冬に至る戦いー3

 あぁ、ダザンクール館長にあれほどダメだと言われたのに全く配慮する様子のない振る舞いだ。せっかく平和裏に終えたというのに、余計なことをしてくれる。ただでさえ正式に存在すら認められていない能力者の足元を怪しくする行為。どこで何をしているのか分からないが、多分自分が直接行って止めなければ面倒な状況になるだろう。事御河ことみがわ隊――奇跡館軍事顧問の隊長、事御河明菜ことみがわあきなを除く――を含めて討伐部隊に知られるわけにはいかない。

「すみません。そろそろ館長が来るころなので、ちょっと外に顔を出してきます」

 モニターを見れば赤いクジラは右のヒレが既に凍結していて、最後の抵抗を試みているところだった。戦況はもう固まっている。適当な言い訳はすんなりと通って、純やロウズに短く説明したあと、龍弥は防護服のまま指令室の三重扉を開けて環状氷結壁かんじょうひょうけつへき外周の鉄製の足場を踏みしめた。

 能力の発動地点は、ここから南に二〇〇メートルの廃ビルの最上階だった。一旦地面に降りるよりは、二階下の最外径に設置された車道の歩道から声をかけた方が早そうだ。飛び降りるように、鉄塔に似た非常階段を下る。冷気の満ちた摂氏六度の世界が再び防護服越しに喉から注がれて肺を刺す。自分の声だと分からないと、言うことを聞いてくれないかもしれない。音声ノイズを外し、立体駐車場じみた鉄筋の建物のなかを何台かの輸送車と擦れ違いながら風を切って走る。どんな言葉で𠮟りつけてやろうかと思った途端に、それは見えた。

 視界中央、何かが、目的のビルの上から弾き飛ばされて、流星のようにこの環状壁に迫っている。注視しなくても分かる。くの字に曲がった、女性にしては大きい体躯。生やしたボロボロの水色の翼に、右半分が溶けた特殊スーツと、深く火傷痕の刻まれた肌。移動する能力反応、あれは間違いなく……。

 何を言っている暇もなかった。恐怖も、常識も、全て焦りと情動に流れる。唸る足の筋肉。龍弥は、冷気ガスパックのメーターが減るのを見ながら、装備のスラスターを展開し、高さ一○メートルの車道端から斜め前方に飛び降りた。地面まで三メートルの中空で、制動は上手くいく。丁度その地点、ドスンと放物線を描いて降ってきた女性を抱きとめると、その勢いを殺すように減速しながら環状壁基底にある冷気ガス流動管制御部の最外殻扉に背中を打って停止する。骨に響く重い痛みをおいて、慌てて声をかける。

「何で、そんなことになってんだよ、おい、しっかりしろ」

「ミ……ナか……、逃げ……ろ……」

「しっかりしろ、ふざけたこと言ってる場合……か、……よ」

 半分が焼け落ちた服。そこから覗く肌に元の白磁のような輝きはもうない。爛れたままだらんと下がった腕も、血に滲んで上下する腹部も、切り傷だらけの足もおいて、まだ微弱な意志が残り、苦しみに小さな涙を湛えた枯れ葉色の両目が彼を捉えた。

 方倉和かたくらにぎが、瀕死の状態で腕のなかにあった。しかし、幼馴染の女性の痛ましい有り様をまざまざと見せつけられても、龍弥は怒りに身を震わせたり、悲しみに叫んだりはしなかった。あらゆる感情を焼くような、一つの羽音が聞こえたからだ。無言で、顔を上げる。すると、見える。環状壁の向こう、一二階建ての鉄筋の頂上。そこから降りて来た太陽が、眼前の白い欄干に足を降ろしたのが。防護服の照度補正機能が、眩さを抑えて、その姿をくっきりと現す。ほんの少し進めば、手が届く距離。幅三メートルの外付け廊下の対面。そこに、いた。体長一メートルと少し、熔岩のような熱を携えた、――赤い、ペリカンが。

 叫ぶ暇はなかった。触れるだけで全てを焦がす悪魔、丹泥種たんでいしゅが、目と鼻の先にいる。冬の冷たい風に乗って舞い散る火の粉。冷凍線の通った欄干が溶け、地面に線香花火にも似た熱の雫が落ちた瞬間。龍弥のなかで恐怖と共に何かが爆ぜた。消尽励起エンプティー・バースト動種どうしゅ一号。和を、助けなければならない。その想いで釘付けになりかけた身体を動かし、着込んだ装備に備え付けてあるガスパックの残り四割を瞬時に使い切った彼は、自身と同じ体躯の女性を抱きしめたまま、爆発的な風量のスラスター噴射で真横に五〇メートルほど吹き飛んだ。受け身の用意など出来ていない。危うく勢いのままに再び首から地面に叩きつけられるところだった視界が大きく反転する。

