な顧客から破格の報酬と引き換えに軟禁生活を強いられそうになったこともあるが、それから逃れる為に世界を転々と旅しながら商売をする羽目になっても、噂を聞きつけた顧客がどこからともなく湧いてくるので売り上げに困ったことは無い。まぁ、客から容姿に纏わる記憶をごっそりと忘れ去られる上にグランディス自身も居場所を転々としているのでリピーターがつきにくいという悩みはあるのだが。

ともかくまぁ、そんな理由からグランディスは魔砥術ウェトストネを使い続けており、恩返しとして男のカタナを魔砥術ウェトストネを用いて研磨したことで、男からも自分に纏わる記憶を抜くつもりだった。例え相手が命の恩人だろうが例外は無い。男からしてみれば命を助けた人物から突然襲われたも同然だが、一人の人物の容姿に纏わる記憶を抜くだけであるし、ちょっとした記憶を失う代わりに己の武器がとんでもない切れ味を持つようになるのだ。魔物狩りを生業としているようだし、現金を渡すよりはよっぽど男の役にも立つだろう。

命の恩人に対して無体を働いているという罪悪感を振り払うためにそう自分を納得させながら店仕舞いを終え、光に包まれているであろう男の様子を確認するために光の方へ顔を向けたところで、視界が薄青一色に染まった。男の周囲を取り囲んでいた魔術の光に目が眩んだのだろうと思い、記憶消去にはまだ時間がかかるようだと視線を逸らした瞬間の事だ。

パチン

風船が破裂したような、そんな破裂音が身近から聞こえた。何だ、と音のした方へ視線を向けると、そこには薄青の光に取り込まれていたはずの男が平然と立っていた。光はどこにも見当たらない。ただ、男が静かにこちらを見つめている──血のように赤い瞳を煌々と輝かせて。男の瞳が。赤い瞳が、輝いて。異常なその光景に思考は白に染った。何が起きているのか理解出来ずに呆然としているグランディスを男は赤く輝く瞳で見つめ、口を開いた。


「――なるほど。


男の発言がグランディスの発動した魔砥術ウェトストネの捧げ物について触れていると気付いた瞬間、漸く思考は動き出した。

「……なんで、まだ覚えて、」

魔砥術ウェトストネの捧げ物について触れるということは、恐らく故郷の刀鍛冶とやらに魔砥術ウェトストネを含む古代魔術の捧げ物について話でも聞いていたのだろう。そして、その話に触れるということは、グランディスがカタナに魔砥術ウェトストネを施した人物であることを男が覚えているという証明に他ならない。術者に纏わる記憶を奪うはずの魔術が、効いていない。どういうことだ。何故まだ覚えている。今までの客ならば、聖焔の大御神への捧げ物として記憶を奪われたら意識が混濁した様子でぼんやりと突っ立っているのが常だった。例外なく、皆そうだった。だというのに、なぜこの男は平然と記憶を有したままなのか。今まで抱いたことのないような得体のしれない恐怖に全身が凍り付いた。それを見た男は赤く輝く目を伏せ、どこか物悲し気に淡く微笑んだ。

「生憎、この手の魔術には抗体がありまして」

さらりと述べられた言葉は理解の範疇を超えていた。魔術に抗体とは、いったいどういう意味だ。魔術は病でも毒でもない。抗体という言葉の意味を測りかねているグランディスを他所に、男が一歩踏み出した――グランディスの方に向けて。男の足が地面を踏みしめる音が耳に突き刺さり、漸く現状に意識を呼び戻されたグランディスは命の危険を感じた。男からは殺意を感じない。しかし、グランディスの生存本能が男に対して警鐘をけたたましく鳴らしていた。目の前にいるのは命の恩人ではない。命を脅かす存在だ。そう訴える警鐘に従って懐に手を差し込み、魔具の煙管を握りしめる。懐には触媒の魔石も仕舞われている。詠唱時間が短く直ぐにでも発動できる魔術は下級魔術くらいしか知らないが、男の隙を一瞬でも突けるのなら何でもよかった。逃げだす機会を生み出せるのなら何でも。魔術の詠唱を唱えようと息を吸い込み瞬いた途端、目の前に迫っていた男は姿を消していた。何処に行った、と辺りを見渡そうとして、首に違和感を覚えた。首の後ろを中心に、首周りにぴったりと寄り添うような人肌に近い温もりを感じる。首が、動かない。否、動かないのではない。。その事実に気付いて頭から血の気が引いた。首に感じる温もりが人の手である事はすぐに悟った。その手の主の正体も。いつの間に背後に回っていたのか。いつから首を握られていたのか。手に力は込められているように感じず、ただ、触れる程度に緩く握られている。しかし、手の主がその気になれば一瞬の瞬きの間に首を圧し折られるだろうという予感があった。腹の底から湧き上がる恐怖に手足の先が震え、額から冷や汗がぶわりと噴き出た。そこで漸く自分がとんでもない人物を相手にしていたのだと理解したが、既に遅すぎた。この男は魔物狩りなどではない。古の神の力を借りて発動させる魔砥術ウェトストネの記憶忘却を無効化させるなど、魔術のプロフェッショナルである魔術師でも不可能とされる筈なのに。なのに男はそれを可能にしてみせた。術師である自分でさえ分からないその術を。いったいどうやって。瞬く間にどうやって背後に。この男はいったい何者なのか。頭の中で答えの出ない疑問が渦を巻いたが、それらを口に出して男に問い掛ける胆力は無かった。死の気配が近くまでにじり寄ってきているような錯覚を覚えて固唾を飲み込んだその時、直ぐ後ろから場違いな程に穏やかな声色が聞こえてきた。

