虹の谷

 水位の上昇とクリーチャーたちによって岩稜と化したグアム島から南西、病的な墨色の波濤が寄せて返す海。OCB生命臨死遺伝情報粒子群せいめいりんしいでんじょうほうりゅうしぐんの帯は大きく北に流れ、空には月が視えている。彼が一旦死を辞めてから、さらに一月が経っていた。途絶え途絶えながら新世界方形原領域しんせかいほうけいげんりょういき東京とうきょう式の救難信号を拾ったのは二時間前で、奇跡館の老人アドン・ダザンクール、副艦長の青年イチハル、世界を断絶する声を持つ女性ユウ、超常的なガーネットキマイラ、オートノミーの四名が水上機と自らの翼で飛び立ったのは五分前になる。プロペラが揺らした空気も、補助フロートが描いた線も、時間に流れてその名残さえない。

「――大丈夫ですか、皆嶌みなじまさん。早めに潜航しますよ。外は危ないですから」

 思い返すアメリカで、ガーデナーもこうやって一度いなくなった。潜水母艦上部甲板で隣に立つ榎木園已愛えきぞのいあに不安そうに言葉をかけられ、自分にも表情の変化が戻ってきたことを漠然と理解した彼は、しかしまた無口に海を向いた。

 全て忘れて良いですから。あの日、泣き合う少年と大男を見つけた彼女は、部屋中に散った血だまりをものともしない胆力で歩み寄ると、疲れの覗く笑顔でそういった。あなたは、奇跡館という監禁施設から脱出してここにいるだけ。それでいいですから、と。

 新奇跡館計画について、この一月でダザンクールから聞いていた。

 浜松から飛び出て東北を焼き焦がしたあの大戦闘のあと、ガーネットキマイラ、オートノミーも、ほかの紋章権者もんしょうけんのうしゃ全員も、捕らえられはしたが、始末されもしなかった。誰もが怪物が引き起こした被害を知っていた。生半可な力では殺し切れない。そして、一瞬で殺し切れなければ、また同じ惨劇を招く。結局のところ、彼らは畏れられるべき死そのものになっていた。議論の結果、ダザンクールが発明した薬剤で記憶を奪って眠らせ、莫大な威力を誇る凍結ミサイルの完成を待つことになった。

 ところが、クリーチャーたちの侵攻は想定よりずっと早かった。対抗できる戦力も、物資も削られていった。兵器が形をなすまで間に合うか分からないとなると、東京の司令部は悪魔の力にすがった。制御可能な戦闘用クローンモデルが造られる。正規に完成したのは三つ。皆嶌龍弥みなじまりゅうやモデル、榎木園已愛えきぞのいあモデル、大幕街おおまくまちユウモデル。実際に討伐部隊が電子信号により制御できたのは榎木園已愛モデルだけだった。怪物を眠らせる薬剤はあまり持たず、捕縛から数年後、クローンが出来たころには効果を失いはじめてきた。

 監禁施設として新世界方形原領域東京の環状防壁外に設置した区画、奇跡館において榎木園已愛モデルに全ての怪物たちを吸収させる。それが、新奇跡館計画だった。新奇跡館は、紋章権能もんしょうけんのうでは破壊できず、何かのトラブルで変異が生じた場合でも、直ぐに自動修復できるようになっていた。悪魔たちを閉じ込めるための檻はその一つしか用意し得なかったから、脱出させる予定などもとよりなく、全ての情報は混乱と不和を呼ぶために用意された。

 あなた方には奇跡が与えられました。あなた方のうち、最も優れた一名だけが、報酬を得て、ここを去ることが出来ます。奇跡とは、恐らく能力ではなくて、ここまで生かしておいてやったという事実についてだ。いつかの文言を思い返せば、それは偽物の榎木園已愛が全ての能力者の力を得て脱出するという意味合いでしかなかった。

 ただ、黒蝋種こくろうしゅ丹泥種たんでいしゅの襲撃によって、新奇跡館計画は破綻した。全員が結託することを恐れた司令部は、『第一選別、最も不要な一名を殺せ』という命令を出しながら、秘密裏に討伐部隊を送り込み、中心となった皆嶌龍弥モデルの排除を試みた。しかし、侵入した兵士らは、休養室にいた湯河原ゆがわらロウズ、廊下で騒ぎを聞きつけた二条令吾にじょうれいごに阻まれ、後者を捕縛し、第一の贄として吸収させることになった。自分は力強くリーダーでいてくれた頼れる彼と、優しい心を持った彼女に、命がけで助けてもらったらしい。あぁ、それなのに。それなのに、何だこれは。

 全ての新世界方形原領域は滅亡した。共同体というべき人の集団は発見できない。謝ることのできる誰かはみんな殺してしまった。向き合い、償うべきものはもうないらしい。自分から積極的に死んだ方が辛いような生を送っても、再び命を断とうとしても、已愛たちにとっての迷惑にしかならない。そもそも、自ら望んで造った罪ではないし、自分一人だけが背負うべきものではないだろうという冷静さもいまなら持っている。あらゆる生物は生きたくていいはずだ。どれだけ醜く、浅はかでも。

