一二月の決意
夢を見る。暖かな日差し。まどろみのなか、大学の広い講義室で授業を受けている。木製の長テーブルの上に置いたノートが風に揺れ、片手で弄ぶシャープペンシルが空を切る。油断すると眠ってしまいそうだ。そう思っていると、ぎぃいと木製の扉が開く音がする。顔を出したのは一匹の鶴だった。あぁ、ダザンクールに聞いた。これは
「……ミナ……ごめんな、私が……」
目が覚めると、
「ぁ……
痛みはなかった。拘束具も、点滴もなく、ただ病衣で寝かされている。視界に淡く彼女を捉えて身体を起こした龍弥は、咄嗟に口にしたその単語の意味を考えるより先に、言葉を発せるようになっていることに気が付いた。
生きている。彼女も、自分も。血が身体を巡る感覚。穏やかな心拍。肌を刺す冷気に、目に映る、失ってはならない人の姿。ゆっくりと覚醒した脳が現実を悟った瞬間に、大きく動いてベッドに飛び込んできたのは女性の方だった。
「ミナ、あぁっ……良かった……ごめん……」
抱き締められて、温もりが伝う。ああ、間違いない和だ。そこに居て、形を保って、熱を持って、呼吸をしている。それだけで、彼の、そして彼女の感情が決壊した。涙が混ざるほどの距離。脱ぎ捨てられた靴が転がり、落下防止用の手摺が軋みを上げる。シーツを濡らしながら、掛け布団をぐしゃぐしゃに巻き込みながら、二人はどんな引力より深く引かれ、長い長い口づけをする。様々な想いに上気した頬も、激しく鳴る心拍も、押し付けた彼女の柔らかい胸も、彼の骨ばった腕も、溶け入りそうなほど抱き合う。部屋を満たした必死で甘い嬌声と湿度を一旦流し去るように、冬の吐息が開かれた窓から入り込む。寒い。いつの間にか、彼らを包んでいた服は半分脱げ、隔てるものは肌だけになっていた。理性の枷が吹き飛び、危うくお互いの存在を最も原初的な方法で確かめ合う寸前だった二人は、慌てて上着を着ながら、ふと淡白な声に気付いた。
「あの、この阿呆なところでおっぱじめるかと思ってひやひやしましたけど……」
右を向く。開かれたままの病室、個室の扉、そこに、なんかいる。たくさんいる。呆れた表情の
「ダザンクールによればもうある程度動けるはずだ。何はともあれ無事でよかったな。頼むから、今後はあまり無茶をしてくれるなよ。奇跡館は八人だ」
令吾がそういってから、集まっていた全員はそれぞれ去っていった。みんな少なからず龍弥を心配していたらしかった。特にユウとロウズは一通り恥ずかしがったあと本当に安堵した表情になって身を翻す。
東京を襲った二体の
その後のリハビリも兼ねた一週間は、かなり風向きが変わった日々になった。いやぁ、ロマンス龍弥じゃないかと市陽にはキラキラした目で煽られ、皆嶌さん女の趣味は悪いんですね、やっぱり胸ですか、はぁ胸……と已愛にはしょんぼりの混ざった呆れ顔を続けられた。ユウの朝の歌にラブソングが増えたり、ロウズが単刀直入になれそめを聞いて来たり、令吾が仏頂面で希少な赤飯を焚いたりする毎日のなかで、彼はふと外を眺めることが増えた。
東京中央病院分館、奇跡館。
その窓の向こうの街並みに、すっと雪が降っている。
冬にクリーチャーは現れない。その定説は、数年の実例を経て確からしいものになった。窓の向こうに敷かれた白を見ながら、壁際のカレンダーに目を移す。二〇二四年、一二月二日。一昨日に初雪を観測してから、
クリーチャーが現れ始めて今年で五年になり、第二次世界大戦以降の国際的枠組みが崩壊し、それぞれ主要都市が多く人口を抱えて、新世界方形原領域という防衛構造を取り始めて二年になる。いままででプラハ以西のヨーロッパと、カイロ以西のアフリカ諸都市が完全に地図から姿を消した。各国の避難民はアメリカか北欧へ移ったという。ここ一年でいえば、大西洋から回った闇色にワシントンD.C.が三度目の上陸阻止作戦を敢行したらしい。ヨーロッパにある人類の最前線基地は、いまや旧ポーランドのワルシャワであるが、極寒のスイスとリヒテンシュタインからはまだ生存報告と共に、最新鋭の解析情報が回ってきているという噂もある。ぽつぽつと黒蠟種が現れている日本でも、八代、倉敷、松山といった西部の新世界方形原領域が今年滅んでいる。
