青きんぎょの風鈴
Kay
青きんぎょの風鈴
祖父が死んだ次の日、
湊は、どうして祖父がその風鈴を片付けないのか、ずっとそのわけを聞きたかった。聞きたかったが、いつでもいいかと怠けていたら、祖父はすいっとあの世に行ってしまった。では周辺の誰かに答えを聞くかと思い至ったが、これが全く当てにならなかった。
まず、祖母はまだその顔にしわが刻まれないうちに亡くなっている。湊の父曰く、父を産んで間もなく病で亡くなったそうだ。会ったこともないうえ、祖父の口から祖母の話が出ることもなかったので、湊にとっては知らない人とあまり変わらない。そういえば祖父の書斎にも、父の、つまり息子の写真はたくさん飾ってあったのに、自分の妻の写真は一枚もなかった。
ならばと父に聞いてみたが、よく言えばおっとり悪く言えば鈍感なこの人物は、風鈴についてまるで気にしたことがなかったらしい。湊が指摘して初めて「そういえばそうやねぇ、気づかんかったわ」とのん気に笑い、期待をぽっきり折ってくれた。
こうして、祖父しか知らない事実を二度と聞けなくなってしまったことにがっくりときて、荼毘に付した祖父の三味線が途端に恋しくなって、夜の縁側で少しだけ泣いた。
それが、一年前のことだ。
「やってしまった……」
本から慌てて目を上げて、湊は肩を落とした。降りるはずだった駅が遠ざかっていくのを見て、読む気の失せた本をしまう。そして、もう次は逃すまいと黒い矢筒を肩にひっかけて立ち上がり、ドアの脇に寄り掛かった。
祖父が若い頃から打ち込んでいた弓道を、湊も大学に入って始めた。今日は、もう一つの形見である祖父の矢を自分の丈に合わせて短くしてもらうため、大学御用達の弓具店へ行くところである。来たる新人戦で、どうしてもこれを使いたかったのだ。
隣の駅で降りて出口を上ると、空が突き刺すように眩しくて思わず目を細める。何度かやらかしている乗り過ごしも、この真夏となると気だるさが段違いだった。
やっぱり素直に一駅戻った方が良かったな、などと思いつつ、湊は歩く片手間に道を調べる。ややこしい近道を指し示されて、げんなりしながら路地を曲がった。
さて、旧い街というのは、都会の新しさに生きる身分にしてみれば、妙にわかりづらいところがある。
新興住宅地で育った湊は、例に漏れず――毎度乗り過ごしてはこうして一駅歩き、不本意な経験値を積んでいるというのに――この時、早々に迷ったのであった。
この蒸し暑さで汗はだらだら、肩の後ろでは矢筒の黒が熱を集め、しめった背中に追い打ちをかけてくる。今日が休日で良かった。このあと午後の授業に出る元気はない。
「暑い」
液晶の上で電子の地図をぐるぐる回しながら、店名もなにもない四角と周囲を照らし合わせようとして、あきらめた。
少々遠回りになるが、大通りに出るしかない。
――そう思って踵を返した瞬間、一陣の風が西から東へ髪を吹き散らした。
つい足を止め、ちょうど十字路の真ん中で、もう一度風が来ないかと待ってみる。
その間に右を見て、次いで左を見て、そこにあるものへ湊は思わずあっと声を上げた。
古い家屋の並ぶ通りの向こうに、綺麗な白レンガの店が建っている。
周囲から明らかに浮いているその出で立ちも確かに目を引いたが、湊の目をくぎ付けにしていたのは、その軒先で揺れる風鈴だった。
考えるより先に足が動き、それを後押すようにもう一度風が背中を通り過ぎてゆく。
汗を散らしながらその前にたどり着くと、赤い金魚のたゆたう風鈴がりん、と鳴った。ふぞろいな息を吐きだしながら、透き通った硝子をぐっと見上げる。
間違いない。
祖父の風鈴と同じ金魚だ。
見間違いではあるまいかと、「KITCHEN ITSUKI」と刻まれた看板の下につるされているそれを、湊は暑いのも忘れてまじまじと眺めた。