 結局何人を死なせることになったのか分からない。どれほどの悲しみを生んだのか知らない。目の前に見えるのは茫漠した丹濡にぬれの海と心配そうにこちらを覗く已愛だけだ。振り返る。仰ぎ見る。視線を落とす。ゆっくりと一周回る。もう一度振り返る。半径一〇〇メートルかそこら。ガーネットキマイラの力も薄く、はっきりと視認できるその範囲だけがいまの彼の全てで、それは、かつて栄えたどんな倫理も常識も意味を成さないこの変貌した水平の確かな一部だった。けれど、だからこそ彼は、無意識に次の言葉を紡いだ。

「――ねえ、已愛。……と、いいね」

「あ、すみません。良く聞こえませんでした! もう一回お願いします」

「あぁ、その、助けを呼んだ人たち、みんなもう死んでいると、いいね」

「……そう、です……ね」

 久し振りに言葉を発してくれたことに緩みかけた目の前の女性の表情が地の底まで沈むのを、彼は不思議そうに見返した。と、同時に気付いた。自分の全身が震えている。何に。恐怖に。柔らかく淡かった罪が近付いてきて、本当の鋭利な形と鮮烈な色合いで自分を刺し貫いて殺し返すという図像に。ふざけた話だ。こんなに浅ましいことがあるか。あれだけ傷付けて、傷付きたくない。逃げたい。あぁ、そうか。自分は、最低という言葉では足りないほど、心まで凍り付いてしまったのか。

 ずっと命について考えている気がする。世界や、熱や、罪や、終わりばかりが脳を占めているように思う。全てが隣に置かれている。体温で溶けて消えてしまうほど脆いあらゆることがいつでも手の触れる距離にある。やはり死にたくなった方が良いのか。生きていたい方が良いのか。前後のない暗闇のなかで、不可解と、無意味が飽和している。皆嶌龍弥とは何だろうか。自分とはどこが違うのだろうか。本当は分かっている。彼は怪物ではない。世界を破滅させてはいない。この一月、散々考えたがこうだ。自分が生きていることは、罪が消えないで存在し続けていることに等しい。そう思うことがただ不幸を生み出すだけでも、誰の益にもならなくても。辛くて、申し訳なくて、もう疲れた。奇跡館きせきかん以前の過去は自分にはなかった。――ダザンクールがいったことには、皆嶌龍弥のクローンは、『行使されていない他人の能力を行使できる』というとても優れた力をより強化するために、心が弱くなるように造られたらしい。

「――ッ!」

 ふと隣から激しい息遣いがして、どんっと重い感覚が身体を揺らした。最初から甲板の前端に立っていたのが良くなかった。已愛の手が脇腹に触れて、強く押されたのだと気付いたときには、彼はその巨体がふらつくままに、墨色の水面へ足を踏み外した。艦の振動による偶然などではない。身を包む浮遊感のなかで見えた黒髪の女性の顔は、決死の覚悟に染まっている。

 自分のことばかり考えていたから、何も気付かなかった。オートノミーがいない無防備な船を照らして、南の水平の果てから五つの陽が昇ったことに。そして、その全てが、海に黒の波濤を刻みながら、音を置き去りにする勢いでこちらに迫っていることに。


 ――大丈夫ですか、皆嶌さん。早めに潜航しますよ。外は危ないですから。


 本来なら全て自分が先に気付けたことだ。ふざけた絶望に浸らずに指示に従っていれば間に合ったことだ。一瞬、全ての景色が止まったように思える。海に落ちる仰向けの視界の右手、甲板の横合いから激突まで三〇メートルの距離に迫ったあかとびの影。後方にはその丹泥種行空群乙型たんでいしゅぎょうくうぐんおつがたを形成する残り四匹が万物を灼きながら追随していて、つまるところ、どう考えても逃れられない死の群れが、眼前でこちらに手を伸ばしたままの榎木園已愛えきぞのいあに降り注ぐところだった。鉄の床に小柄な影が伸び上がっていく。熱波に乱された黒い髪が、正義感に満ち、優しい彼女の白い肌を撫でた。生きて下さい。最後の唇の動きは、そういっていたように思う。零下に近い水の冷たさが身を包んだ直後、何もできないまま五発分の爆音があって、生み出された衝撃波に彼はただ深い水底へ落とされた。

 

 マリアナの床面、深海一万メートルは静謐を失った。音がする。マリンスノーが降り注ぐ灰の丘を歩む人影。それは顔を上げ、金色に輝きながら、口を開く。

「ぁ……あ……ぁ……あ、あ、」

 ガーネットキマイラ、アーチストは悲しくて、辛くて、耐えられなかったから、足を動かしていた。にわかに力を取り戻し、黄金臨界までして、ただ歩いていた。身体を揺らして進むごとに、肌が泡立ち、はちみつ色の泥が散る。飽和した熱量は肌を伝って、水に沁みると、怪物を中心に大きく凹み、両翼の端から駆け上がる海流が生まれる。榎木園已愛えきぞのいあの父親は、登山家だったという。死に満ちた彼が背負うしおの弓なり。光のない底を焼き、硫黄やリンも混じって鮮やかに変色したそれは、まさに虹の谷といってよかった。

