An Innocent Genocider
「あれ、
ダザンクールとの会話のあと、何となく辿り着いた潜水母艦の医務室。顔を合わせた
「あぁ、これですか。大丈夫、痛くないですよ。何てったって痛み止めはいくらでも塗れますし、飲めますから」
小柄な女性が笑って言ったことにはこうだ。東京を出てここまで、この船は様々な危機に見舞われた。何度も怪物どもに襲われ、その度に間一髪逃れてきた。
死に染まった零下の世界。
「奇跡館でのこと、憶えています。あのファーガルという子から、アメリカでのことも聞いています。今度は私たちがきっと作戦を立ててあなたを守りますから、皆嶌さんはまだゆっくり休んでいてください」
少し疲れの見える表情の女性を見て、彼のなかに何とも言えない黒い感覚が拡がった。自分が守られるべき価値は、絶対にないだろうという確信だけがあった。いなければ。自分さえいなければ、きっと彼女も、他の誰も、大切な何ものも、怪我をすることなく、幸せでいられただろうから。
思い返せば、誰かに幸せにいてほしいという思いのまま、惨劇ばかり起こしてきた気がした。生きていたって仕方ないことには、もっともっと前から気付いていたはずだ。こんなに殺しておきながら、自分は自分の死を畏れ過ぎた。あぁ、いまからでも遅くない。
翌日、彼は食堂の奥の倉庫にいた。
緊急警報が今日も鳴っていて、遠いイチハルの声が全室行きの通信機から聞こえてくる。
「オートノミーは炉心を切って、ユウは
言葉から数手遅れ、船体が激しく揺れる。巡る重力。差したアンカーに引っ張られて、潜水母艦は、海底すれすれを薙ぎながら向かう方向を変えていく。
テーブルの上や棚のなかにいくつもの小物を抱えて軋む部屋。揺れる電灯。
振り被る。強く腹に突き立てる。泥はない。だから、刺せば刺さった。手元が少し狂ったが、何に護られることもなく、傷が付く、血が出る。死ねる。
ふらつき、何処かの壁に腰をぶつける。腕に弾かれた棚の小物が転がり落ち、鉄の床面に賑やかな音を散らす。痛い。足をもつれさせて倒れながら、彼は数か月ぶりの笑顔と声を取り戻した。自分は害だ。世界の敵だ。ただの罪だ。殺せ。死を畏れて泥が吹き出す前に、耐えがたい悲しみが力を得る前に。ナイフを強く握る。警報音はやまない。已愛たちも、あの老人も指令室にいる。鋭利な刃を首元に突き立てる。冷たい感覚が走るが、浅い。皮膚を切り裂いて骨を小突いた武器を抜き去る。赤い粘性の血が噴き出して倉庫を濡らしていく。どんな感覚にも目を閉じろ。傷口を撫でる風の温度も、空気を求める荒い呼吸も、突然の暴挙に驚き撥ねる心臓も、自分のものと思うな。いまだけでいい。全ての危機感を失え。
とんでもなく稚拙に思える絵にも、時折数億円の値が付くように、誰に否定されたとしても、そこに何かの価値があると信じることができるから。ああ、そうだ。けれど、警告灯に照らされたこの部屋の赤い絵には、自分の最期の被造物には、一銭の意味もないままでいてほしい。
死を畏れるが、頭上を日輪が駆け、熱の翼が拡がることはもう当分ないだろう。手は速い。外れかけた首にナイフを刺し込んで、千切り取る。それで死ねる。と、思ったが、彼はある能力を感じ取った。行使される。「下半身の膂力を強化する」という単純故に強力な力が、真横で。
「何やってんだぁあああッ!」
回し蹴り。首をかすめた一閃で、身長一九〇センチの巨体が握ったナイフを弾き飛ばすと、小さな影は勢いのまま彼の胸倉を掴んで強く床に押し倒した。背に走る冷たい痛みより早く、言葉が降りかかる。
「あんた何やってんだ。おい、聞いてんのか!」
ファーガル・ムーアだ。ほとんど熱を失ったかに思えた少年が、激昂に全身を染めて、自分に叫んでいる。まだ人間のつもりなのか、次から次へ溢れるように涙が出てくるのが腹立たしかった。そして、もはや眼前の彼にさえ触れ難かった。触ったものは、全て破滅させる確信があった。だから、皆嶌龍弥ではない男は声の出ない口だけを動かした。止めないでくれ。俺が全部悪いんだ。俺が君たちをぐちゃぐちゃにしたんだ。クローシェを殺したんだ。ガーデナーとミネルヴァもどうしているか分からない。それ以外にも何人も死なせることになったんだ。俺が悪いんだ。何もかも、俺がやったんだ。あらゆる全ての積み上げられてきたものを、俺が台無しにしたんだ。俺が――。
「あんたは、悪くない」
少年はそう言って数歩後退り、返り血を浴びた上着を揺らしながら、ポケットから二つの金属を取り出した。それは、いつかガーネットキマイラ・ガーデナーが持っていた髪留めと同じ意味合いのものだった。船内の小さな作業室で、オートノミーと共に彼が造り上げた『RM』、『RY』と彫られた指輪だ。ファーガルは立ち上がりながら、小さな金属たちを目の前の胸元に置いた。
「ガーデナーのはカノートが作ったんだ。俺は不器用だからそこまで上手くはできなかったけどさ、まぁ、初めてにしては中々のもんだろ」
血塗れの暗い部屋に訪れた一呼吸分の静寂。安心させるように、少しだけ形を成しかけたファーガルの作り笑顔は、しかし、次の本音にゆっくりと崩壊を始める。
「なぁ、アーチスト。あんたがさ、あんたが悪かったら、俺はあんたまで憎んで生きなきゃなんねえじゃんか。何にも分かんねえことばっかりなのにさ、みんな、あんたを嫌いにならなきゃいけねえじゃんかっ!」
小さな身体の引き攣った声を聞いて、大男は、ガーネットキマイラ、アーチストは、ふと自分の身勝手さを知った。世界はほとんど終わってしまった。数多くのものが永遠に失われてしまった。彼以外の誰も、これ以上誰かを憎みたくなかったし、亡くしたくなかった。罪が何処にあるかはいま問題ではなかった。真っ赤な部屋のなかで、喉が直っていく。泣き崩れる少年を抱き留める。リュウヤ・ミナジマ、ロウズ・ユガワラ。そう刻まれた指輪を左手に通して、誰でもない彼は言う。
「あぁ、そうだな、――俺は……俺は、悪くない」
それがあまりに無根拠で都合の良い嘘でも、何でも。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます