第11話 紫の海

「起きてお姉ちゃん」

「...?」

 鈍く響く鈍痛とあいまいなアイリの声。不鮮明な世界は徐々に鮮明さを増していく。慌てて起こした状態のあらゆる部分に刺すような痛みが走り、意識を取り戻した。明かりは消えていたが、派手にひしゃげた扉の隙間から差し込む光で薄明るかった。

「アイリ...アイリ...私たちどうなって...?」

「よく分かんないけど、揺れは収まったみたい」

 アイリは相変わらず片腕をふらふら揺らしていた。生体構造物による再生はやはりもう無いらしい。私の視線に気づき、アイリが笑う。

「やっぱこれ治んないみたい。痛いし、無力だよね。でも清々しいな。初めて自分の力で生きてる気がする。殺したくない、死にたくないって感じるよ」

「そっか。壊れものは大事に扱うよね。壊れないと知ってしまったものをずっと大事にしていくのはだんだん難しくなっていくだろうから。おじさんも含めて、私たちには難しすぎたのかもね」

「お姉ちゃん立てそう?」

 アイリが動く片腕を支えに起き上がろうとしてよろけ、私に倒れ込んできた。顔を見合わせて少し笑った。

「ふふっアイリこそ。ほら肩につかまって」

「うん!ありがとう。しばらくは無茶できないかな」

 傾いた部屋を少しずつよじ登り扉へと近づく。外の光は淡く、見たこともない深さの黒を背景にしていた。歪んだ扉の隙間から這い出ると、ぶよぶよと黒ずんだ肉片の小山が足元一杯に広がり、地下室だったものは奇跡的に埋もれず、顔を出していたようだった。不安定な足元に二人で支えあいながら立った。

「光が一杯...小さな発光体がいくつもあるような」

「でも太陽が見えないね...あっあの青白い奴かな!随分光が弱いけど」

 背後で深いため息のような音が聞こえ、振り返る。巨大な赤い皺だらけの皮膚の壁。固そうな体毛がわずかにぽつぽつと生えている。頭のように見える末端に目鼻はなく、見渡す限りでは胴体以外に何もついていない。哀れで無力だが、ただただ巨大な生き物。私たちを何百人積み上げても届かない高さと、地平線に消えていくその体長にめまいがする。

「これが生体構造物...?」

「すごい...醜いけど、すごいね。どんな生き方をするために昔の人はここまでしたのかな」

 肉の雪崩の流れを目で追うと、生体構造物の胴体の一区画にたどり着く。その傷跡は果てしない大きさではあったが、体の崩壊は綺麗な直線で切り取られたもののようだ。多分、生体構造物の体内に複数あるという区画ごとにきっちり分離されているのだろう。私たちの命を懸けた大立ち回りも、ただそのうちの一つを壊したに過ぎない。しかし、それは今となっても私たちにとっての全世界だった。アイリと肉の山を滑り降りる。べたべたとしたピンクの肉片の層はだんだん薄くなり、初めて踏みしめるシャリシャリした乾いた感覚が足元から伝わることに気づき、屈んで地面を眺める。乾いた糞を砕いたような微細な粉が辺りを埋め尽くしている。手のひらを当てるとさらさらと冷たく、鼓動も体温もないはずなのに暖かく感じた。私を呼ぶアイリの声に気づき、顔を上げる。目前に映るのは黒く波打つ静かで広大な液体。

「お姉ちゃん、本物の海だよ!広いし冷たいし、飲めたもんじゃないね。でも綺麗」

 天の光を映したように、黒々としたその水面は穏やかに輝いていた。周囲を見渡すとどこまでも続く海面の上にぽつぽつと巨大な生体構造物が何体も何体も等間隔に寝そべって、深いため息のような音を遠く響かせていた。遥か彼方にぼやけて連なるその影は、体液の溜まりに群がる弱弱しい肉塊の群れのようで、周囲に広がる世界に比べてもあまりに狭く、弱く、ちっぽけに見えた。これから私たちは、従うべき指導者も反抗すべき強制もなく、ただ開け放たれた世界の中で歩む道を決めていかなければならない。アイリは海辺に座り込み、ずっと遠くを見ていた。

「アイリ。何見てるの?」

「いや広いなあって。生体構造物が私たちの全世界だったけどさ、こうしてみれば、そんなもの右向いても左向いても延々と横たわってるありふれたものじゃない。あの世界に戻るつもりはないけど、ここで自分は何をできるのか考えちゃって」

「そうだね」

 アイリの横に座る。目前には穏やかに波打つ海の輝きがよく見えた。

「アイリを探しに行く前、あの地下室でおじさんに初めて生体構造物の仕組みを教えてもらったの。それがあらゆる人間性を奪って成り立っているものだとまでは言わなかったけどね。おじさんはずっと旧時代を、この世界を憎んで、生体構造物の狭い世界の素晴らしさを語っていた。きっと本人は本当に信じていたんだと思う。その意味は、生体構造物から自分の意志で抜け出した私たちがちゃんと考えていかないといけないね」

「まあ、そうだね。これからどうなるか分かんないけどさ、お姉ちゃんと一緒なら安心だよ。前はお姉ちゃんを守らなくちゃって独りよがりだったけど、今はお姉ちゃんと一緒ならもっといろいろできるようになれる気がする」

「アイリ、私はあなたが羨ましかった。何でも自分で学んで自由に考えて突き進めるあなたが。でもアイリを追いかけて、一緒に戦って、今あなたとこうしている私なら、何でも、どこまでも行きたいと思うわ。あなたと私で古い世界を見て、私たちの壊した世界を背負って、新しい居場所を探していきましょう」

 アイリと手を重ね、二人で同じ遠くに目を向ける。再び輝きを増してきた太陽が血に染まる海を照らし、目に入る全てをどこまでも豊かな紫色に染めていた。

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あなたと二人、血肉の檻で デカ用水路 @big-yousuiro

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