魔砥術ウェトストネがどういう魔術なのか、故郷で学んだので知っています。貴方が私から記憶を奪わざるを得なかった理由も。ですから、それに関しては目を瞑ります。丁寧に刀を研いでもらいましたから。ですから、御礼に忠告をしましょう。ここで私に出会ったことは誰にも言わないほうが良い。それと、この先にある火の国にも暫く近寄らないでください。今直ぐにでも道を引き返して近くの国へ寄ることをお勧めします。近隣の国は森の国、でしたか。そこまで戻りなさい」

淡々とそう告げて、男は指先に僅かに力を込めた。ク、と首筋に掛かる緩やかなその圧は声を出すのに支障が無い程度の圧だったが、それが脅しであり警告であることを理解したグランディスは緊張で掠れる声を絞り出して「分かった」と声を発した。その返答のみ言葉を発することを許されたと言ってもいいかもしれない。グランディスが従順にそう返答したことに満足したのか、首からゆるりと手が離れた。それでもグランディスの全身を硬直させる恐怖が拭われることは無かった。振り返る気にもなれない。手が離れたところで安心など出来るはずがない。男の腰にはカタナがあり、首を掴めるほどの距離に男はいる。グランディスは男の間合いの内側にまだいるのだ。あの不気味に輝く赤い瞳で自分を見ているのだろう。自分の背後を見つめる男の赤く輝く瞳を想像してしまい、グランディスは極度の緊張状態に陥った。男の姿が見えないことから、視界以外の全神経が背後を探ろうと敏感になっていた。背後に感じる男の微かな気配。男が動いたのか、地面を踏みしめる微かな足音を耳にした途端、全身を硬直させていた恐怖は限界に達した。恐怖が限界に達すると、意思を置いてけぼりにして体はその場から逃げようとするのだとグランディスは初めて知った。この場から離れなければと脳がその思考に辿り着くより先に、体が移動販売車ケータリングカーの運転席に向かって駆けだしていた。

そこからの記憶は酷く曖昧だ。気が付いた時には森の国を目指して移動販売車ケータリングカーを限界速度まで出して爆走しており、森の国の領地に突入したところで移動販売車ケータリングカーの速度が落ちてきて、幾らアクセルを踏めども前に進まなくなってしまった。どれくらい移動販売車ケータリングカーを爆走させていたのか覚えていなかったが、燃料メーターを見ると燃料の残量を示す針はほぼゼロを指しており、移動販売車ケータリングカー燃料切れガスケツを起こしている事を示していた。移動販売車ケータリングカーは動けなくなってしまったが、あの男の言う森の国まで来たのだから良しとしよう、と一息ついたところで全身が脱力した。森の国の周辺を見回りしていた森の国の警備隊に見つかり、警備隊に手伝ってもらって森の国まで移動販売車ケータリングカーを押して運ぶ羽目になるまで運転席で放心していた。グランディスの様子がよほどおかしいと感じたのか、森の国の入国手続きで警備隊の男から度々「何があった」と気遣うように尋ねられたが、曖昧に笑って誤魔化した。とても答える気になれなかった。あの男の話題を少しでも口にすれば、あの赤く輝く瞳がどこからともなく現れそうで恐ろしかった。とにかく人目を避けるように宿屋の部屋に引きこもった。

いつもの飄々とした態度のグランディスが戻ってきたのは、森の国で過ごすようになってから三日目の事だった。普段通りの振る舞いは戻ったが、恐怖の火種はまだ心の底に燻っている。それに蓋をして、触れないようにしているだけに過ぎなかったが、男の警告に従った方が身のためだと刷り込みのように自分に言い聞かせてどうにか平常心を保てるようになっていた。

そろそろこの国から出国しようかと考え始めた四日目の滞在を迎えた朝の事だった。泊っている宿の食堂で客に提供される鯖みそ定食を黙々と胃に詰め込んでいると、最近入国してきたばかりなのか、薄汚れた格好をした旅人が一人、グランディスに話しかけてきた。

「食事中すまない。隣、座ってもいいか?」

宿の食堂は客で溢れかえっており、空席も少ない。たまたまグランディスの隣の空席が目に付いたのであろう旅人の問いかけにグランディスは快諾し、旅人が座りやすいように空間を空けてやった。

