虹の谷
水位の上昇とクリーチャーたちによって岩稜と化したグアム島から南西、病的な墨色の波濤が寄せて返す海。OCB
「――大丈夫ですか、
思い返すアメリカで、ガーデナーもこうやって一度いなくなった。潜水母艦上部甲板で隣に立つ
全て忘れて良いですから。あの日、泣き合う少年と大男を見つけた彼女は、部屋中に散った血だまりをものともしない胆力で歩み寄ると、疲れの覗く笑顔でそういった。あなたは、奇跡館という監禁施設から脱出してここにいるだけ。それでいいですから、と。
新奇跡館計画について、この一月でダザンクールから聞いていた。
浜松から飛び出て東北を焼き焦がしたあの大戦闘のあと、ガーネットキマイラ、オートノミーも、ほかの
ところが、クリーチャーたちの侵攻は想定よりずっと早かった。対抗できる戦力も、物資も削られていった。兵器が形をなすまで間に合うか分からないとなると、東京の司令部は悪魔の力にすがった。制御可能な戦闘用クローンモデルが造られる。正規に完成したのは三つ。
監禁施設として新世界方形原領域東京の環状防壁外に設置した区画、奇跡館において榎木園已愛モデルに全ての怪物たちを吸収させる。それが、新奇跡館計画だった。新奇跡館は、
あなた方には奇跡が与えられました。あなた方のうち、最も優れた一名だけが、報酬を得て、ここを去ることが出来ます。奇跡とは、恐らく能力ではなくて、ここまで生かしておいてやったという事実についてだ。いつかの文言を思い返せば、それは偽物の榎木園已愛が全ての能力者の力を得て脱出するという意味合いでしかなかった。
ただ、
全ての新世界方形原領域は滅亡した。共同体というべき人の集団は発見できない。謝ることのできる誰かはみんな殺してしまった。向き合い、償うべきものはもうないらしい。自分から積極的に死んだ方が辛いような生を送っても、再び命を断とうとしても、已愛たちにとっての迷惑にしかならない。そもそも、自ら望んで造った罪ではないし、自分一人だけが背負うべきものではないだろうという冷静さもいまなら持っている。あらゆる生物は生きたくていいはずだ。どれだけ醜く、浅はかでも。
結局何人を死なせることになったのか分からない。どれほどの悲しみを生んだのか知らない。目の前に見えるのは茫漠した
「――ねえ、已愛。……と、いいね」
「あ、すみません。良く聞こえませんでした! もう一回お願いします」
「あぁ、その、助けを呼んだ人たち、みんなもう死んでいると、いいね」
「……そう、です……ね」
久し振りに言葉を発してくれたことに緩みかけた目の前の女性の表情が地の底まで沈むのを、彼は不思議そうに見返した。と、同時に気付いた。自分の全身が震えている。何に。恐怖に。柔らかく淡かった罪が近付いてきて、本当の鋭利な形と鮮烈な色合いで自分を刺し貫いて殺し返すという図像に。ふざけた話だ。こんなに浅ましいことがあるか。あれだけ傷付けて、傷付きたくない。逃げたい。あぁ、そうか。自分は、最低という言葉では足りないほど、心まで凍り付いてしまったのか。
ずっと命について考えている気がする。世界や、熱や、罪や、終わりばかりが脳を占めているように思う。全てが隣に置かれている。体温で溶けて消えてしまうほど脆いあらゆることがいつでも手の触れる距離にある。やはり死にたくなった方が良いのか。生きていたい方が良いのか。前後のない暗闇のなかで、不可解と、無意味が飽和している。皆嶌龍弥とは何だろうか。自分とはどこが違うのだろうか。本当は分かっている。彼は怪物ではない。世界を破滅させてはいない。この一月、散々考えたがこうだ。自分が生きていることは、罪が消えないで存在し続けていることに等しい。そう思うことがただ不幸を生み出すだけでも、誰の益にもならなくても。辛くて、申し訳なくて、もう疲れた。
「――ッ!」
ふと隣から激しい息遣いがして、どんっと重い感覚が身体を揺らした。最初から甲板の前端に立っていたのが良くなかった。已愛の手が脇腹に触れて、強く押されたのだと気付いたときには、彼はその巨体がふらつくままに、墨色の水面へ足を踏み外した。艦の振動による偶然などではない。身を包む浮遊感のなかで見えた黒髪の女性の顔は、決死の覚悟に染まっている。
自分のことばかり考えていたから、何も気付かなかった。オートノミーがいない無防備な船を照らして、南の水平の果てから五つの陽が昇ったことに。そして、その全てが、海に黒の波濤を刻みながら、音を置き去りにする勢いでこちらに迫っていることに。
――大丈夫ですか、皆嶌さん。早めに潜航しますよ。外は危ないですから。
