第10話 私の銃撃

 背後から迫る内臓の雨をアイリの合図と半ば勘を頼りに避けながら、初めて一人で進んできた道を凄まじい速さで遡る。おじさんの攻撃も全速力の裸馬が引き起こす揺れも、集中する意識の中に溶け込み、景色はひとつながりの絵のように見えた。脇に見える四本脚や人間もどきが私たちに気づいては追いすがり、はるか後方に取り残される。林立するメタン袋をかき分け、崖を跳ね降り、肉管の林をなぎ倒す。私を阻み、乗り越えてきた困難の一つ一つを何でもないことのように飛び越えていった。

「集落から逃げたとき、アイリはどうしてこの道を選んだの」

「えっ!?」

 巨人にメタン袋を投げ続けるアイリが一瞬手を止めた。

「逃げた訳じゃないって。別に目的地もなかったし、理由らしい理由はないな。ただその都度行ける場所に行っただけでっ!」

「でも大変なことよ。私は目的地が分かってても苦労ばっかり」

「いつも足元に気を付けてだけ。お姉ちゃんは目的地ばかりを見すぎなんだよ。どこに行こうなんて頭でっかちに考えてなきゃ、割とどこにだって行けると思うよ」

「そうかな。でも、今の状況考えるとそういうものなのかもね!」

 アイリと二人、裸馬の上から今見える風景が同じであることが何だか嬉しかった。


「着いた!あれ...?集落は?」

 肉管の林を抜け、遠くに見慣れた集落の住宅瘤群が見えるはずだった。そこには柱のような筋肉の隆起が林立し、大動脈を収めた講堂は消え、ただ大動脈が天高くそびえたっている。

「とにかく進んで!おっさんもうかなり近い!」

 メタン袋は着き、内臓の爆撃は激しさを増していた。取り残してきた人間もどきの大軍はおじさんをぶら下げた巨人に追いすがり、追い付いたものからぶるぶると震えながら溶け出していた。戻る道はない。隣の肉柱に内臓が着弾する。真横から腐食ガスを浴び、目をそらす。そこで肉柱と初めて目が合った。

「あれ、これ目が...というか...人?人だよアイリ!これ全部!集落の!」

 集落の人々は半透明の肉の膜にくるまれ、恍惚とした表情で溶けかかっていた。

「ほら見たことか!おっさんの言うことなんて全く信用ならない!生体構造物の都合次第でこうやって台無しになるんだ!」

「それにしたってこんなこと...」

 後ろを振り返ると迫りくる巨大な巨人はすれ違う肉柱の全てを、継ぎ接ぎの人皮から血を垂れ流す図太い触腕で地面の筋肉ごと引き千切り取り込んでいた。肉柱を取り込む度巨人は満足そうに膨らみ、皮膚の割れ目から蒸気のように血煙を吹き出す。目を凝らすと、半透明の袋に包まれた内臓液は存在感を増し、おじさんは実体を形成し始めているように見えた。集落の人を取り込んで、おじさんの養分にしているのかもしれない。あんなに守ろうとしていた集落の人々を。

「お姉ちゃん!止まって!前!」

「!」

 急いで向き直し、裸馬の脚を止める。目前には天まで届く大動脈が道を塞ぐ。すっかり講堂は姿を消し、代わりにアイリのもとに向かう途中見た、白いうねうねがふもとから見渡す限りの高さまで大動脈を埋め尽くしている。集落の中心だったはずのこの場所は、今や至る所にガサガサに乾いた筋肉に割れた傷跡が走り、腐臭と体液とメタン嚢に満ちている。それでもなお、天から注ぐ発光体は全てをオレンジ色に照らし、黒く腐り切ったこの場所を思い出の生活と二重に見せていた。

「この世界、俺たちの生体構造物が傷ついている」

 巨人の袋から泡立つ上半身を滑り出し、おじさんが言う。巨人は死んだように動きを止めていた。しかし、その周囲にはムカデのように連なり固まった人間もどきの塊が白く臭う粘液を吹き出しながら地面にのたうち近づけない。足元が揺れる。大動脈に張り付いたうねうねが鼓動するように蠢いていた。