すぐ横でからりと下駄が鳴ったのに気づかないほど、夢中になって。
「おや。うちは弓具の取り扱いはございませんが」
「え?」
軽やかな声。
港がぱっと顔を上げると、そこには一人の男が立っていた。すらりと紺の透かし織を着流し、裸足に黒の鼻緒を引っ掛け、コンビニのビニール袋を提げている。にこやかな顔はあっさりと整い、やや伸びた猫っ毛の黒髪がこの暑さでも貼りつくことなく、ふわりと額に垂れていた。
湊は店と男を交互に見て、ちぐはぐさに首をかしげた。
「すみません、ええと」
「間違っていませんよ、ここの店の者です。いやぁ、この暑さにまとわりつくようなものを着るのはちょっとね」
湯だった頭で気の利いた返しも思いつかず、湊が誤魔化すように笑っていると、男はさっさと湊の横を通り過ぎ、銀のドアノブに鍵を差し込んでぐるぐると回した。
「少しお待ちくださいね。ドイツ製の古い錠で、少々癖が強くて。——さあ、開いた」
白い木の扉が引き開けられた途端、中から控えめにレモンの香りをまとった冷気が流れ出し、すっかり火照った頬の熱を撫でた。
思わず口元をゆるめていると、男が扉を押さえて湊をうながした。
「どうぞ、お入りください」
「あ、いや」
「その風鈴のことを聞きたいのでしょう? ずいぶんと熱心に見つめていらっしゃった」
ずばりと言い当てた男に、湊は突然気まずくなって顔をそむけた。他人の物を無遠慮に見ていたことに、今さら気がついたのである。
とはいえ聞きたいのは間違いないので、誘われるままに入り口の階段へ足をかけた。
「では……おじゃまします」
「はい、いらっしゃいませ」
カラン、と音を立てて閉まった扉の残した風で、風鈴がもう一度りんと鳴った。
外観はまるで神戸の異人街にでもありそうな雰囲気の店だったが、内装は意外と落ち着いていた。オーク材の丸テーブルと二脚の椅子が揃いで六組、それとバーカウンターに丸椅子が七つ。その奥の棚には、色や模様の少しずつ異なるティーカップが綺麗に並んでいる。
ぼうっと突っ立っていると、鳩時計が十二時を告げてポッポと鳴いた。
「お招きしておいてなんですが、実は今日、定休日でして」
生成りシャツの袖をまくりながら階段を下りてくる店主は、名を
「お昼時なのに、これしかない。ほら、梅おにぎりとメロンパン」
依月が、カウンターの上に置いてあったコンビニのビニール袋からちぐはぐな昼食を出して、困ったように笑う。湊は慌てて首を横に振った。
「いや、そんな。むしろ、こんなタイミングでお邪魔している自分が悪いので」
「招いたのは僕ですよ。アイスティーなら出せますから、少し待っていてください」
促されるままにカウンターへ座り、数分。薄氷のようなグラスになみなみと注がれた花の香りのするアイスティーが、レモンと一緒に目の前へ置かれた。一口飲んで、すっきりと涼しい冷たさが喉を通り抜ける感触に、ほっと息をつく。
ふと視線を感じて顔を上げると、依月が頬杖をついてにこにこ湊を眺めていた。目が合ってしまった手前、逸らすのもなんだかおかしいような気がしてじっと見返す。
すると、彼はいたずらが見つかった子どものように歯を見せた。
「すみません、そんなにじんわり飲んでくれる人は初めてだから。美味しいですか?」
「お、おいしいです」
「そう、良かった」
依月は満足げな様子で、同じアイスティーを適当なマグカップに注いで一口飲む。コンビニ飯といい、どうやら自分のことには頓着がないらしい。
「……それで、あの。金魚のことですが」
「あ、そうでした」
依月はぽんと手を打って、入り口の方へ向かっていった。そして扉の隙間から上半身を出し、すぐに中へ引っ込む。その手には、あの風鈴が握られていた。
