神々による黄昏―2
怒る。何かに腹を立て、攻撃的になる。そんなこと無理に決まっている。だって、この金の波も含んで、全て自分のせいだからだ。どこにも責任を押し付ける当てなどない。
「……手伝ってくれ。また、何かあれば指示をくれ。先に行く」
眼下を見れば四枚の翼を生やした女性、オートノミーが中空を蹴って、爆発的な速度で輝ける津波へ駆けていく。轟音と軽い風に少し目をつぶった艦上の女性は、極めて呆れたという意味合いの言葉の群れを喉で留めて、ため息を吐きだした。
「まぁ、私も
蛇にらみの横顔。攻撃的な彼女の鋭い瞳の奥に自分と同じ哀しみを認めて、皆嶌龍弥ではない男は心臓の止まる思いがした。アメリカの海岸で見せた底知れない様子とは全く違う。彼女は触れ難い怪物だった。大多数のガーネットキマイラを取り込んだ最強の怪物だった。この数か月に何があったか知らないし、聞いても教えてくれないと思う。けれど、いまのその姿は、どうしてか自分に重なった。違うのは、怒りが、感情が、鮮明な切っ先を以て露にされていることだ。
艦隊から離れて四キロ東側に、小さな陽が昇る。オートノミー。蛾と鶴のガーネットキマイラの彼女が黄金色で二対の翼を拡げて空に君臨すると、榎木園已愛ではない女性も三〇メートルの蛇に姿を変えて後を追う。
能力の行使強度が加速度的に増す、その一息分の静寂ののちに、轟爆。重く低く、世界の鼓動が聞こえる。全てが眩すぎて、瞬きはなかった。東を向けないほどの茫漠とした輝きを湛えながら、衝撃波が一手遅れて奔る。黄金臨界ガーネットキマイラたちの全力と、迫る金の水平。相対する熱量六〇兆ジュール。立っていられない断続的な揺れが艦隊全体を襲い、大きな波が喫水線から伸び上がって手摺まで濡らす。
成層圏に昇り、左右に拡がって弧状八キロを薙ぐ拮抗。暴風に髪を乱したまま、超然の視力で無理矢理右に目を滑らせれば、太陽壁ともいえる朝焼け色の炎熱の盾が鎮座していた。全天は焼け落ち、覗いた青空すら白飛びする。深い彩度は消し飛び、ただ激烈な明暗によって染まった海。もはや神域に近い彼の立っているそこに、姿勢制御アンカーの唸りと、排水量数万トンを超える鋼の威容たちの軋みが加わる。これで艦船が熔かされず無事でいるのは、眼前にまた別に置かれた紫電の防壁、蛇になった彼女が同じく強力に行使し続けている
彼方ともいえない距離にそびえ立つ開闢の光芒のなかに、血に似た光彩が散る。世界の鼓動は近付いてくる。出力が同じでも、規模が圧倒的に違う。少しずつ押し負けている。蛾の力も、それより強力な蛇の力も、足りていない。能力の行使状態を知ることで、二人がどれだけ命がけでこの均衡を保っているか分かった。それが、あまり持たないだろうということも。
絶えず豪雨のような水を浴びる甲板の上で、彼は炎の剣を握る。心臓が痛いほど鳴っているが、まだ力は抑えつけられている。潜水母艦のメンバーは足を付けている船のなかに避難しているらしい。自分が加われば、あの壁は保てるだろうか。足りないだろうか。それとも、またこの力が照準を失って、生きている人たちを全て溶かしてしまうだろうか。目が泳ぐ。ずっと前から、自分がどうなるのかわからない。
「――はは、」
世の中は相変わらず最悪でいる。振り向けば、そこにも黄金色の波濤があった。弦に似て張り詰めた太陽壁から横合いに漏れ出した
I have heard of a land on a far-away strand,
In the Bible the story is told,
私は聞いたことがある。
聖書に叙述される、遥か彼方の土地について。
Where cares never come—never darkness or gloom,
そこでは何ごとも身を害することなく、暗闇や陰鬱さもなく、
And nothing shall ever grown old.
