終焉ー2 方倉和ではない神の哀しみ
氷点下の寒さと、血の抜ける感覚だけがそこにあったから。
目も見えなくて、耳も聞こえなかったから。
残る身体の感覚だけを、彼女のなかに溶け込ませて。
もう自分を見失わないように、泣かなくて良いように。
「先に確保した二体は送還した。もう二体は?」
「あー、ありゃ無理だわ。ヤバい方を先に潰そうと思ったが、咄嗟に男が庇いやがった。で、女が両腕千切れたその身体を抱いてやがる。熱量が爆増中だ、猶予は一分もないぜ。どうすんだ
「全員を連れて下がれ、避難中の浜松市民と並んで北へ。……私が、ぶち抜く。
浜松市、太平洋の波音を返す砂浜の上で、傷だらけの女性は膝を折る。頭が痛い。目が良く見えない。吐き気がする。血が止まらない。撒かれた凍結ガスの温度差で能力も上手く発動しないし、無数のかすり傷と疲労から身体の感覚もあやふやだ。抱き締めた腕のなかには、膝から崩れ落ち、目から光の消えかけた青年の姿がある。彼女が撃たれるはずだったガス弾を全身に浴び、指先まで凍り付くほどの冷たさで、触れる肌。弱まる心拍、迫る死。いますぐに、埋め合わせなければいけないと思った。彼の何もかもを。彼だけが、
雪の降る曇天の下、冷え固まった湾岸。左手に見える浜名湖畔に咆哮が轟く。波打ち際を横に薙ぐ国道一号線から二キロ先の後背地に構えられた環状壁の鋼色を覆い隠すように林立する廃ビル群、その前。逃げ去る数十名の討伐部隊、そして鳴り響く
「に、ぎ……」
言葉を漏らして、抱いたままの龍弥の身体が、本当に最後の力を振り絞って前へ足を進めた。押される形で、一歩後退る。彼を見る。力いっぱい、安心させるように、微笑んでいる。だめだ。これ以上動いたらだめだ。やめてくれ。いまは何もするな。消えそうな心拍。流れ去る彼の熱。肩に雪のひとひらを積らせながら、泣きそうな顔で和は口にする。
「み――」
そのとき、全てを遮って、終わりを告げる音がした。裂ける風の音が。長く。すっと。
いま、悲劇だけが敷かれた舞台の幕が上がる。鮮明で激烈に移り変わる眼前。あぁ、していた。脳漿は脳脊髄液に血が混じって、ほんのり赤みがかった温かい色を。見分けがつかなかった、そのなかの神経と骨は。一番わかりやすいはずの形をした両の目玉は、直ぐにはじき出されてしまって視界から消えた。びしゃっと、ぐちゃぐちゃに混ざった暖かいものが頬に散る。何も分からなかった。一瞬のことだったから。彼方、横合いから飛んできたあまりに冷たく鋭い何かに貫かれて、腕のなかの
張り裂けるような金切り声。ドクンという大きな心拍音に合わせて、耳をつんざく蛾の羽音がした。背の紋章が壊疽を塗り潰して黒々と輝き、ひび割れた肌から潤す
意識を向けて、頬が引き攣る。おぞましいほどの速さで失われていく。ずっと一緒にいたはずなのに、彼のかたちも、声も、笑った顔も、思い出そうとすればするほど淡く遠ざかっていく。何で。どうして……。私は……。自分の心拍と、耐えがたい波の音だけが繰り返している。荒い息を吐きながら、ほとんど真っ白な頭で捜す。変色した長い髪を揺らしながらはっと振り返る。仰ぎ見る。視線を落とす。ゆっくりと一周回る。もう一度振り返る。最後に、腕のなかを見る。――いない。
奇声が繰り返して上がった。涙は丹い泥から金糸の鮮やかさに染まり、全身を塗りなおす。腹に溜まった悲しみは、喉に溜まって口元の火を得る。燃え盛る円環を冠した怪物は、暴れ来る衝動に任せて一度大きく飛び上がった。波打ち際に、寒天を裂く昴。全ての表皮が陽の色に煌く、体長一三メートルほどの双翼の鳥。それが後に、ガーネットキマイラの黄金臨界状態と呼ばれることも、記憶の忘却に関することも、彼女は何も知らなかった。