カウンターの向こうから、卓上飾りの鉄細工にひっかけられたそれを、湊は目で追いかける。
赤い金魚が描かれた風鈴は、見れば見るほど、色を除いて何もかもが祖父の風鈴と同じだった。
「気になる、ということは、もしかして湊さんも同じものをお持ちなんですか」
「はい。先日亡くなった祖父の形見なんです。金魚の色が違いますけど、こんな風に光を通すと色が薄くなって、なんだか泳いでいるみたいに光って……」
見透かすように風鈴を見て、ふと向こう側の依月がガラス越しに映って、湊の心臓がどきりと跳ねた。さっきまであんなに柔らかかった表情は険しく変わり、眉間へしわを刻んでいる。睨みつけているのだ――まるで、この金魚が気に入らないとでもいうように。
湊は、恐る恐る声をかけた。
「……あの……どうかしましたか?」
すると、依月は風鈴から目を離さないまま、平静を装った声で答えた。
「……僕のこれも、同じく譲り物です。とはいっても、かつて母だった女の物ですが」
棘のある物言いに、湊は耳を疑った。目を丸くして依月を見ると、彼はばつが悪そうに目を落とす。
「すみません、お耳汚しを」
「いえ……」
湊が首を振るうちに、依月は喉を鳴らしてアイスティーを飲み干した。そして、脇のピッチャーでもう一度マグカップを満たす。それをまた一口飲んでからようやく息をついて、指先でちりんと風鈴を鳴らした。
「……お客様。この風鈴について話すのは一向にかまわないのですが、その前に、僕の面白くもない生い立ちを聞いてもらわなければいけません」
「生い立ち、ですか」
依月は頷いた。
「ええ。この風鈴が僕の前に現れたことと、深く関係していますから」
先ほどの言葉といい、わずかうつむいているその様子といい、どうも楽しい話ではなさそうだ。
湊はアイスティーをゆっくり二口飲んで、両手を膝の上に置いた。
「わかりました、どうぞ」
その態度がおかしかったのか、依月は少しだけ目元を緩めた。そして、おもむろに話を始めた。
「僕の実家は加賀の地主で、母はその跡取り娘。十八で婿養子を取り、ふたりの子どもを産みました。二年早く兄を、そして僕を」
依月の身の上話は、淡々と進んだ。
活発で無邪気な兄に対して、自分が卑屈で病弱だったこと。母は後継ぎの兄を我が子とかわいがり、自分には目もくれなかったこと。そんな母が憎たらしくてわざと癪に障ることを言い続け、しょちゅう折檻を受けていたこと。入り婿で肩身の狭い父だけは味方だったが、やがて母に逆らうようによそへ女を作り、ほとんど家に帰ってこなくなったこと。
そして――依月が十五の時に、兄が死んだこと。
「それも、かなり唐突でね。自殺だった。学校では優等生で生徒会長、かわいい恋人もいましたよ。次男の僕とは違い、裕福な実家を継ぐこともできて、まさに順風満帆。でも……きっと僕には分からない苦悩があったんでしょうね。満月の夜に、川へ飛び込んで死にました」
湊は何も言えず、黙って頷いた。半分飲み干したまま放っておかれたグラスから、カランと溶けた氷の滑りあう音が響く。依月はそこへ流れるような手つきでアイスティーを注ぎ、前髪をかきあげて遠くを見つめた。
「母の発狂ぶりといったら、まあひどいものでした。泣きわめいて家の中の物を壊して回るだけでは飽き足らず、周りの人間にはお前のせいであの子は死んだと言いがかりをつけ、肉親だろうが構わず死の責任を押しつけようとした。葬儀の席では、さすがに祖父母が止めていましたが」
きっと、誰よりもまず依月がその犠牲にあったのだろう。湊がその目を見ると、依月は肯定するように呆れ笑いを浮かべた。
「……それで、母は葬式が終わるまで茫然自失だったんですけどね。兄を納骨する直前、骨壺を抱えたまま失踪したんです。いよいよ本当に気が狂ったかと思っていたら、一週間後にふらりと戻ってきました。骨壺をどこかへやって、代わりに」