何ものも老いさらばえることがないという。
In that beautiful land on a far-away strand,
遥か彼方の素晴らしい土地では、
No storms with their blasts ever frown;
一吹きの嵐も起こらないといい、
The streets ,I am told, are paved with pure gold,
大通りはみな純金で舗装され、
And the sun shall never go down.
陽は決して、沈まないそうだ。
陸が生まれる。怪物たちの祈りの腕で編まれた大地が。水平を侵し、瞬くことのない命の熱を抱いて、拡がり、迫る。前も、後ろも、西も、東も、どうしようもない。何でこんなことになった。誰かが殺すか殺されるかというところに、どうしていつも自分はいなければならない。戦いたくない。争いたくない。血を見たくない。悲しい顔はもうたくさんだ。誰一人だって傷付けたくも、失いたくもないのに、どうして――どうして!!
「――ごめんね、私はあなたを助けたかったのに、こんなことになって」
漏れる熱が暴れ狂うまま何より先に艦隊を焼き潰す寸前、口が勝手に動くのを感じた。皆嶌龍弥ではない彼の脳に、鮮明な記憶が流れ込んでくる。いつか自分が奇跡館を飛び立った日の、名前も思い出せない彼女の記憶が。
「逃げろロウズ! ダザンクールという男から緊急通信があった! こいつらは討伐隊で、
背後に張られた盾の向こうからの叫びと激しい戦いの音を聞きながら、
「ぁ……っ……」
痛い。重く殴られた鳩尾から吐き気が込み上げ、折れた右足はもう動きそうにない。能力も使えない。入ってきたのは正真正銘の殺し屋で、自分たちでは戦いにならないだろうということはもう分かっていた。きっと令吾だってそうだ。聞こえる打撃音が徐々に落ち着いていき、代わりに荒い息遣いと優しい大男の決死の雄叫びが建物を揺らす。
薄れそうになる意識を無理矢理引きずって、這った。眩いばかりで底冷えのする金属が、破れた服から漏れた肌に触れる。死にたくない。その一心で進んだ。青あざが染みた腕を動かし、ボロボロの身体を前へと動かした。けれど、途中で思った。何で逃げているんだろう。血が抜けすぎていて、視界も暗い。心臓の拍動も少しずつおかしくなってくる。あぁ、たぶん自分は助からない。令吾を呼んで犠牲にしてまで、何で無意味に逃げているんだろう。本当は、ほかのみんなに警告するべきだ。犠牲になってでも、伝えるべきだ。前の怪物たちとの戦いでも、結局最後には何の役にも立たなかった。一週間以内に、最も不要な一名を殺せ。それは、どう考えても、自分なのに。
「逃げろぁああああああああああッ!」
「うぁ、……あ、ぅ……ぁ、」
遠くから血塗れで轟く意思に、泣きながらもがく。ごめんなさい。私はいつもこうだ。
「――こちら
身をよじって振り返れば、もはや争いの痕跡すらない純白の廊下が覗くだけだ。血の線が引かれる。荒い息遣いだけが響く。ロウズは、そのまま最後の力を振り絞って両腕と片足を頼りにベッドに乗った。ただ、プツンと音がして何も見えなくなる。座った体勢から、身体が動かせない。触れられない。
「起き……て、――くん、龍弥くん、逃げ……」
また襲われるかもしれない。狙われているのは、彼で間違いない。座って、天を仰ぐように、身体をのけぞらせたまま想う。涙も血も、自分をなしていたものが全て流れ去っていく感覚のなか、祈る。お願い。逃げて。この寒くて、怖くて、哀しいところから。血が抜けて、冷たくなってしまう前に。お願い、ここから出て。生きて、あなただけでも。