雪の降る死の季節だけが、人々を生かしてくれる。こんなどうしようもない世界にあって、しかし龍弥は別のことを考えていた。クリスマスと、そのイブと重なる
「一二月二四日、純の誕生日なんだってさ」
「そうか。それは何か用意が必要だな」
「うん……えっ?」
ある昼下がり、二人で廊下の窓ふきをしていた龍弥は、和の返事に驚いて目をやった。流れ込んだ冷気に風が揺れる。超然として、何ものにも触れられ難く振る舞う黒檀のような髪をした彼女は、彼に悔しさと諦観の表情で微笑んだあと、再び目をそらして冷えた東京を眺めた。
後で聞いた話によれば、和は別分隊で龍弥と同じ補給班を務めながら、ガスパックを無断で用いて黒蝋種を三体ほど葬り去った。そのあと、同じ補給班の榎木園已愛と二条市陽を置き去りにして飛び立ち、東京の空を横切ったところで、赤いペリカンを発見したらしい。見て分かる格の違い。丁度、龍弥がこの怪物の危険にさらされるような場所に配置されたことを、彼女はしっかりと憶えていた。だから、ほんの少し前まで持ち合わせていて、それによってクリーチャーを倒したところの、慎重さや戦略性は代わりに頭から抜けてしまっていた。発見した、とさえ言わなかった。あらゆることをかなぐり捨てて、全く迷いなく、一秒でも早く、真っ直ぐに突撃する。
自身の勝手な行為の結果として、皆嶌龍弥をたいへんな危険にさらした。彼が目覚めるまで、ベッドの横で冷静に振り返れば、やりようなどいくらでも思い付いた。後悔が浮かんでいまにも泣きそうなその横顔を、彼は正視できない。小学校からずっと、まるで独自の宇宙で生きているように好き放題をやらかす彼女のことを――掃除時間にこうして顔を出すことすら稀だった――見守ってきた龍弥だったが、いい加減二人とも逃れられない、成長するべきときが来たように思う。
肺に溜まる冷たい空気と、手に染みる雑巾の湿気。壁掛け時計が、正午の音を鳴らしたとき、龍弥はいままでため込んでいた言葉を口にした。
「和、もう一度言う。俺はお前が好きだ。だから、俺を、俺たちを頼ってほしいし、言うことを聞いて欲しい。助けようとしてくれてありがとう。大人になろう、二人で」
いままでの気軽なそれは違う、取り返しの効かない本気の言葉。生き方を改めろという請願だった。彼女の宇宙の底知れない星辰に触れる。それは、手のひらを焼く火か、指を落とす針金か、あるいは反対に砂糖菓子にも似て脆く崩れやすいものか。
もう戻れない。伸ばして震える龍弥の手を握り返したのは、とても優しく暖かい感触だった。手を握った二人の間には口ほどに物をいう事柄がたくさんあった。仲間の証の紋章が、彼の額と彼女の背に薄く浮かぶ。わずかな震え。合って少し泳いだ目線。深くざらついた呼吸音。落ち着かない能力の行使強度。龍弥は彼女の迷いを手に取るように理解していたし、出した結論についてはしっかり言葉になって伝わってきた。
「――あぁ、分かった」
新世界方形原領域、東京。その冬が晴れて春になるころにはまた討伐部隊と協力して戦い、やがて開発される凍結ミサイルに世界が覆われた数年後には、やっと正しい平穏を手に入れることができる。それまで、少しの辛抱だ。龍弥と和は向かい合い、その未来を確かなものにするように、窓枠を拭く作業に戻った。
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