 生きていたってもうどうしようもないのに。余計な力を振るって大切な誰かを殺すか、何もできなくて死なせるかしかしていないのに。何だ。皆嶌龍弥みなじまりゅうやでもないのに、何だ。死だ。自分は、この世で最も畏れられるべき死だ。

 歩いている。ここは底で、下ることはできないから、ただ歩いている。深海の生物たちはいない。流れて消えた。二度もない気温も一〇〇〇バールを越える気圧も波に混ざって肌を撫でるだけだ。思い返せば、自分たちは初めから、翼を拡げて飛び立ってはいけなかった。少しでもほかの誰かがいるかもしれないところに辿り着くべきではなかった。何回目で学べばいいのだろうか。愚かな死にもほどがある。

 そして、足を進めるうちに、見つけた。中心部から熔かされながら崩れ、への字に折れ曲がって、彼に鋼の光を返す潜水母艦の骸。海流にもまれて流されたところから、元の場所に戻ってきたらしい。変形した鉄板を剥がすと、指令室も何も分からないくらいドロドロに溶けて固まった大きな室内が青白く目に映る。

 人の死体はガスで浮くらしい。無意識に顔を上げて、天井面に張り付いているかもしれない已愛いあとファーガルを探していると、別のものが視界に映った。それは紙に描かれた絵だった。何枚も散らばり、ぐしゃぐしゃにふやけた、勝気な表情の女性の絵。手を伸ばして掴み、抱き締める。誰だっけ。已愛、誰だっけこの人。いない。誰も。……ごめん……ごめんなさい……。

 二メートル近くある身体は小さく丸まり、宇宙に放りだされた一つの石くれにも似て深海に揺蕩う。皆嶌龍弥ではない彼は、そのままただ待っていることにした。やがて、自分を生かしているこの力が失われるときを、この誰もいない場所で。 

「あーあー、奇跡艦きせきかんから一〇キロ下の死に損ないさんへ。聞こえますか、ちゃっちゃと上がってきてください。生きているのは分かってるんですから無駄に時間を取らせるんじゃな――」

「皆嶌さん! 聞こえますか、私とファーガルは無事です! 偽物の私がすんでのところで割り込んで、」

「偽物ってなんだこの下位互換が。ともかく上がってきてください。クソやべえことになりそうで、私と蛾女がおんなじゃ押し切るのにいまひとつ足りねえんですよ」

「聞こえますか、皆嶌さん! 聞こえますか!」

 幻聴がする。已愛の声が二つ響く。やめてくれ。さらに小さく丸まる。この海の底に言葉なんて届くはずがない。確かに感じられる能力反応だって、きっと何かの間違いだ。疲れは底の抜ける高台ばかり作る。することもしないことも破滅に繋がるなら、何にも触れないままでいたい。何より自分は皆嶌龍弥ではない。

 縮こまった背に小さく刺さる感覚がある。灼熱。いつかアメリカ西海岸の艦上で、自分を死なせなかった空色の剣が、核燃料棒のように心臓を衝く。何だ。ふと、抱き締めた絵に目が行く。この女なのか。水で曖昧にふやけたこの女が、また自分に力を振るわせようとするのか。昆虫の羽化にも似て、背から漏れ出た火は二対の黄金の翼を象っていく。だからどうした。今度こそ飛ばない。飛ばなければ済む話だ。心に決めた彼だったが、頭上から降ってきた叫びにその想いは霧消した。


 ――助けて、皆嶌さん。

 

 それは偽りのない声色で、正しく奇跡館きせきかんの已愛によるもので、張り詰めていて、泣きそうで、無力で、本当はあなただけなら安全に逃げ延びられるだろうけど、頼ってしまって申し訳ないという後ろめたさをはらんでいた。

 直後、灼熱が陽を落として、無明の海に昼を喚んだ。鋼の骸が泡立って溶け、ふざけた海流が莫大な圧を伴って駆け抜ける。うなりを上げて照り輝く灰色の丘の中心。全てが流れ、静謐に満ちたそこにあるのは、カブトエビの甲殻に覆われ、鶴の両翼を拡げた、怪物そのものだった。

 激震に合わせて、断裂した海底から始原の黒煙が覗く。ブラックスモーカー。マントル層からメタン、鉛、銅、鉄などの硫化物を含んで吹き上がる、摂氏三〇〇度、猛毒の帯。視界を逆さのオーロラのように覆い出したこれが、有機物の組成に有利な環境を生み出し、この星に微生物や古細菌などの生命を生んだことを、彼は知らなかった。黒は最も死に近い誕生の色。そのことを、方倉和かたくらにぎの恋人でもなく、『あらゆるものは熱から産まれた』という著作を読んだこともない彼は、想像すらできなかったから。

 黒煙がうねる。毒や水圧などほとんど意味を成さない。頭上に光輪を冠して顔を上げた、黄金臨界ガーネットキマイラ、アーチストは、ふざけた咆哮と共に、全てを再び吹き散らすと、直上一〇キロメートルを覆う液体の塊をおよそ一五秒と少しで貫いた。

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