琥珀色の地球ー35,000 黄金の島のひと
聞いて下さい。声は重く、どうしようもないほどの哀しみを含んで、
「みなさん知っていますよね。私は、自分より小さなものに害されないんですよ。だから、捕まっても記憶を奪う施術は効かないはずだったし、薬物で眠らせられないはずだったし、細胞を切り取ってクローンを作ることだって、できないはずだった」
けれど、そうはならなかった。彼女は記憶を失い、イアクローンは造られた。なぜなら。
「『いいか、人々を救うんだ。そうすれば、他の連中も始末しないでおいてやる。クローンで
張り裂けそうな想いが、荒れた能力反応と共に伝わってくる。普段持ち合わせているはずの彼女の穏やかさと強さは姿をくらませた。絶え間ない涙は頬に流れたあと、降り始めた小雨に混じって、もうどうしていいかわからないと揺れ動く肌に散る。乱雑に踏み荒らされる濡れた草原。整わない息を何度も必死に落ち着かせようとしながら、長い黒髪の少女は
「知らなかった。まさか能力者たちを取り込もうとする計画だなんて! 私は、何にもできなくて。目と耳に張り付いて消えないんです。あいつは蛇の化け物だった。本物の
その言葉に共感できる相手はここにいなかったから、彼女はどう考えても狂っていた。強い風が唸って、雨音を強く響かせる。慟哭を聞き届けるのは、
已愛は、イチハルとユウを指差して叫んだあと、大きく咳きこんで顔を上げた。心拍一つ分の静寂を差し込んで、ひどく引き攣った表情がさらに青ざめる。自分がとんでもないことをしでかしたということに気付いた様子だ。眼が泳ぐままに、吐き戻されそうになる謝罪の言葉。自分が何かを言えるだろうかというためらいは、その場の誰にもなかった。だから、そんなことはない! という意味合いの言葉は三重に響きかけて、『彼女の声以外を認識できなくさせる』力を発動したユウのそれだけを残して霧消した。
「ごめ――」
「違うよ」
音しかない暗闇のなかで、かつてシルバー・エコーとして売り出していた歌手のクローン――制御のため、能力の意識的な操作を可能にした――は短く、こう付け加えた。
「誰のせいにもできることじゃない。そうでしょ」
夜は寒い。泣き声が落ち着いたのは深夜を少し回ったころで、超常の熱を宿す彼以外は、一旦男女に分かれたテントに入り休息を取ることにした。
アーチストは思い返す。新奇跡館で目を覚ましてからここまで、死に満ちたことがあり過ぎた。泥から形を戻した自分の服に視線を落として、左手の指輪に行きつく。
アメリカで別れた向日葵の女性ガーデナーと、ミネルヴァ・マイルキューレは、いまごろ何をしているだろうか。
かつてクリーチャーを遠ざけた安寧の冬が、穏やかな丘陵を成す草原を浸す。傾斜の関係で湖の方に流れ去るとは言っても、テントまで持っていかれては危ない。アーチストは泥を腕だけに纏い、地面に刺したままにしてあった剣を振り上げた。音もなく発火が起こる。迸る圧に、空気が彼を中心に逆巻く。腕から漏れる煌々とした光と、拡がって踊る影。力はそこまでこめなくて良いから、その一撃は限りなく静かだった。切っ先から伸び上がった摂氏二〇〇度ほどの熱波が、慣れた様子で雨雲を切り裂いて夜空を
「あ、れ……」
そこで違和感があった。腕を振り上げた態勢のまま、力が抜けて濡れた地面に仰向けに倒れる。バランスが取れなかった。急に疲労感が全身を覆い、どうしようもなく眠たい。注意を向ければ、イアクローンとオートノミーの能力出力が大きく落ちている。自分自身もだ。アーチストは気付いた。足元の地表が、爆発的な勢いでガーネットキマイラの熱の力を吸っている。
何も知らないまま已愛を眠らせるユウクローンの歌声に合わせて、幕を開けた夜空を捉える視界。皆嶌龍弥ではないひとは、この期に及んでまだ新たな驚くべき超常が堂々と目に入ることについて、何の感情も持ち合わせていなかった。
能力反応が響く。耳に届いたのは、イアクローンの能力を借りたオートノミーからの緊急通信だ。たったいま判明した情報を慌てて共有するといった様子だが、聞き取れたのはわずかにすぎない。
本格起動して、ようやく全容が観測できた。
大気圏外に撒かれた、
クリーチャーと私たちを造った、
寝転んだ視線の先の闇夜にひかりが一つある。その隣に増える。さらに瞬いて倍になる。濡れた大地を背にして、息を吐いて吸う前に、数百万回繰り返す。皆嶌龍弥ではない彼の細めた目が開かれたとき、有史以来ずっと変わらず存在しているような超然さで、それは、あった。
視える、神々しい翡翠色に輝くあまりに巨大な帯が。重く暗い色で彼方に控える天の川を縦に両断する眼前に屹立する
