An Innocent Genocider

「あれ、皆嶌みなじまさん。こんな場所で会うのも、何だか久し振りな気がしますね」

 ダザンクールとの会話のあと、何となく辿り着いた潜水母艦の医務室。顔を合わせた榎木園已愛えきぞのいあは、肌着姿で椅子に座っていた。相変わらず誠実な笑顔を見せる彼女の右腕には包帯がグルグル巻きにされていて、濃く乾いた血がにじんでいる。新しい傷だ。見ていると、言葉が返ってくる。

「あぁ、これですか。大丈夫、痛くないですよ。何てったって痛み止めはいくらでも塗れますし、飲めますから」

 小柄な女性が笑って言ったことにはこうだ。東京を出てここまで、この船は様々な危機に見舞われた。何度も怪物どもに襲われ、その度に間一髪逃れてきた。

 死に染まった零下の世界。丹泥種たんでいしゅはちらほらレーダーで捕捉でき、そのほとんどは群れを成している。赤い怪物たちの攻撃から身を護るガスパックは少ない。残った消尽励起エンプティー・バースト回数は八回かそこら。それが、丹濡にぬれの海で取れる唯一の回避行動だ。この船の機関にはオートノミーの火によって燃える炉心が置かれていて、兵器には「彼女の声しか認識出来なくさせる」女性の言葉が録音されたものが据えられている。氷を武器にする類のものは、使い切って久しい。

「奇跡館でのこと、憶えています。あのファーガルという子から、アメリカでのことも聞いています。今度は私たちがきっと作戦を立ててあなたを守りますから、皆嶌さんはまだゆっくり休んでいてください」

 少し疲れの見える表情の女性を見て、彼のなかに何とも言えない黒い感覚が拡がった。自分が守られるべき価値は、絶対にないだろうという確信だけがあった。いなければ。自分さえいなければ、きっと彼女も、他の誰も、大切な何ものも、怪我をすることなく、幸せでいられただろうから。

 思い返せば、誰かに幸せにいてほしいという思いのまま、惨劇ばかり起こしてきた気がした。生きていたって仕方ないことには、もっともっと前から気付いていたはずだ。こんなに殺しておきながら、自分は自分の死を畏れ過ぎた。あぁ、いまからでも遅くない。

 

 翌日、彼は食堂の奥の倉庫にいた。

 緊急警報が今日も鳴っていて、遠いイチハルの声が全室行きの通信機から聞こえてくる。

「オートノミーは炉心を切って、ユウは音響爆雷おんきょうばくらいの準備を頼む。総員耐ショック用意。今週二回目のピンボールだ。炎上雲海えんじょううんかい方面に流されないように、姿勢アンカーの投擲と操作を開始する。みんな捕まってろよ。消尽励起エンプティー・バースト――」

 言葉から数手遅れ、船体が激しく揺れる。巡る重力。差したアンカーに引っ張られて、潜水母艦は、海底すれすれを薙ぎながら向かう方向を変えていく。

 テーブルの上や棚のなかにいくつもの小物を抱えて軋む部屋。揺れる電灯。皆嶌龍弥みなじまりゅうやではない男は、転がってきた調理用具を手に取って、その光る側面に自分の姿が映っているのを確認する。身長一九〇センチの巨体。燃えるような赤い髪と、時折泡立つ肌。泥は十分に戻ってはいないが、力を籠めれば背から白い翼の骨格が浮き出る。自分は怪物だ。世界を壊した怪物だ。クローシェを黒焦げにした怪物だ。純の兄と姉を殺した怪物だ。已愛たちに負担をかける怪物だ。死ぬべき怪物だ。――ここにナイフがある。

 振り被る。強く腹に突き立てる。泥はない。だから、刺せば刺さった。手元が少し狂ったが、何に護られることもなく、傷が付く、血が出る。死ねる。

 ふらつき、何処かの壁に腰をぶつける。腕に弾かれた棚の小物が転がり落ち、鉄の床面に賑やかな音を散らす。痛い。足をもつれさせて倒れながら、彼は数か月ぶりの笑顔と声を取り戻した。自分は害だ。世界の敵だ。ただの罪だ。殺せ。死を畏れて泥が吹き出す前に、耐えがたい悲しみが力を得る前に。ナイフを強く握る。警報音はやまない。已愛たちも、あの老人も指令室にいる。鋭利な刃を首元に突き立てる。冷たい感覚が走るが、浅い。皮膚を切り裂いて骨を小突いた武器を抜き去る。赤い粘性の血が噴き出して倉庫を濡らしていく。どんな感覚にも目を閉じろ。傷口を撫でる風の温度も、空気を求める荒い呼吸も、突然の暴挙に驚き撥ねる心臓も、自分のものと思うな。いまだけでいい。全ての危機感を失え。