長い指が、こつんと風鈴をつつく。湊の背筋がぞっと総毛だった。
「まさか……」
依月は風鈴を険しい顔で見ながら、まるで怪談話でもするかのようにささやいた。
「母は頬を紅潮させて、僕たちにこれを見せびらかしてきました。御覧なさい、あの子が帰ってきたわ。ほうら、あの子の大好きな赤いお着物を着て、綺麗でしょう? って」
わざとらしい依月の声真似は、かえって湊をぞっとさせた。
尻が丸椅子にへばりついたまま動かず、思い切り腕を張って体を風鈴から引き離す。水滴のついたグラスが揺れて、沈んだレモンがゆらゆらと琥珀の海を漂った。
依月はハッとして、湊の強張った手を撫でた。
「すみません。怖い話ですよね、ありえない話です。死人が絵に描いた金魚になるなんて、普通に言われて信じるわけがない。おかしな輩が、人骨欲しさに悪趣味な詐欺商売をしていたという方が、まだわかります」
そう取り繕った依月に、湊は血の気が引いたまま答えた。
「……でも、お母さんにとっては、違ったんですね」
口にしてから、少し物悲しくなる。依月は是とも否とも言わなかったが、目を伏せてむなしそうに息をついた。
「……ともかくそれ以来、母は一心不乱に風鈴を愛でて、おかしくなってしまいました。それで、祖父母は僕を跡取りに仕立て上げようとしてきた。嫌だったので、全部捨てて逃げてきちゃったのが、今の僕です」
勘当同然で出てきたので、元・母というわけでして、と依月が笑う。湊は全然笑えなかった。
急に赤い金魚が生々しく思えてきて、なるべく視界に入れないよう眼をそらす。しかし、家にまるで同じものの色違いがあるという真実が、湊の目をその金魚へと運ばせた。
「つまり……自分が持っている、風鈴も」
依月は眉を寄せ、気遣うように湊の肩に手を置いた。
「絶対にそう、という話ではありません。もしかしたら、たまたま良く似た模様のものを、湊さんのおじいさまが所持していただけかもしれない」
赤い金魚を見つめながら、湊はゆっくりとそれを否定した。まるで生きているようなその姿を、小さいことからずっと見ていたのだ。今更、見間違えようもない。
つまり、今の話が何もかも真実なのだとしたら――祖父の青きんぎょも、死者の骨と引き換えに得たもの、ということになる。
依月はしばらく黙っていたが、やがて風鈴を手に取って再び外へ吊るしに行った。そしてすぐに戻ってくるとキッチンへ向かい、こがね色のハーブティーで満たした白いティーカップを、そっと湊の前に置いた。
「……ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げて、一口飲む。温かくて甘い匂いがすっと湊の心に落ちてきて、少しだけ穏やかな心地になった。
「そういえば、なんで依月さんがあの風鈴を持っているんですか?」
依月は、空になったピッチャーを手にキッチンへ向かった。そのまま湊へ背を向けたまま、ひょいと肩をすくめる。
「父ですよ。孫二人は自殺と家出、一人娘は発狂。困り果てた祖父母が、それなりに事情の分かる婿を破格の待遇で呼び戻したんです。それで、いつまでも死んだ息子に執着する妻の姿を見かねて風鈴を取り上げたはいいものの、置き場に困って僕の所へ送りつけてきた。僕はあれを兄だなんて一ミリも思わないけど……捨てるのも寝ざめが悪そうなので、ああして客引きをしていただいています」
そして、ふと振り返り目を細めて湊を見た。
「湊さんも、おじいさまに押しつけられてしまったんですか?」
湊はぶんぶんと首を横に振った。
「いえ! 自分でほしいって言ったんです」