「ミナ……は、私が……ま……も……」

 ばっと空気を裂く音。血塗れの背からボロボロの水色の蛾の羽根を拡げた和は、龍弥に抱き上げられた姿勢のまま、羽搏きで減速しながらひび割れた環状壁沿いのアスファルトへと降り立った。

 紋章権能生体もんしょうけんのうせいたいソース、羽化不全うかふぜん大水青オオミズアオ。能力は、寄生生物を生み出して操ること。彼の知るなかで最も強いだろう腕のなかの彼女は、最後の力を使い果たして、気を失った。丹泥種に正面を切って戦いを挑んだのだろう。黒い装甲に、長い髪がかかり、焼かれて血の止まった肌が触れる。常時発動している能力も弱弱しく、いまにも途絶えそうなバイタルと同じくゆっくりと揺れている。

 片方を撃ち切ったので、スーツの背に配備されたガスパックはもう一つしかない。冷気による膂力補助機能を失ってしまえば、スーツはただの重い枷に過ぎない。厚さ三センチ超の特殊な外装は、黒蝋種や丹泥種にとってほとんど布と同じだ。視界の中央の赤いペリカンは、特に空振った攻撃をするでもなく、こちらにゆっくりと向きなおった。刺すような高温の波濤。太陽のひと睨みにも等しい丹泥種の威圧。それに当てられて、龍弥は立ち止まってしまう。

 何故。どうして、こんなことに。どうすればいい。逃げ切れるとは思えない。戦っても勝ち目はない。助けを呼んでも間に合わない。それでも、死にたくないし、何より和を死なせるわけにはいかない。ただ一つ巡る脳は、反対に身体の動きを抑え込んでいく。全ての注意が向く。観察し、対処しようと思っているはずの目が外せない。こんなに焦り、恐怖しているのに、視認以外の何もできない。考えることによってそれに支配される感覚。これが丹泥種。黒い泥の怪物よりも強いということだけでは語り切れない、たった六体で都市を滅ぼす熱の悪魔。

 摂氏六度。吐き出した息もやや白く染まる。視界の左を占める鋼色の環状壁と、その一階外廊下の欄干に足をかけたペリカン。温度によって歪み、同心円状にサイケデリックな光彩を引きながら歪な音を立てる空気。その中心の、赤い翼が反り立つ。

 あぁ、飛び立とうとしている。欄干から離れようとしている。目は合っている。突っ込んでくる。そうなれば死ぬ。焼かれて、溶けて、泡立って、足元の地面に混ざって死ぬ。淡い視野のなか、恐怖が沸騰するのが分かる。紋章権能は、死を恐れるほど強力になるが、恐れに支配されてしまえばそれを行使することはできない。

「二人とも、逃げて!」

 だから、振るわれたのは皆嶌龍弥みなじまりゅうやの能力ではなかった。世界を断絶する声が撃ち下ろされる。大幕街ユウだ。透明な叫びが頭上から聞こえたのと同時に、彼女以外の全ての音と景色が失われる。一瞬の虚無。何もかもが緩慢な景色。響きの幕が晴れた視界に彗星のような軌跡が奔る。すがめて、左。環状壁の数階層上に開いた品川管区指令室の扉。その近くの鉄格子に三人の影。ユウと、ロウズ、純だ。反動に吹き飛んだ体勢のまま自分より身長の低い女性二人に支えられた青年は、煙を吹き上げる火器、携帯型多連装砲を肩に掲げている。

 純が、初めて自らの能力を行使して攻撃を放った。そう気付いた直後に怪物のいた欄干に閃光が瞬き、ロケット砲の着弾の爆音が四回した。地鳴りと合わせて眼前に吹き上がった塵埃。奔った熱波から逃れるように慌てて後退ると、甲高い悪魔の鳴き声が響く。直後、視界を覆うのは獄炎。丹泥種を撃って空を覆った灰や瓦礫の余韻が、次の瞬間には熱で朝焼けのはちみつ色に泡立ち弾けて散る。

「……あぁ」

 その景色に圧倒されて声が漏れる。晴天にあらゆる影を引く光芒。おぞましく明るい噴火の中から産まれるようにして、赤いペリカンは中空に身を躍らせた。当然ながら何かしら打撃を与えられている様子はない。摂氏五〇〇度以上を抱いて飛ぶ怪物は、水平方向に大気を焼いて回ると、大きく翼を拡げて高度を取る。