「永遠に続くはずだったのに。お前らの軽率な行動がバランスを崩した」

「何?ようやく情けない口を開いたと思ったら全部私たちのせい?子供がちょっといたずらしたくらいでどうにかなっちゃうような柔い生き物に期待しすぎてたんじゃないの?」

 アイリが突っかかる。おじさんの動きが読めず、後ろ手に静かに銃を握った。考えるよりも先におじさんに狙いを定める。自決用の、最期の一発。

「生体構造物は完璧だった。しかし、完璧な状態というのは常に不安定なものだ。多くの人間が関わりあう環境では特にな」

「じゃあ何?最初から私たちを騙してたってわけ?」

「おじさん、集落の人はどうなるの?みんなこの世界を信じていたのに。こんな状況が安定した世界だって言えるの!?」

「話を聞け。集落の人間は定期的に大動脈に取り込まれ、再生産されることに生体構造物に受け入れられる。外形、個性も含め、体内機関の一部として、常に再生産されるようになる。それが不死だ。私たち一人一人が、生体構造物の一部となって完璧に機能することが世界の永続につながる。一人くらい、ではない。一人一人が完璧に役割をこなさなければ、限られた資源は容易に枯渇する。病と、お前たちの引き起こした無思慮な破壊がこの事態を招いたんだ。集落の人間は今、傷ついた生体構造物を守るため同化を始めている。いつか生まれ変わった時、どうなっているかは誰にも想像ができんな。今から必死に張り付いた体膜をはがしでもしてみるか?」

 肉の柱に走り出そうとしてアイリに手で制された。おじさんはぶよぶよとした半透明の片腕で自身の内臓をかき集めながら不可解に振動している。巨人から図太い血管を編み込んだロープがおじさんに伸びる。

「なぜ!あれほど執着していたのに、どうして集落のみんなにそんなに無関心なのっ」

「元より彼らに自我はほとんど残されていない。生体構造物を活かすための労働力、機能の一部に過ぎない。必要な対価だ」

「じゃあおっさんにも自我なんて無いわけだ。情けない。そのザマで管理者気取り?所詮生体構造物の人形じゃんか」

「自我に何の意味がある?自分勝手な振る舞いは安全で安定した生活の障害でしかない。あの事故の日、取り残されたお前達を憐れんで迎え入れた俺にも責任がある。不安定な子供は完全な閉鎖系である生体構造物を危険にさらすだけだとわかっていたのに」

「勝手に作ったルールの世界に合うよう強制して、駄目だったら殺してなかったことにするのか?誰も本当には生きてないようなお人形遊びの世界に大した責任感だね!誰かの気分や体調で好き勝手奪われていくような毎日におびえるくらいならどんなものだったとしても自分の場所の方がましなんだよ」

「おじさん。私ももう分かったんだ。おじさんに感謝してないわけじゃない。きっとおじさんに見つけてもらえなかったら私たち死んでた。でも、守ることと縛ることは違う。わたしはアイリにもおじさんにも縛られたくない。だから今はアイリと行くわ」

 円盤状に広がっていく血管網が未だ不定形なおじさんを掬いあげる。ゼリーのような骨格が揺れ、死んだ灰色の未発達な臓器がずるずるこぼれる。私とアイリは変わらず警戒していたが、もはや何に気を付けていいものか分からず、おじさんに向けた銃口がふらふら揺れた。死んだ筋肉、腐臭とともに広がる傷跡、絡まりあった人間もどきの群れ、照り付ける発光体、そのすべてが静寂に沈み、巨人に轟く血流が脳に響いた。動くものの消えた世界で、アイリと私、身を守ろうとする生き物としての生体構造物がおじさんの身を借りて対峙しているように感じた。緊張に銃を構えなおした一瞬、爆発音とともに視界が赤に染まった。何かに押し出される?焦って裸馬にしがみつこうとした手が空を掴む。流されている!

「お姉ちゃんっ!」

「アイリ!何がっ」

 目が見えない。視界の全てが赤だった。たまらず手で顔をぬぐうとぬるぬると濡れた感覚の中に滑るような無数の管を感じた。夥しい赤と青の群れ。血管?