すると、両手を空けて戻ってきた依月がカウンターに頭をもたげ、湊をのぞき込んできた。黒目がちな両の目は、さっきまでの出来事が嘘だというように穏やかだ。
「それならきっと、湊さんのおじいさまは、湊さんが引き取ってもいいと思えるような扱いをしていたんでしょうね」
その優しい声にふわり、と心が引っ張られた気がして、湊はうつむいた。そして、湯気の落ち着いた水面に、今朝も見たあの美しい青い金魚を思い浮かべる。
「……何もかも、全部を信じられたわけじゃないんですけど」
「ええ、当然です」
「でも……もし今聞いたお話の通りなら、祖父の風鈴は……自分は、あれは祖母の身代わりじゃないかと思うんです」
口にした途端、間違いなくそうだという気がしてきて、ぐっと拳を握りしめる。
「祖父は、誰よりも季節の変化を大切にするのに、あの風鈴だけは絶対にしまわなかった。いつも窓辺に飾っていて、窓を開けて鳴らしていた。雪の日もです。おかしいと思ったんだ」
そうだ、思い出した。小さい頃、湊が祖父に「風鈴が欲しい」とごねた時、祖父は湊を抱えて、風鈴をじっと見つめていた。そして、あの静かな声で言ったのだ。
「こら、じいじが背負わなあかんものやから、湊にはあげられへん。けど、わしが死んだら持っていき。ほして、ちゃんとお外に飾るんやで」
その時の祖父の顔は覚えていないけど、きっと笑っていたんじゃないだろうか。大切な人の代わりに、祖父の隣でりんと音を奏で続けていた風鈴を見て。
依月の母と同じように、祖父にとってはあの青きんぎょの風鈴が、祖母への気持ちを受け止めてくれる存在だったのだろう。だから、ああしていつもそばに置いていたのだ。
書斎に祖母の写真を飾っていなかったのは、必要なかったからなのだ。
湊はハーブティーをぐっと飲み干し、立ち上がった。
「おや、お帰りですか?」
「はい。やりたいことができたので」
なんだか、無性に祖父の風鈴へ声をかけたくなった。祖父が今まで思いを込めて撫でていた分、風鈴を撫でてやりたくなったのだ。
「ごちそうさまでした。あの、お代は」
依月はにっこりと笑い、レジ横の名刺を湊が出した財布のポケットへ差し込んだ。
「今日は結構です。でも……良かったら、また来てください。今度は道に迷ってではなく、ちゃんと目的地として、ね」
どうやら、迷子だったのはばれていたらしい。
湊は笑ってごまかしつつ、どこか温かなものを胸に抱えながら入口へ手をかけた。
「それじゃ。また、来ます」
そう言って、扉を押す直前——。
綺麗に爪の切られた手が、湊ごとドアノブを柔らかく押さえた。
ほのかな匂いに、胸のあたりがそわりとさざめく。
「最後に、ひとつだけ」
「は、はい」
「おじいさまの風鈴は、何色ですか?」
「あ……青です」
「……そうですか」
湊が動くに動けず、じっと息をひそめていると、依月が湊の手の隙間から指先を差し入れ、ドアノブを回して静かに押し開けた。
眩しい光と熱気が、勢いよく顔に降り注ぐ。もう午後だったかと手をかざすと、ひんやりと優しい力に背中を軽く押された。
「またのお越しをお待ちしております。それと……弓道、がんばってくださいね」
階段をと、とんと降りて振り返ると、依月が隙のない所作で無い弓を引いた。
「実はね、私も昔やってたんです。今でも時折、弦を鳴らしますよ」
そう言って、ひらりと手を振る。湊が手を振り返すと、依月は初めと同じ優しい笑みを残し、扉の奥へ消えた。
「依月さん……もしかして、結構な腕前なのかな」
ほんのわずかな動きでもわかるくらい、依月の動きは先輩たちや師範の動作にも負けず劣らず綺麗だった。ふつふつと負けず嫌いの熱が湧いてくる。自分も早く、もっとよく引けるようにならなくては。
さっさと祖父の矢を仕立て直して、家に帰ろう。それで、来週またここに来よう。