 何処かへ逃げ去るというわけではないのはすぐに分かった。遥か天空を衝いたペリカンは、流れるように急降下の態勢に入る。何処に降ってくるのか、考えている暇はない。和を護るように小さく伏せた身体の後ろで、陽が落ちる。反り立つ二〇メートルの環状防壁、品川管区指令室に。

消尽励起エンプティー・バースト防種ぼうしゅ二ば――がぁっ!?」

 白の波濤。視界全ての陰影が再び光に干上がったとき、龍弥は大通りを隔てた廃ビル一階の壁面に叩きつけられていた。衝撃を吸収したスーツが砕けて割れ、複数の欠片が皮膚にねじ込まれる感覚。彼は装備を脱ぎ去って立ち上がると、血がにじむ頬を拭って、眼前を注視する。消尽励起エンプティー・バースト起動には数秒のラグがあった。その間に吹き飛んできた瓦礫片から自分が身体を張って庇った和は、卵殻にも似た白い防護膜のなかで荒い息をしている。爆音で目を覚ましたのか、血塗れの手足をさらす彼女は、仰向けに倒れたまま、乱れた黒い長髪を道路に広げて枯れ葉色の目を滑らせた。

「み……」

 傷だらけの唇が動き、その虚ろな表情が悲痛に歪む。和が見据えた自分がどんな姿をしているのか、龍弥には分かっていた。痛みはなくただ全身が鈍く重い。視界の半分は赤色だ。内臓からずっと体液の漏れている感覚がある。何より寒い。

 大丈夫だ。彼女を安心させるために笑いかけようとして、喉からごぼっと血が漏れた。強く足を踏ん張り、上半身を反るようにしてどうにか倒れることはなかったが、上振れた視線に酷い光景が映る。

 大きく陥没した眼前の環状壁。上層に位置する新宿管区指令室の三重扉は熔け落ちており、その向こうに、怪我を負いながら這うように動き回る複数の人影がある。設計上あらゆる怪物の攻撃に耐えられるように造られた東京の円環の盾は、あともう二撃でも貰えば完全に崩れ去りそうだった。早まる心拍と共に、数える。合計五人。事御河隊の二人と三人。直撃の寸前に指令室内に逃げ込めたらしく、純たちは少なくとも五体満足で歩ける状態にあるらしい。

 頭上から未だに木霊する死の鳥の声。指令室を狙っているらしく、彼らの逃げ場は今度こそない。一度目の着弾の衝撃で喉を痛めたのか、大幕街ユウの能力反応が薄い。あの声は、今度ばかりは頼れそうにない。

 何が出来る。彼らを、和を、これ以上傷付けさせないためには、少なくとも死なせないためには、自分はどうしたらいい。血が足りない。考えがまとまらない。寒い。視界が歪む。気付けば右足が動かない。一歩進む。足元に、アスファルトのひび割れが――。

 握って地面に突き立てたのは、鋭く眩い炎だった。行使されていない他人の能力を借りることができる。体勢を崩す直前に咄嗟に杖代わりにしたロウズの輝く剣。その熱と明かりが、ほぼ満身創痍の彼の脳に決死の覚悟を燃え立たせた。和まで二五メートルと少し、指令室までは更に離れている。そうだ。どうやったって、もう、これしかない。

 赤黒い紋章が頬に拡がる。摂氏六度の大気を裂いて、震える身体で火炎の剣を振り上げる。赤いペリカンが気付いて旋回の速度を速めたのと同時に、頬に冷たい感覚。流れる透明の涙。魂が死への恐れに燃え立つのが分かった。正面には変わらず大きく凹んだ環状壁と、割れて無数の段差をなしたアスファルトの大通り。背後に控えた旧神奈川の廃ビル群の向こうから、ノイズに混じって討伐部隊の足音が聞こえる。まだ遠い。間に合わない。時間が必要だ。みんなが助かるには、彼らが到着するまでの時間が。これしか思いつかない。たとえ死ぬと分かっていても、次の急降下の一撃を、自分が引き付けることしか。

 絶望の羽音は様子見を止め、紅蓮の閃光となって中空を横に焼いた後、ふわっと高度を取って体勢を整える。手首から血を吸い取るようにして、握った剣の色がすっと変わっていく。何ももう考えられなかったけど、いま、何もかもを賭して良いと思った。叫び声の代わりに拡がったのは、地鳴りと荒れ狂う空気の波。吐瀉物と混ざって漏れる息。降って頬を、肩を、身体を焦がす火の粉と共に、手に持つ剣から神々しい明かりが散る。新世界方形原領域しんせかいほうけいげんりょういき東京とうきょう、その端に蒼い冬の日が立つ。灯火の半分ほどながらも、刃先を伸ばして三〇メートル。それは、背後の建物群を淡く揺らし、自らの影を塗り潰す光。赤から更に高温、至天の空色をした熱の柱だった。