「くそっ巨人がいない!破裂したのかも!」

「どうしてそんなことを...?おじさんは!?」

 不意に降りてきた冷たい、乾いた空気。生まれて初めて触れるその感覚に、私とアイリは同時に上を見上げた。天に伸びる大動脈の根元から、全てを照らす発光体へ...光が陰り、赤く染まっている。

「発光体に何かいる...?」

 アイリが血にまみれた顔をぬぐいながら言う。目を細めると、限界まで輪郭をぼかしたような人影が大動脈の高みにしがみつき、発光体に手を伸ばしていた。影が動き金属質の光がきらめく。発光体から血が噴き出る!

「おじさんだ!発光体を切りつけてる!」

 傷を負った発光体は異臭を放つ茶色い血を地上に吹きかけ、呼吸するように分厚い筋肉を蠢めかせた。その収縮のたび、肉と肉の隙間から白い光が糸のように降り注ぐ。

「この区画は全ての生命活動を停止し、間もなく休眠に至る。俺は再生が始まるまで外部シェルターに向かう。お前たちは腐った区画とともに朽ち果て、浄化されるんだ。つかの間とはいえお前たちだけの自由な世界を楽しむといい。憐れむ心はあるが、お前たちはこの世界にとって邪魔なんだ」

 泡立ち崩れる体で言い捨てると、両手に握った刃物を発光体に突き立て、一気に切り裂いた。半透明の肉膜がさっと左右に分かれ、激しい光の帯が世界に満ちる。焼き付く目をやっとの思いで開き見上げる。発光体は消え、分厚い肉の層から覗く光を湛えた深い穴が細長い瞳のようにきらめいた。

「発光体は器官じゃない、体膜だ!光を採り入れる孔の蓋!おっさんは外に逃げようとしてる!」

 アイリが叫ぶ。おじさんは希薄な四肢で筋肉に喰いつき、大動脈から這うよう穴に向かう。反射的に銃を向けた。そういえばおじさんは言っていた。肉体に直撃した銃弾は、末端からであろうがその全身を崩壊させると。

(今なら生体構造物そのもの、筋肉の断面に直接撃ち込める...でも、集落の人が...)

 その時、アイリが銃身を掴んで自らの身体に引き寄せた。

「私の肩に銃身を載せて。狙いを支えるから。何を撃つかはお姉ちゃんに任せるよ」

「アイリ...私は」

「私だって育ってきた集落に愛着が無いわけじゃない。殺したら死んでしまう人間を殺す勇気は多分ないと思う。でも、だからこそ全てを終わらせる機会でもある」

「アイリ...アイリと再会するまで、そして再会してからの今まで、短い間だったけど思ったより私にはいろんなことができて、いろんなことを考えた気がするよ。私は今まで何も自分で決められなかった。けど今は、閉じていく世界より、アイリと一緒にいたい。だから」

 アイリの右肩に委ねた銃身は微動だにしない。引き金を引く音が耳の奥で響いた。遅れて凄まじい爆音。アイリの右耳から静かに血が流れ、頭が揺れる。全てがスローモーションだった。着弾したあたりの筋肉は流血の間もなく沸騰した赤い粥となって吹き出し、張り付いていたおじさんは僅かな抵抗も空しく泡沫に飲まれて消えた。黒々と腐り切った筋肉の天蓋にひび割れのごとく放射状にぱっと傷が広がって、分厚い筋肉からゼリーの小片が剥がれ落ちては空中で崩壊し、赤黒い体液の溜まりを広げていった。

「すごい...全部死んでいく...私がこれを」

「めっちゃくちゃ大成功だねえ...しかしこの銃ってのは危ないよ。耳片方聞こえないし、肩上がんないの。外れたかなあ。いったあ」

 アイリが右肩をさすりながら近づいてくる。既に地面は滝のように降り注ぐ腐肉の池となり、足元をびちゃびちゃとさせていた。

「治るのかなこれ。もう大動脈も世界もだめみたいだけど。もう不死じゃないんだよね多分」

 私もアイリも細かな肉片と悪臭のする血液に全身まみれている。その姿を見て奇妙な恍惚感の中に意識を取り戻した。

「で、どうしようか。このままだと結局死んじゃうよね私たち」

「どうしよう?なんか、目の前でこれだけのことが起きてると頭止まっちゃうね」

 不思議と危機感はなかった。目前の全てをコントロールしているような全能感があった。依然筋肉はすさまじい勢いで剥がれ落ち、時折墜落する巨大な肉塊が引き起こす腐肉のねっとりした波が私たちを揺らした。

