琥珀色の地球ー2
これは、一週間前の夜のことだ。
「お前は私の
「うわひっでぇ言い方。こっちの助けがなきゃいまごろくたばってんの分かってます? 具体的に誰かってのは憶えてませんが、私が取り込んだのは手の指でちょっと足りない数の怪物でしょ。事実だけいうなら、そっちのお仲間どもはこの何倍も無辜の人々を殺した。ヒーローになったのはこっちだ。テメエじゃねんだよ下位互換」
怒号が
耳を澄ませるまでもなく、しばらくすると内容が分かってくる。已愛がクローンを恫喝して聞いているのは、いつかアメリカで、ガーデナーがまだ見つかっていないといっていた、ガーネットキマイラを元の二人に――イアクローンでは十数人に――戻す方法のようだった。
幾つもの能力を持つ彼女が答えたことには、こうだ。
黒く長い髪と簡単に折れてしまいそうな四肢が、月明かりの鉄板に影を引く。激しい呼吸音の直後、已愛は馬乗りのまま袖口からきらめく得物を取り出した。調理室にあったペティナイフだ。カンっと高い音。自分より小さいものに害されない能力の関係上、乱雑に振り下ろした金属は、意味をなさずに弾かれる。だが、続ける。何度も何度も、漏れ出す狂気を隠すこともなく、自分の紛い物をめった刺しにする。
「私がお前を造る許可を与えなければ、
繰り返し筋肉を動かす。刺す。貫き、抉ろうとする。噎せ返る海風に乗せた、鋭利な殺意と哀しみがそこにあった。叫びと涙が夜の空気を引き裂くなかで、銀のナイフの一閃はついに意味を成した。アーチストには分かる。いつか戦ったときと同じだ。イアクローンの能力、その全ての出力が、止まった。
正義感の強い青の瞳の女性は、初めてその感触を知る。両手で握った凶器が、人間の肌に沈み、肉を裂く。刺さったのは右肩だ。骨にひびを入れながら滑り下ろされて、柔らかなわき腹から湿った切っ先が表れる。飛び散る膨大な返り血を顔面に浴びて、已愛は先ほどまで抱いていた憎悪が嘘のように蒼ざめ、立ち上がり、数歩後退った。寝ころんだまま流石の痛みに顔をしかめた自分のクローンと目が合う。ドロドロとした流血。小さな切断面から毛羽立った神経や体組織が浮き出して、着ていた白いTシャツはおぞましいピンク色に染まっていく。荒い呼吸のあと一つ響くのは、震える手から落ちた凶器の鳴らす場違いに軽快な金属音だった。殺す。殺して、取り戻す。そのはずなのに、何だこれは。怖い。誰のものであれ、自分の関わる死が怖い。
「もう、何もかも嫌なんですけど」
棒立ちのまま呟きを残すと、彼女はふらつく足取りで歩き去った。様子が心配だ。追いかけて第三主砲を横脇に抜けたアーチストだったが、そこですすり泣く声が聞こえる。彼には分かった。イアクローンの能力反応がとても強くなって、感情が大きく揺れている。居住区と後部甲板、どちらに向かうべきか。一瞬思案したアーチストは、オートノミーの能力反応が前者へ向かっているのを感じ取って、もう片方に歩みを進めた。
「くぁー、凹むぜーッ!!」
近付いてみると、イアクローンは仰向けに倒れたまま、大声で元気に喚き散らしていた。ガーネットキマイラにとってあれくらいは怪我のうちに入らない。案の定傷はあっという間に修復されているが、驚いたことに、攻撃的に細められた両目からは一筋の涙が流れている。皮膚からの泥の横溢を封じているのは、単に怒りへの転化によるものだ。さっきの一連のやり取りで、より化け物じみた彼女の方がこんなにショックを受けるとは意外だった。何とも言えず固まった表情を見て取って、ため息と共に立ち上がったイアクローンは治ったばかりの右腕の中指を立てて言う。
「お前、オリジナルの
私が本物でないと知ったのは、ほんの二○日くらい前。
「偽物だってさ。知ったときはテメェもビビったはずだ、アーチスト。本気でこんな船沈めてやろうと思った。けど、無理だった。私は
うぎゃぁー、クソゲロ鬱、超凹むわー。再びくるんと倒れ、ゴロゴロとわめいて甲板を転がりながら、イアクローンは小さく丸まった。キンキンと耳に響く大声と涙も相まって、少女は産まれたばかりの赤子のようで、アーチストは自分と彼女が意識を持ってからまだ半年も経ってないことを改めて思い起こす。
自分が全く気付かないような激情が、どんなところにも転がっている。いま足を付けるこの艦隊の何人に「死ねばいい」と考えられているだろうか。そして、何もかもを壊す結果となってしまったことについて、オリジナルの皆嶌龍弥は自分に何を想うだろうか。誰に責任を負わせたとしても、それを全うして世界を元に戻すことなんてもうできない。クリーチャーの、そしてガーネットキマイラの生み出す超常の理屈も十分に分からないまま、眼前の太平洋は黄金に囲われた湖になった。罪は完全に降り立つ場所を失って、無意味な自己嫌悪の上を飛び回るばかりだ。
「おれは、誰も悪くなくていいと思う。これから、みんなで頑張っていければ」
「現状一番の諸悪の根源がどの口開いてそんなこと言います?」
「それでも、おれは――」
「あー、はいはい、分かってますよ。涙目になんなっつーの。ちょっと前の新年パーティーでやった、ハッピー・ニュー・已愛ァアアアア! がオリジナルにも何にもバチクソほど滑ったの思い出しちまった」
小さな足が鉄を鳴らし、甲板端の柵を掴む。何をするのかと身構える間もなく、響く爆音と共に視界が揺れる。清々しいほどの罵詈雑言だった。榎木園已愛でない彼女は、艦全体を軋ませる咆哮を放ると、恥ずかしげもなく皆嶌龍弥ではない彼の手を取って歩き出す。吐き出せたものは、本当に僅かでしかない。夜はただ冷たく暗く、頭上には全ての誰かの罪たちを照らす満天の星が輝いていた。
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