晴れ渡る青空の下、湊は軽くなった心に後押しされるように、湊は大通りの方へ駆け出した。
*
日が沈み、夜が来る。依月は戸締りと火元を確認してから、髪をするりとほどいた。カフェの明かりを消してエプロンを階下にひっかけ、自室へ上がる。そして、さっさとシャツをはぎ取ると、浴衣を裸の肩に引っ掛けて窓を開けた。
風のない空に浮かぶ月が、今日は一層明るく見えた。真下では、硝子の鈴の音が夜の冷たい空気に絶え間なく響き続けている。
自分にしか聞こえない耳障りな甲高いそれに、依月は窓際に立てかけた弓を取り、歯を食いしばりながら震える指で弦を鳴らした。
「黙れ、兄さん。僕はお前を縛った母でもなければ、お前を見捨てた父でもない。黙れ、黙れ、黙れ……」
同じ匂いを感じたからだろうか、それとも満月だからだろうか。今日の赤きんぎょは、いつもより活きが良かった。月が出ている間はどれだけやかましかろうと近所の誰にも聞こえていないのが、唯一の救いだ。せっかく上京して手に入れたこの場所を、因習と醜聞の泥にまみれた地獄からの逃げ場を、あれに壊させてなるものか。
擦れた指に血が滲みかける頃、ようやく耳鳴りが収まる。じっと耳をすませば、どうやらあちらも落ち着きを取り戻したようだった。
「っ、は……」
依月は止めていた息を吐きだして、弓をよすがにずるりと床に座り込んだ。古い梓が軋む音に、貼りついている指を一本ずつ剥がす。
過去の記憶を引きずり出す忌々しい月を睨みつけたが、うさぎの影は苦しむ依月をあざ笑うように今日も餅をついている。
ふらふらと丸い光に背を向けて、依月は文机の中から一通の手紙を取り出した。
【東京都 三ノ通リ 与野依月サマ】
丁寧にしたためてある掠れた万年筆の字に、気味の悪さがこみ上げる。無意識のままに再び息をひそめながら、依月は一度読んだきりのそれをもう一度読み返した。
【兄君ノ魂ガ帰還シタノデ、再ビ封ジマシタ。モウ二度ト割ラヌヨウ 風鈴絵師】
一枚めには、簡潔にそれだけが書かれている。
「……二度目の引っ越し先は、父にも教えていないのに。なぜ僕がここに住んでいると分かったんだ」
赤きんぎょの風鈴がこの手紙と共に玄関へ置かれていた時のことを思い出し、全身にぞっと悪寒が走った。
不安に駆られるまま、梓弓を引き寄せる。
皮肉なことに、弓は与野家の伝統芸だった。何もかもが嫌だったあの場所で唯一愛せたものが、今の依月を救っている。
それとは逆に、与野の精神と紐づけて弓を嫌っていたのが父だった。だから――母から取り上げたはいいものの、弦の音で祓うこともできないまま風鈴の笑い声に苛まれ、割ってしまったのだろう。
破壊した持ち主を金魚がどうしたのかは、依月の知る所ではなかった。ただ、この手紙の宛先が自分になっているのが、答えのような気がした。
唇をかみしめ、二枚めへ目を通す。
それは、風鈴絵師が作った宣伝ちらしだった。
【死魂ノ風鈴作リ〼。未練ノ霊魂ヲ収メ、何時デモ彼方ノオ側ニ。
金魚ノ色ハ死ノ色、オ選ビイタダケマセン。色ニヨッテハ定期的ナ祓イノ必要アリ。
赤―自殺
黒―病死
緑――産褥死……】
ちらしの端に描かれた白い金魚をなぞり、依月はぼそりとつぶやいた。
「湊さん。……僕は君の金魚が、おばあさまでないことを祈ります」
色に意味があると知ってしまったら、湊は問わずにはいられないだろう。
あるいはその答えが、思いもよらないものだったとしても。
「——そして、その原因がおじいさまでないことを」
そう言って依月がなぞったところには、
【青――他殺】
と、書かれていた。
―Fin—
青きんぎょの風鈴 Kay @mitorine
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