「あ!見てお姉ちゃん。発光体のところ、ほら!」

「え?」

 発光体があった場所にはぽっかりと巨大な穴が開き、まばゆいばかりに光が差し込んでいる。その光の真ん中を目を細めつつ眺めると、強烈な光と熱の真円が焼き付く。

「あれって太陽でしょ!?旧時代の話でいつも出てくる!」

「すごい...本当にあったんだ。こんなに綺麗なものを失ってまで、どうして旧時代を捨ててしまったんだろう」

 アイリと二人、膝まで腐肉に埋もれながら、手のひらをかざして初めて浴びる太陽の光に見とれた。緩やかに波打つ体液の溜まりはきらきらと光を湛え、物語のなかで見た海のようだった。見たこともない旧時代への郷愁が胸に迫る。旧時代...私たちが生まれて、ついに見ることができなかった場所。この世界とともに死ぬのならば、一度目にしたかった。旧時代の名残の数々を思い出す。伝えられた本、崩れかけた布団、儀式の服、さび付いた農具、アイリの刃物、そして、銃を受け取って、アイリと向き合うきっかけになった白く冷たい地下室。私の全てを変えた場所。

「そうだ!地下室に行こうアイリ!」

「地下室?」

「そう!大動脈の近くにあるんだよ。旧時代の建材だけで作られた狭くて冷たい場所。そこなら銃弾の浸食もないはず」

「へえ、そんな場所が。いいね!面白そうだし、生き続けてやればおっさんもさぞ悔しがるだろうしね」

「そう!生き続けて、この目で旧時代を見てやろうよ!私たち二人で新しい世界を!」

 アイリの手を取り、手近に見える大動脈に向けて歩き出す。ふくらはぎの半ばまで嵩を増したねっとりとした肉の海を蹴とばすような足取りで大動脈にたどり着く。

「この辺の足元にあるはず...」

 私は足先で、アイリはナイフの先で入り口を探った。張りのなくなった筋肉がぶよぶよとした感覚を返した。

「あった、これだ!」

 かつて筋肉で固く閉ざされていた入り口はだらんと脱力し、腐肉の流れ込む緩やかな渦となっていた。激しく崩落を続ける肉体に埋もれてしまう前に、急いでアイリと駆け込む。白骨で覆われた地下道は静けさを保ち、世界の崩壊は遠く響く小さな重低音でうかがい知れるだけだった。重い金属扉をアイリと力を合わせて開く。人工的な白い光が目に飛び込む。かつてはたじろいだ冷たい気配も、太陽の圧倒的な光を感じた後では些細なことのように感じた。

「静かな場所...こんな場所が集落にあったんだねえ」

「あれ...何か妙な音が...」

 私たちが扉を開けたまさにその時、地下道を埋め尽くすほどの肉の雪崩が流れ込んでくるのが見えた。

「急いでアイリ!やばいやばいって」

 ドアに駆け込んで、叩きつけるように体当たりでドアを閉める。アイリが片腕でドアの取っ手を素早く回して閉鎖した。間髪を入れず轟音とともに部屋全体が大きく傾き、私たちは反対側の壁まで転がった。雑多に置かれた金属の棚や小道具がけたたましい高音を絶えず響かせ耳をふさぐ。銃によって張り付いた誰かの黒い痕跡が私たちを笑っているように視界をよぎったのもつかの間、壁の全体に黒い染みがぽつぽつと浮かびだし、腐臭が覆った。揺れは激しさを増していく。横を見ると、アイリが脱臼した片腕を抑えてのたうっている。

「アイリ、こっち!」

 アイリのもとに転がって体を抱え、部屋の傾きに助けられながら一角に見えた黴臭いマットの山へと滑った。中へと潜り込み、焦る手つきで手近なマットを体中に巻く。それ以上のことは何も思いつかなかった。暗闇の中で四方八方へと転がり、時折響くうなるような軋みと、断続的に続く落下、滑落...凄まじい衝撃が延々と単調に続く。生体構造物という巨大な生き物の体内にいることを、これほどまでに実感したのはこれが初めてだった。暗闇と生暖かい血の匂い、そして激しく、いつまでも響く鼓動。

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