価値あるものは何もかもなくなったのだから、世界は滅亡したに等しかった。悟りのあと、ただ悲しみが決壊する。まとう馬鹿げた高温の圧によって同心円状のあらゆる雲海を霧消させながら、小さな太陽はその翼を大きく動かした。瞬間、全ての音と景色が青白い光に呑まれる。半径一五〇〇メートルを灰燼に帰す死の飛翔。攻撃のために飛んできた何本もの氷の槍は、もはや何の役にも立たない。絶叫。羽搏き、大地を撫でた熱プラズマの波濤は、浜名湖の水面から爆発的な蒸気を上げながら奔り迫って、東海道新幹線の架橋や林立する廃ビル群をまとめて赤く泡立て熔かし尽くすと、そのまま構えられた新世界方形原領域浜松の南方環状壁を液状化させた。海岸際に根差した街の名残は何もない。高校の廃校舎も、公園も、ゴルフ場も、車も、電柱も、道路も全て均され、小さな鉄の丘陵を備えた灰色の平野と化している。広島型原爆のそれと同じ熱量、マグニチュード六。虚無の孤独、高度三〇〇メートルで、直後炸裂した重低音と共に、眼下のあらゆるものが鳴動する。それは、まるで世界の鼓動のようだと、ぼんやりしながら彼女は思った。
吹き上がった莫大な量の水が光を浴びて異世界の虹彩をおりなす空で悶え苦しむように飛ぶ怪物は、多くの思念が自分に絡まっていくのを感じる。寄生生物を操る能力によって手に入れた六個の記憶たちが叫ぶ。鹿児島には行くな。新潟には行くな。栃木には行くな。岡山には行くな。福岡には行くな。そして、東京に戻るな。この災いを飛来させてなるものか。強い想いが鎖のように足を掴み、全く無形のまま、中空で熱の神を縛り付けて引き倒す。ここではないどこかを目指す視界がくっと引き止められ、そのまま失速し、干上がった海に叩きつけられる。果てない鈍色の大地と永遠の蒼空の狭間、明るさだけを抱いた孤独が、万物を裂いて昇り、あらゆるものを振り切って沈む。凄まじい速度で巡る
人間は狂っている、故に世界は発見に満ちている。それが和の持論であり、何度も語って聞かせた事柄だった。寄生生物を生み出し操る力だって、一度だって恐ろしいと思ったことはなかった。物心ついたころからルールは破って良いと思っていた。知らない他人がどうなろうが知ったことではなかった。教わったあらゆることは紙一枚の価値で、自分が発見したものこそが真に自己を形作るのだと信じていた。だから、ずっと一緒にいた彼以外がみんな死に絶えても、昨日と同じ今日を迎えられると思っていた。自分の力なら十分に彼を守りながら生きていけると、信じていた。
でも、いまは違う。知らなかった。人を殺すのがこんなに怖いことを。取り返しのつかない過ちが心を侵すことを。自分がおぞましい生き物だということを。そして、同時にとても小さく、弱いことを。どうして龍弥が好きだったのかもう思い出せない。超高温が生み出したサイケデリックで非現実的な光彩に呑まれるように、彼との記憶が消えていく。――が崩れて、私になる。脳はあの氷で冷やされて死んでしまっていたから、取り込んでも何も分からない。龍弥が何を考えていたか。どれくらい、深く自分のことを想ってくれていたか。一緒に、何がしたかったか。これから、どうすればいいか。出会った日。共に見付けたもの。行った場所。交わした言葉。あらゆるものが失われていくなかで、聞きなれた声色が響く。
――自分を見失わないで。瞬きの間に脳を巡る景色。大学図書館の地下。席の向かいで、プリントと電子辞書を見比べる青年の姿。音を鳴らす壁掛け時計。文章処理ソフトフェアを開いたままのパソコンと、左手で握った本。後者の題名、『
翼を拡げ、飛び立とう。
ここにいたのでは、死んでしまうから。
身を裂く冷たさに、心まで凍りついてしまうから。
・・・・・・
結局、
「だから、お前は皆嶌龍弥ではない。この事件以後、能力者の強大な力を欲した審議会が予め抽出していた遺伝子から造り上げた、彼のクローンだ。能力が強大になるように、死を畏れ、心が弱く、優しくなるように作った。詳しくは、また別の機会に話そう。お前たちが巻き込まれた新奇跡館計画のことも」
老人は、そう言って、炎上する死の雲海が鎮座する墨色の海に向き直った。
皆嶌龍弥ではない男は、その目線を追って、一人納得した。
自分には、始めから行くべき場所はなかったし、帰るべき家はなかったし、命を案じるべき友も家族もいなかった。ただ、何も持たないまま、虚無を燃やした感情で、世界を破滅させただけだ。悲しみはどこからやってくるのだろう。恐怖は、どんな形をしていただろう。分からない。もう、何も。
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