反運命的彼女たちー1

 そこに戻れば、何か大切なものを思い出せる気がした。少年、樹実たつみは、風に乱される髪を掻きながら腰を上げる。横倒しした白い八角柱状の空間の左、列車のドアはもう空いていて、天井のライトがチカチカと降車を急かす。

「本日も丹三杖便たんさんじょうびん南部上古路線なんぶじょうころせんのご利用をありがとうございます。始原湖枢しげんことぼそ、終点です。祖涯冥王断絶そがいめいおうだんれつ南麓なんろくまで二駅分の距離しかありませんので、お気を付けください」

 数歩助走し、最も低い雲を冠する高度から飛び降りる。眼下、右手側、静かな潮騒を響かせる旧大陸最大の内海――始原湖しげんこ――も、その南方一線から昇り上がる紫色の光芒――祖涯冥王断絶そがいめいおうだんれつ――も、目標地点ではない。帰行しますという通信を残し、三体の赤い怪鳥に引かれて爆音で去っていく六枚翼の機影を頭上に、到達すべきそれは、光の帯と湖の中間にあった。遥か過去に滅んだとされる街の名残たち。その奥に、はっきりと見える白い建物。樹実がかつて登山中に発見し、この度大学の教員を先導することになっている、旧文明の祠だ。

小さな杖バクテリアよ、形を戻せ!」

 落下。目まぐるしく回る視界のなか、空気を切り裂きながら叫ぶ。懐から取り出した中指の倍ほどの大きさの杖。それは一瞬で獄炎に包まれ、内包した遺伝子に従い、赤色の生物に成形され直す。動物情報を持っている杖は少ないから、樹実のそれはレアなタイプだった。オルドビス紀の海の威容。エーギロカシス・ベンムーラ。トンっと、二メートルを超えるイカに似た生物の背に乗り移り、右腕を上へ。後便で来る研究船に届くよう、爆発的な閃光信号を撃ち放って、開かれた祠に入る。

 相変わらずの静謐だった。天井の高さは樹実の身長の五倍くらいで、奥行きは全力で走って一〇秒かかるほどだ。一区画分凹んだ最奥には原初の創造主を象ったと思われる寝転んだ男性の石像が膝くらいの高さの台座に置いてあり、その横の壁面に解読不能の神代文字と地図が記されている。

 遥か旧大陸の僻地まで四日。とても久々に目にするが、旧い神様はひどく怠惰な格好だ。鞄を背負い直して近付く。一歩足を進めるごとに、胸騒ぎがする。樹実にはおぼろげながら、上古の記憶があった。それはこの建物に関するものだったはずだが――具体的には思い出せないでいる。

 研究者の二人が来るまで時間がある。自分の身長を超える小さな杖バクテリアを玄関に留め、靴音を響かせる。前と同じだ。見回す視界に新しいものは映らない。何か、思い出しそうな気がしたのに。だから、また仕事を請け負ってまで来たのに。小さな杖バクテリア原生回帰げんせいかいきは大きく熱を使う。長い旅路で疲れ切った少年は、息を吐きながら背の高い像の頬に、触れる。


 ・・・・・・


 足音が聞こえる。息遣いが聞こえる。空気が震えて、耳に届く。呼吸が戻り、心臓が血を回す。熱。皆嶌龍弥みなじまりゅうやではない彼が意識を取り戻すと、端正な顔と目が合った。少年だ。一瞬の静寂のあと、軽装で小さな鞄を握った色白の少年は、驚きに大きく後退って尻もちをつく。

 頭が重い、何がどうなっている。動きにくい身体をガーネットキマイラの力で溶かし、無理矢理立ち上がりながら、確認する。彼が誰なのか。超常的な黄金の大地での出来事のあと、何が起こったのか。あらゆる現状に対する疑問の前に、見知った死の脅威に気付いた。丹泥種たんでいしゅだ。紡錘形の頭殻を持った体長二メートル超の赤い怪物が一匹、白いタイルに覆われた部屋の入り口を塞いでいる。

「――下がって」

 詰まり固まった喉から言葉を発して、少年の前に歩み出ると、発火は一瞬だ。祠が神々しい陽の波濤に呑まれる。未臨界あかながら、日輪を冠した神のごときガーネットキマイラ、アーチスト。いまや振り下ろせば丹泥種たんでいしゅ一体程度どうにでもなるはずの剣は、しかし途中で動きを止めた。消えたからだ、標的が。具体的には、風に舞う粉のように霧散し、立ち上がった少年の手に収まる赤い杖を形作った。