本来なら全て自分が先に気付けたことだ。ふざけた絶望に浸らずに指示に従っていれば間に合ったことだ。一瞬、全ての景色が止まったように思える。海に落ちる仰向けの視界の右手、甲板の横合いから激突まで三〇メートルの距離に迫った
マリアナの床面、深海一万メートルは静謐を失った。音がする。マリンスノーが降り注ぐ灰の丘を歩む人影。それは顔を上げ、金色に輝きながら、口を開く。
「ぁ……あ……ぁ……あ、あ、」
ガーネットキマイラ、アーチストは悲しくて、辛くて、耐えられなかったから、足を動かしていた。にわかに力を取り戻し、黄金臨界までして、ただ歩いていた。身体を揺らして進むごとに、肌が泡立ち、はちみつ色の泥が散る。飽和した熱量は肌を伝って、水に沁みると、怪物を中心に大きく凹み、両翼の端から駆け上がる海流が生まれる。
生きていたってもうどうしようもないのに。余計な力を振るって大切な誰かを殺すか、何もできなくて死なせるかしかしていないのに。何だ。
歩いている。ここは底で、下ることはできないから、ただ歩いている。深海の生物たちはいない。流れて消えた。二度もない気温も一〇〇〇バールを越える気圧も波に混ざって肌を撫でるだけだ。思い返せば、自分たちは初めから、翼を拡げて飛び立ってはいけなかった。少しでもほかの誰かがいるかもしれないところに辿り着くべきではなかった。何回目で学べばいいのだろうか。愚かな死にもほどがある。
そして、足を進めるうちに、見つけた。中心部から熔かされながら崩れ、への字に折れ曲がって、彼に鋼の光を返す潜水母艦の骸。海流にもまれて流されたところから、元の場所に戻ってきたらしい。変形した鉄板を剥がすと、指令室も何も分からないくらいドロドロに溶けて固まった大きな室内が青白く目に映る。
人の死体はガスで浮くらしい。無意識に顔を上げて、天井面に張り付いているかもしれない
二メートル近くある身体は小さく丸まり、宇宙に放りだされた一つの石くれにも似て深海に揺蕩う。皆嶌龍弥ではない彼は、そのままただ待っていることにした。やがて、自分を生かしているこの力が失われるときを、この誰もいない場所で。
「あーあー、
「皆嶌さん! 聞こえますか、私とファーガルは無事です! 偽物の私がすんでのところで割り込んで、」
「偽物ってなんだこの下位互換が。ともかく上がってきてください。クソやべえことになりそうで、私と
「聞こえますか、皆嶌さん! 聞こえますか!」
幻聴がする。已愛の声が二つ響く。やめてくれ。さらに小さく丸まる。この海の底に言葉なんて届くはずがない。確かに感じられる能力反応だって、きっと何かの間違いだ。疲れは底の抜ける高台ばかり作る。することもしないことも破滅に繋がるなら、何にも触れないままでいたい。何より自分は皆嶌龍弥ではない。
縮こまった背に小さく刺さる感覚がある。灼熱。いつかアメリカ西海岸の艦上で、自分を死なせなかった空色の剣が、核燃料棒のように心臓を衝く。何だ。ふと、抱き締めた絵に目が行く。この女なのか。水で曖昧にふやけたこの女が、また自分に力を振るわせようとするのか。昆虫の羽化にも似て、背から漏れ出た火は二対の黄金の翼を象っていく。だからどうした。今度こそ飛ばない。飛ばなければ済む話だ。心に決めた彼だったが、頭上から降ってきた叫びにその想いは霧消した。
――助けて、皆嶌さん。
それは偽りのない声色で、正しく
直後、灼熱が陽を落として、無明の海に昼を喚んだ。鋼の骸が泡立って溶け、ふざけた海流が莫大な圧を伴って駆け抜ける。うなりを上げて照り輝く灰色の丘の中心。全てが流れ、静謐に満ちたそこにあるのは、カブトエビの甲殻に覆われ、鶴の両翼を拡げた、怪物そのものだった。
激震に合わせて、断裂した海底から始原の黒煙が覗く。ブラックスモーカー。マントル層からメタン、鉛、銅、鉄などの硫化物を含んで吹き上がる、摂氏三〇〇度、猛毒の帯。視界を逆さのオーロラのように覆い出したこれが、有機物の組成に有利な環境を生み出し、この星に微生物や古細菌などの生命を生んだことを、彼は知らなかった。黒は最も死に近い誕生の色。そのことを、
黒煙がうねる。毒や水圧などほとんど意味を成さない。頭上に光輪を冠して顔を上げた、黄金臨界ガーネットキマイラ、アーチストは、ふざけた咆哮と共に、全てを再び吹き散らすと、直上一〇キロメートルを覆う液体の塊をおよそ一五秒と少しで貫いた。
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