「いいぞ。連れもいないから遠慮なく座ってくれ」

「助かる」

旅人は心底ほっとしたように吐息を零して緩慢な動きで席へ座り、溜息を零した。隣に座った旅人は酷く草臥れていた。見れば見るほど酷い身なりをしている。外套は所々擦り切れ、元の色が判別できぬほどに薄汚れて何とも言えない臭いを放ち、旅人の顔には治りかけの細かい擦り傷や小さな裂傷があった。どれほど旅をしてきたのか分からないが、どうやらとんでもなく長い旅路だったようだと男の草臥れっぷりからそう悟り、ちょっとした興味心から旅人に話しかけた。

「アンタ、どこから旅してきたんだ?」

旅人はグランディスの方へ顔を向けること無く、溜息と共に答えた。

「火の国だ」

その回答を耳にした途端、心の底で蓋をしていた恐怖の火種がパチリと弾いたような気がした。あの男の面影が、煌々と輝いていたあの赤い瞳が脳裏を過り、グランディスの顔から表情が抜け落ちる。しかし、それに気付かない様子で旅人は続けて言葉を紡いだ。

「混乱に乗じて何とか逃げ出せたが……酷いもんだった。防衛壁は一日も持たずに穴あけられて国の中心部まで火が回って……兵士すら逃げ惑ってた……ありゃ地獄だ。戦争なんてもんじゃねえ」

男が続けた言葉にグランディスの顔に表情が戻ってきたが、その顔は先ほどまでとは違い、酷く真剣なものに変わっていた。あの男が近寄るなと警告していた国で、いったい何が起きたのか。

「火の国で、何があったんだ」

再び問いかけると、旅人はギョッとしたようにグランディスを見つめた。

「何って……アンタ知らないのか!?」

旅人が堪らず上げた大声に周囲の人がグランディス達に注目したが、旅人が慌てた様子で俯くと注目は自然と薄れていった。それを見計らい、グランディスは再び男に話しかける。

「ここ三日間ほど新聞も見てなけりゃ情報も買ってなかったんだ。気に障ったんならすまない」

謝罪すると、旅人はボソボソと小声で「こちらこそ怒鳴ってすまない……八つ当たりだった」と謝罪し、溜息と共に再び言葉を紡いだ。

「火の国が攻め込まれたんだよ。つい三日前のことだ」

その情報を耳にした途端、ここ一年近く噂として飛び交っていた「火の国が魔の国へ侵攻しようとしている」という話を思い出した。てっきり火の国から攻め込むのだとばかり思っていたが、どうやら魔の国から火蓋を切ったらしい。脳裏に過る男の面影を忘れ、気を紛らわせたい一心でグランディスは軽口を交えて言葉を返した。

「火の国ほど好戦的な国は無いと思ってたが、魔の国も相当だな。鉄の国に次いで戦闘国家と名高い火の国相手によくケンカ売る気になれたもんだ。アンタ、無事でよかったな」

旅人を慰めるつもりで異臭のする外套を纏う旅人の肩を軽く叩いたが、旅人は驚愕に満ちた表情でグランディスを見返した。

「アンタ……本当に何も知らないんだな」

「え、あ、あぁ……ここ三日間ほど情報買えてなかったって言ったろ?部屋にずっと引きこもってたんだ。火の国が魔の国に攻め込むかもしれないって噂は前から聞いてたんだが、まさかこんなに早く侵攻するなんて」

「一人だ」

「思ってなかっ……え、なんて?」

グランディスの言葉を遮るように発せられた旅人の言葉を聞き逃し、咄嗟に聞き返すと、旅人は至極真剣な表情で再び繰り返した。

「一人だ」

何が一人なのだろう。旅人の言葉を理解しかねて眉を顰めると、旅人は言葉を更に付け加えて繰り返した。

「火の国に攻め込んだのは、たった一人の男だ」

たった一人。一人の、男。その一言が心の蓋をこじ開け、グランディスの脳裏にあの男の姿を鮮明に思い出させた。血のように赤く染まった瞳が印象的な精悍な顔立ち。黒い外套。煌々と輝いていた赤い瞳。グランディスの首を絞めながら火の国近寄るなと警告した穏やかな声色。男は「御礼に忠告をしましょう」と言っていた。あの男。まさか。いや。そんな。思いつきのように浮かんできた思考に心臓が跳ねた。込み上げる衝動のままに席を立ちそうになってどうにか堪え、緊張から急激に乾いていく喉を唾液を飲み込んで湿らせる。そんなわけが無い。確かにあの男は色々と規格外なところはあったが。たった一人の人間が国相手に戦争を起こし、国の中心部まで戦火がまわる程の被害を生み出すなぞ到底ありえない話だ。御伽噺の魔王じゃあるまいし。きっと魔物と見間違えたのだろう。脳裏に過った考えを振り切ろうと旅人へ問いかけた。

「その男を、見たのか?」

旅人は浅く頷いた。その時のことを思い出したのか、ぶるりと身震いをした旅人はこう答えた。


「遠目からでもはっきり見えたさ。今でも覚えてる。黒い外套を羽織ってた。魔物みたいに目が赤く輝いてて……まるで魔王のような男だった」


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