歌は続いている。風は落ち着いている。ひどい穏やかさのなか、音がする。クレーターの方からだ。倒れたまま左へ目を向けると、人影がある。女性だ。肌着姿の女性が、懸命に波打ち際に向かって泳いでいる。彼女の腕のなかには少女がいる。右手が白骨化し、青ざめて膨れた亡骸だ。オルトラーナ! 女性はイタリア語で叫ぶ。彼女たちに能力反応はない。皆嶌龍弥ではない彼にはもう分かっていた。探索に出たのは自分たちだけで、何の力も持たない人間はもうどこにもいない。だから、あの、死んだ娘を抱いて岸辺に辿り着いた母親は、きっと自分よりずっと多くのことを知っているのだろう。
散布から一四年、第三段階、黄金能率の達成及び維持に成功。
再誕のための熱エネルギーを充填できている。
女性は濡れた身体を引きずりながら、苔むしたぬかるみを数歩進むと、膝を折って呼吸を整えた。大丈夫だ、ここまでは上手くいった。亡骸を撫でながら発された言葉に彼は身体を起こすことができなかった。力が籠らない。熱が吸われている。息苦しさのなか、脳裏に思い起こされるのは、いままでの散々な哀しみと、別れと、死だ。
誰が、何を目的として、あの地獄のありさまが成されたのか。もはや全くの偶然ではないことは明らかだった。
我らみな死を畏れ、
黒と、
――よみがえれ。
自ら拵えた奇跡を祈る声と共に、天界の明度が大地に落ちる。空がストロボのように瞬く。見下げる女性の腕のなかで少女の皮膚が瞬く間に再生していったのは、もっとも目立たない事柄だった。背後、クレーター湖が数十万トンの水を吹き飛ばして炸裂すると、飛沫を払って様々な影が姿を現す。あるがままに受け入れる諦観がなければ、数分間唖然としていたに違いない。咆哮を上げ、草原を踏み鳴らして進む三階建てのビルより大きな竜脚類の横を、翼開長一〇メートルを超える鳥がすり抜けていく。クリーチャーでも、見知った生物でもない。人の腕ほどのトンボも、サッカーゴールに収まりきらないような直角貝も、信じられない造形をしたより古い動物たちも、湖の爆発から方々に拡がるのは現代から先カンブリア時代までに失われた種族たちだった。絶えない六万ペタワット毎秒。あらゆるものに転化可能な熱を維持し、DNAと有機物の混交した始原の卵。琥珀色の地球から、全てが
何がどうしたのか。どうにか辛うじて起きているだけの彼には分からなかった。近付く足音がする。少女のものだ。冬の日に庭を走り回るように、はしゃぎ声を上げながら、その柔らかく小さな手をもはや泥の生み出されようがない頬につける。間もなくすっと遠くなる指先。娘を抱き上げ、皆嶌龍弥ではないひとを見下げた母親は、慈愛を込めた笑顔で言う。
「ありがとう、旧きひと。オルトラーナを助けてくれて。あなたはせっかく生き残ったのだから、目を覚ましたときには幸せだけの世界を約束するわ。おやすみなさい」
じゃあね、という元気な言葉と振られた手が、白くぼやける。絶滅した大型動物たちの脇を抜けて去り行く二人の後ろ姿が合わない焦点に歪むのを覚えながら、ガーネットキマイラ、アーチストは深い眠りについた。
夜を渡して、神は創る。
死を畏れた生き物たちを従えて、道を、橋を、建物を、街を。
Con te partirò
あなたとともに旅立とう。
Paesi che non ho mai veduto e vissuto con te,
様々な場所、いままであなたと共に見たことも訪れたこともない色々な場所を、
adesso si li vivrò.
これからも経験していこう。
In that beautiful land on a far-away strand,
遥か彼方の素晴らしい土地では、
No storms with their blasts ever frown;
一吹きの嵐も起こらないといい、
The streets ,I am told, are paved with pure gold,
大通りはみな純金で舗装され、
And the sun shall never go down.
陽は決して、沈まないそうだ。
私の主よ、あなたは称えられますように、
すべての、あなたの
あんなに色鮮やかだった犠牲は、読めない文字にのみ残る過去となった。
平和に、幸福を重ね、愛に満ちて。
この黄金の世界は、三万五〇〇〇年経ったいまも、変わらず栄えている。
・・・・・・
次話 三章後編 最終話 反運命的彼女たち
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