「や……だ……」

 声がする。激震と共にぶれる熱波の世界の下の方、見れば目が合った。少し先の道路。あと一分は持つ半球型の防壁の中から、仰向けのまま必死にこちらに手を伸ばす和。能力を行使するには至っていない。思考を向けるまでもなく、お互いに泣いていた。小さいころに出会ってから、きっと一番泣いていた。丹泥種の声がする。空が瞬いて大きな旋回が見える。急降下まであと一○秒と少し。想起される走馬灯たちのなかに、涙だけが降り積もっていく。近寄りがたい威圧も、超然的な余裕も失って、ただ傷付き苦しむ幼い子どものような悲痛さで叫ぶ和。どうして、彼女を悲しませなければならないのか。笑顔で、幸せでいさせられないのか。もうどんな言葉も交わせない。こんなことになるなら、もっと、遠慮なく、分かりやすく、繰り返して飽きるくらい、好きだと伝えればよかった。

 絶望ばかりが色を得てぎらつく。しかし、それがなければ、和の命を助けるには全く足りない。紋章権能は、死を恐れるほど強力になる。顔面に拡がった紋章と、いま振り上げた剣に宿った爆光は、この底抜けの悲劇を吸って、はじめて成り立つものだから。

 直線距離にして三〇〇メートルほどだろうか。ぐちゃぐちゃに濡れた頬のまま潤んだ瞳で見上げれば、正面、半壊した環状壁の遥か上空に位置する死が翼を畳んで身体を沈め、あらゆるものを置き去りにする速度で迫りくるのが分かった。怖い。寒い。嫌だ。自分が何をしたっていうんだ。ふざけている。最低だ。何で。ありえない。いまごろは帰って、普通に二条兄弟と司厨員さんが朝にまとめて作っていた初出撃記念の豪華な昼食を食べていたはずだ。一緒に走り回った純の頑張りを伝え、ロウズやユウの取ってくれたメモを参考にしながら、今後のことについて話し合っていたはずだ。決してこんなことなんか願ってはいない。それでも。それでも――自分が、護らなければ。


 ただ、腕を振り上げたまま、想う。

 この命よ、光になれ。


 いま、神を降ろすほどの陽を灯せ。ぐちゃぐちゃになって崩れ落ちそうな心のかたちを、吐ききった腹の底の決意だけで支えろ。高さ三〇〇メートル。握った柄からさらに延長し、低く下がった雪雲を紫電と共に貫いた熱の光芒。もはや、蒸気を巻いて白飛びした大地に龍弥の姿を示すのはただ一つ。人間であり、仲間の印、顔面に濃く張った赤黒い紋章だ。誰かを想うこの熱は、丹泥種ごときには負けない。本当に戦えば勝負にならないとしても、怪物はいま、彼以外の全ての命を見失った。静止。結果から言えば、丹い泥の怪物が降ってきて自らを消し飛ばすまでの五秒間、龍弥は敵の軌道をずらさないまま、そこに立っていることができた。

消尽励起エンプティ―・バースト攻種こうしゅ一番、鐘楼崩し」

 だから、寸分狂わずに捉えた。品川管区指令室の一階下、到着寸前で減速中の環状線列車の窓から撃ち放たれ、駅舎をすり抜けて飛んできた氷の横槍が、燃えるペリカンの背を。バランスを崩された死が自分の右をすり抜けて、ふざけた速度で後方の廃ビル群を薙ぎ払って爆音を上げる。

涼馬りょうま。非戦闘員たちを先に壁内に下げるね。別部隊何人か借りるよ」

「――分かった。こちら、竹平隊第一班長だ! 通信班以外で、避難班と攻撃班を形成する。前者は恵梨香えりかの招集に応じてくれ。後者はオレと共に丹泥種たんでいしゅを討つ。紅宮べにみやたち、いるな! 標的は旧徳持公園とくもちこうえん方面に弾き飛ばした。遠慮はいらん、ブチ殺れ!」

 赤いクジラを討伐していた東側の部隊が緊急帰還して攻撃を加えたのだということに思い至るほど、龍弥に体力は残されていなかった。剣が霧消し、膝を突き、倒れる。複数の足音と、指揮の声、そして、戦いの怒号が流れるように続いていく。荒い呼吸と共にさらに血を吐き、和の無事だけを確認した彼の視界は、直ぐに真っ黒に染まった。

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