 何者だ。と、アーチストは尋ねかけて、少年のあまりの狼狽ぶりに口をつぐんだ。完全に神か怪物を見る目だ。捜すが、ほかの誰かの能力反応はやはり近くにない。あの黄金の大地が影響して何かが起こったに違いないこと以外は、何もかも不明なままだ。尋ねることの出来る相手は、一人しかいない。交差する音。警戒を解こうと奮闘しながら、二、三質問をして、今度は皆嶌龍弥ではない彼の表情が徐々に引き攣っていった。少年の返答を短くまとめると、こうだ。


 彼の名は、榎木園樹実えきぞのたつみ

 かつて登山中に滑落死した榎木園已愛えきぞのいあの父親であり、四八七回の蘇生――彼の言葉では戻殻れいかくというらしい――を含んで、今年で三万五一二〇歳になるという。

 

「あなたは、――アーチストというひとを、知っていますか?」

 唖然とする大男に、少年は極めて真剣な表情で伝える。会話を繰り返す内に、樹実は何かを思い出した様子で、決意と勇気を込め、語り掛ける。その目は、アーチストの知っている「自分より小さいものに害されない」彼女の力強さと全く同じ、冬の陽の温かさを纏っていた。

「思い出しました、已愛の願いを。そのひとに、必ず見せて欲しいといわれたものを。そこの、あなたの横に書いてある――」

 ガーネットキマイラに言語の壁はない。アーチストは、誰も解読できない未知の文法と文字で記されているという、それの方を向く。



 皆嶌さんへ。諸事情により日本語で書いています。

 あなたたちガーネットキマイラが石のように眠ってから六○年が経ちました。

 もう目覚める見込みもないので、私たちが知った世界の真相をお教えします。

 黒蝋種こくろうしゅ丹泥種たんでいしゅ、そして琥珀色の地球Amber Earth。これらを生んだ犯人が分かりました。

 フォルトゥナータ・キエザ、かつて奇跡館のダザンクール館長と同じ大学の研究所に所属していた女性です。キエザは最も偉大な遺伝子学者の一人でしたが、最愛の娘、オルトラーナを失ってから、禁忌と呼ばれる部類の研究に手を出しました。ダザンクールによって私たち生者に打ち込まれた粒子群は、彼女により開発されたものだったのです。

 人間の亡骸へ、死に瀕した生物の遺伝情報を付与し、莫大な熱エネルギをーを与え続けて高位の生命体――死亡時に全細胞を生殖細胞に戻すことで、テロメア数をリセットし、蘇生を繰り返す新しいひと――として再誕させる。二〇一九年、爆心はイタリア。死から遠ざかるように、より高温に。黒、赤、黄金、色を変える怪物たちが、気流に乗せ、世界中に薄くまき散らされた粒子群によって墓の底から生まれることになった。これが、クリーチャーです。皆嶌さんがもう誰かと会っているとしたら、それは私たちの世界を滅ぼした蝋や泥の怪物が人の姿を取り戻したものです。二〇三三年までの一四年間、私たちは死人たちが復活するための創世のなかで戦っていたということになります。

 最期にこのことを話してくれたダザンクール館長をしても、本物を見るまで死者が蘇生できるなんてことを信じられなかったようです。彼からすれば、失敗して怪物を生んだだけのキエザの二の舞を自分が演じたと思っていたそうで、私たち紋章権能者もんしょうけんのうしゃを生み出してしまったことについて、謝罪の言葉を繰り返して亡くなりました。

 フォルトゥナ-タ・キエザとその娘は艦隊の元に現れました。決死の抵抗の甲斐もあり、新世界の神に似て振る舞う彼女は私たちの衣食住や領地を保証することになった。あの黄金色の波濤――熱エネルギー収集の最終段階――時点で死亡していない旧いひとは、蘇生した新しいひととは違って、もう生まれ変わることはできない。寿命が定められていて、有性生殖によって代替わりする私たちの生活圏をして、胎生人区画たいせいじんくかくといわれています。

 みなさんの話をしましょう。クローンのイチハルは公共インフラを整えるリーダとなりました。昨年病で亡くなるまで、胎生人副区画長の仕事の裏であなたのことを心配していましたよ。シルバー・エコー。憶えていますか。クローンのオオマクマチさんはあれから最も偉大な歌手になりました。三六歳という誰よりも短命で生を終えた彼女ですが、彼女の歌はいまでも区画外の蘇生者たちを含めて語り継がれています。いま私とファーガルくんで、彼女の孫のアイドルデビューの面倒を見ているところです。といっても、文明はまだ始まったばかりってところなんですけどね、まだここ。