 とんでもなく稚拙に思える絵にも、時折数億円の値が付くように、誰に否定されたとしても、そこに何かの価値があると信じることができるから。ああ、そうだ。けれど、警告灯に照らされたこの部屋の赤い絵には、自分の最期の被造物には、一銭の意味もないままでいてほしい。

 死を畏れるが、頭上を日輪が駆け、熱の翼が拡がることはもう当分ないだろう。手は速い。外れかけた首にナイフを刺し込んで、千切り取る。それで死ねる。と、思ったが、彼はある能力を感じ取った。行使される。「下半身の膂力を強化する」という単純故に強力な力が、真横で。

「何やってんだぁあああッ!」

 回し蹴り。首をかすめた一閃で、身長一九〇センチの巨体が握ったナイフを弾き飛ばすと、小さな影は勢いのまま彼の胸倉を掴んで強く床に押し倒した。背に走る冷たい痛みより早く、言葉が降りかかる。

「あんた何やってんだ。おい、聞いてんのか!」

 ファーガル・ムーアだ。ほとんど熱を失ったかに思えた少年が、激昂に全身を染めて、自分に叫んでいる。まだ人間のつもりなのか、次から次へ溢れるように涙が出てくるのが腹立たしかった。そして、もはや眼前の彼にさえ触れ難かった。触ったものは、全て破滅させる確信があった。だから、皆嶌龍弥ではない男は声の出ない口だけを動かした。止めないでくれ。俺が全部悪いんだ。俺が君たちをぐちゃぐちゃにしたんだ。クローシェを殺したんだ。ガーデナーとミネルヴァもどうしているか分からない。それ以外にも何人も死なせることになったんだ。俺が悪いんだ。何もかも、俺がやったんだ。あらゆる全ての積み上げられてきたものを、俺が台無しにしたんだ。俺が――。

「あんたは、悪くない」

 少年はそう言って数歩後退り、返り血を浴びた上着を揺らしながら、ポケットから二つの金属を取り出した。それは、いつかガーネットキマイラ・ガーデナーが持っていた髪留めと同じ意味合いのものだった。船内の小さな作業室で、オートノミーと共に彼が造り上げた『RM』、『RY』と彫られた指輪だ。ファーガルは立ち上がりながら、小さな金属たちを目の前の胸元に置いた。

「ガーデナーのはカノートが作ったんだ。俺は不器用だからそこまで上手くはできなかったけどさ、まぁ、初めてにしては中々のもんだろ」

 血塗れの暗い部屋に訪れた一呼吸分の静寂。安心させるように、少しだけ形を成しかけたファーガルの作り笑顔は、しかし、次の本音にゆっくりと崩壊を始める。

「なぁ、アーチスト。あんたがさ、あんたが悪かったら、俺はあんたまで憎んで生きなきゃなんねえじゃんか。何にも分かんねえことばっかりなのにさ、みんな、あんたを嫌いにならなきゃいけねえじゃんかっ!」

 小さな身体の引き攣った声を聞いて、大男は、ガーネットキマイラ、アーチストは、ふと自分の身勝手さを知った。世界はほとんど終わってしまった。数多くのものが永遠に失われてしまった。彼以外の誰も、これ以上誰かを憎みたくなかったし、亡くしたくなかった。罪が何処にあるかはいま問題ではなかった。真っ赤な部屋のなかで、喉が直っていく。泣き崩れる少年を抱き留める。リュウヤ・ミナジマ、ロウズ・ユガワラ。そう刻まれた指輪を左手に通して、誰でもない彼は言う。

「あぁ、そうだな、――俺は……俺は、悪くない」

 それがあまりに無根拠で都合の良い嘘でも、何でも。

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