『大丈夫だ。俺たちは絶対に一緒にここから出るんだ。そして、薬を見つけよう』
「逃げ……ぅ……ぁ……」
青年の優しい言葉を思い出しながら、弾けるような発作があった。全身が撥ねる前に、声を出そうとした口から血が漏れ出し、すっと力が抜ける。消え入るばかりの息遣いだけが響く医務室で、湯河原ロウズはあまりに深い眠りについた。
翼を拡げ、飛び立とう。
ここにいたのでは、死んでしまうから。
身を裂く冷たさに、心まで凍りついてしまうから。
「――いい加減にしろよ」
艦隊を跨ぎ、西の黄金の波濤の前に立った青年は、そう口を開いた。冷静さはなかった。悲しみも、自己嫌悪も少ししか残っていない。頭上に光輪が生まれ、怪物染みた翼が拡がる。これも、結局は自分のせいかもしれない。けれども、燃え立つ怒りは既に身を覆っていた。身にため込んだあらゆる悲愴が、猛り轟く激怒へ。彼女の介入によって脳を流れる電磁波の向きがねじれ、想起される思い出が全て激情の火に染まる。
「いい加減にしろよテメエ! 俺が、おれが全部わざとやったとでも思ってんのか!! あァ!? こんな風に何でもかんでもぶっ壊してしてやろうって!! 誰でも彼でも苦しめて、悲しませて、傷付けて、殺してやろうって! んなわけねえだろ馬鹿野郎が!」
誰が悪い。自分を唆した青年、
荒れ狂う心拍とは対照的に、すっと力が研ぎ澄まされていく。『炎の剣を生み出し操る』。いままで死にたくない一心で振るっていた異能に、もっと別の可能性が視えてくる。一本だけではない。元よりふざけた熱量を使って生み出した三〇本の武器は、空から黄金の波濤の先に向けて墜落すると、艦隊南北の天地を粉砕する爆発的な熱量を上げて巨大な光の盾となった。東、桁外れに物量の多い日付変更線上にはオートノミーたちの太陽壁があり、残る西からは変わらず漏れ出た祈りの大地が迫る。
怒りを、集約する。握ったのはやはり一本の剣。一度もやったことがない居合の構えさえ、圧倒的な覇気に焚き上げられるまま本物らしくなっている。頭上の天輪が回り、背から伸びた炎熱の翼が海面を焦がしながら拡がる。龍の姿ではない。ただ、そこにあったのは一つの、神に似たひとの姿。
深い深い地鳴り。覇気と怒号の圧に呼ばれて、彼の足下の水面から、莫大な黒煙が吹き上がる。ブラックスモーカー。地下海底を割って引き上げられた闇色の粒子は、手元の刃物に吸い寄せられてその長さを増していく。そして甲高い音と共に刀身の色が変わる。
アメリカでの日々に、奇跡館での日々に、自分にないさらに過去のことに想いを馳せながら、黒から丹へ、丹から黄金へ。ドクンと重く響く音。彩度が重ねられるたびに、前方一八〇度を轢き殺す衝撃波が
ほかのガーネットキマイラたちの力はあとどれくらい持つだろうか。
愁眉を開け。
いつか、闇が醒め、
被造物たちが、祈る黄金の島になるとき、
その恐怖も幻へと変わるだろう。
「――うるせえ、ぶっ殺してやるッ!」
左手に貰った二つの指輪が、泥のなかから浮き出してきらめく。
そこから滲む、終焉の色。
三度目の変色、翡翠。
ただ、腕に力を込めて、想う。
この命よ、光になれ。
焦げ付く匂い。抱え込んだ温度によって全身の皮膚が泡立った刹那。神話の明度のなかで、消えたはずの彼の影が艦隊を覆うほど伸び上がって瞬く。研ぎ澄まされた摂氏一億度。刃渡り五○○メートルの居合から放たれた超高温プラズマの奔流は、迸る神の
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