 あなたは少年の姿しか知らないでしょうが、ファーガルくんは背が高くなりましたよ。開拓隊長として代替わりした討伐部隊を指揮していろいろなところに出向いています。地図作製も手伝ってもらっているので、いずれ目覚めたあなたのお役にも立つと思います。神殿を立てて、いまこの文章を彫り込んでもらっているのも、職人気質の彼です。(追記、親愛なるアーチストへ。地図は下部に記した。かつて指輪を送った筆記者より)

 私は、父と出会いました。私の憧れていた、山のなかから帰ってこなかったはずの父です。子どもの姿でしたが、声をかけてくれました。「大きくなったな、已愛」って。フォルトゥナータの計画によって蘇生したのは過去全ての死人ではなく、燃やされずに亡骸が残っていて、かつ討伐部隊に始末されなかったうちから、本当に限られた一握りでした。全ての不幸の上に立って、私だけが得をしたという罪だけが、消えずにここに残っています。

 ねえ、皆嶌さん。私はいま八二歳です。胎生人区画は、徐々にかつての人間社会の文化の黎明を迎えつつあります。まだ立派とは言えませんが、複数の街がしっかりと根を張り、規模を拡げています。もうすぐ去る私たちの残す全てが、喜びだけを呼びますように。あなたが目覚めたそこは、暗い場所ではないですか。少しでも温かく、安らぐような場所にできていますか。あなたは優しい人だから、できるだけ悲しまないで欲しかった。恵まれて、幸せになるべきだった。堅牢で穏やかな白タイルで築いたこの神殿は、あなたへの精一杯の贈り物の一つです。


 最後に、泣き顔を見せてしまってごめんなさい。

 あなたはずっと愛されています。

 代表して 榎木園已愛えきぞのいあ


 世界の真相なんてどうでも良かった。足元がふらつく。視界が天井を向く、仰向け。

「う……ぁ……ぁ……あぁ……」

 両目から頬を伝って零れるのは黄金色の力だ。臨界。全てをかけて、倒れるその一瞬に探すが、能力の反応はどこにもない。何度探してもガーネットキマイラすら、誰もいない。樹実という少年は蘇ったという。その彼が三万五〇〇〇歳らしい。自分が知っている何もかもが、ほんの一瞬の間に、遥か手の届かない過去に流れ去ったというのか。冷たい廃墟の床面が近づいて来て、無様に倒れる音が響いた。寒い。真っ暗になる。そこにいるはずの少年はもはや目に入らなかった。息遣いと鼓動以外の音もなくなる。

 虚無がある。生きているという虚無が。死んでいないという後悔が。あらゆるものに置いて行かれたという絶望が。たった一つの心臓には有り余るくらい嵩を増して、何も入っていない腹から嗚咽となって吐き出される。どうしようもない。価値あるものはほとんど全て失ったと思う。これでもまだ、生きて行けという全員は死んでしまえ。嘘だ。傷付かれるのはつらいから、殺してくれ。ああそうか、もう、いないか。自分を殺してくれる誰かと同じように、死ぬのを止める誰かは、ここには。

 立ち上がるガーネットキマイラの姿は、もはや亡霊のそれだった。乱れた髪に、泡立つ頬、身体から漏れ出る体液は赤く、白い神殿の床面を焦がしながら一歩ずつ進む。心中の相手は近くにいた。壁画に手を伸ばす。已愛たちが残してくれたものたちを熔かしながら力を使い果たせば、近い場所に逝けるだろうから。

「なぁにやってんですかそこの盗掘家! 止まりなさい!」

 あと少しで触れるといったところで、不躾な女の叫びが響く。右側、神殿の入り口からだ。二人分の着地音がしたあと、そのうちの一人分が甲高い声を響かせながら近づいてくる。

「それは始原湖写本しげんこしゃほんの原典、三万三〇〇〇年前、黎明期に滅んだという胎生人区画の謎を解き明かすための大切な壁画史料なんですよ! 気安く触れて、壊そうとしてますよね! 何様のつもりですか、離れなさい! いますぐです!」

 何様のつもりはこっちの台詞だ。突然現れて、好き勝手言いやがって。怒りのままに、皆嶌龍弥ではない彼は、声の方に向き直って睨みつけた。誰だお前は、という言葉に乗せたガーネットキマイラの威圧。視界端で怯える少年と青年に対して、その三〇代半ばほどでラテン系の美貌を光らせる女性は、一筋の冷や汗だけ流して、口を開く。

「――ローマ深天総合大学しんてんそうごうだいがく、史学科、装飾写本そうしょくしゃほん研究室長の、クローシェ・ケーニッジですけど」


 

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