冬に至る戦いー1

 二〇二四年も秋を迎えるころ、奇跡館一階の戦略研究室。紋章権能者もんしょうけんのうしゃたちと老人が全員揃ったそこでは、ホワイトボードを挟んで二人の女性が口論を繰り広げていた。

「だぁあ――ッツ! あなたはどうしてそう個人の力業で押し通そうとするんですか。能力の使用はまだ禁止って言われたじゃないですか。討伐部隊二番手の竹平隊たけひらたいの補助なんですから、装備や地理情報、支援の動線の確認をですね……」

「この臆病者の兄弟が信用なるか。怪物なんぞ私が直接殺した方がはやい。だいたい奴らの弱点と対策を見つけたのは私がはじめだ。何が二条開発局にじょうかいはつきょくだ。特許があれば私がとっているところだ。凍結ミサイルの開発も――」

 方倉和かたくらにぎ榎木園已愛えきぞのいあの相性はほとんど最悪といって良かった。前者がいつもどおりあらゆる方面に喧嘩を売りながら振る舞うのに、後者が噛みつく。鋭い目をした背の高い女性は誰に対してもそんな様子だったが、もう一方の理知的な瞳と暖かい心を持つ少女が声を荒げるのは相手が限られていた。

 皆嶌龍弥みなじまりゅうや二条令吾にじょうれいごと共に二人の間に割って入り、半分引きはがすようになだめながら思い返す。世界を覆う黒い怪物の爆心はヨーロッパだった。武装開発を専門とし、現在欧州最西端の新世界方形原領域しんせかいほうけいげんりょういきワルシャワで研究活動をしている二条兄弟の母、二条藍架にじょうあいかと、南日本が誇る二番手の討伐隊を率いる竹平純の兄と姉、竹平涼馬たけひらりょうま及び竹平恵梨香たけひらえりか。この三人しか、奇跡館の面々の目立った生き残りはいなかった。自分のせいでもないのに、たいへんな罪を打ち明けるように初日にそれを口にした老人の姿は、いまでも龍弥のなかに残っている。

 奇跡館には館長を含めて合計五人の職員が駐在している。それは兼務の医師や研究者を除いた、司厨員と、事務員と、用務員、そして討伐部隊の軍事顧問だ。全員ダザンクールより一回り若い壮年で、辣腕といってよく、平均を取って大学生ほどの年齢層になる龍弥たちの生活をしっかりと支えていた。彼らが怪物によって同じような目に遭ったことは和が気紛れに事務室から盗み出してきた資料で明らかになり、自分たちに接するその態度は、どこか失った子どもたちに与え損ねた愛に等しく感じられた。

 明日は彼らがこの安全な奇跡館を出て、戦場に立つ。任務のために遅れて到着した軍事顧問がもう一〇回目くらいになる女性二名の怒鳴り合いの最中に扉を開けたとき、立ち聞きしていた残りの三人も連れ立ってなかに入った。会議は残念ながらさらにしっちゃかめっちゃかになり、已愛と令吾と軍事顧問が結論を出し、龍弥がどうにかこうにか和に納得させるまで終わらなかった。

 

・・・・・・


 死んだ街は、荒い空気を孕むものだ。環状凍結壁かんじょうとうけつへき品川管区門しながわかんくもん。その向こうの旧神奈川。しばしばうごめき、倒れたビル影から煙を上げる巨大な黒い生物の影は、黒蝋種こくろうしゅだ。ヨーロッパでほとんど全土を覆っているらしい怪物は、ここ日本ではまだ疎らにしか見えない。――それだけで、ほとんどの二〇一九年以前の秩序と法は潰滅したに等しいが。

 着込んだ特殊スーツは、一つ当たり二時間使用できるガスパックを用いて強力な冷気を発している。全身薄い鉄板の黒ずくめ。ほんの少しずつ減っていくメータを右横に配置した外部カメラによって外部状況を確認しながら、皆嶌龍弥みなじまりゅうや竹平純たけひらじゅん大幕街おおまくまちユウ、湯河原ゆがわらロウズの四人は、二条令吾にじょうれいご隊長からの指示を聞いていた。

「足立管区班から、品川管区班に告ぐ。黒蝋種こくろうしゅの数は事前の予想と変化ない。ブリーフィング通り、鶴チームは、竹平隊たけひらたいの補充支援任務、狼チームは指令室で事御河ことみがわ隊と合流後、移動通信任務に当たれ――全員の無事を祈る」

 言葉が切れるのと同時に、天地を乱す鳴動があった。ドカンと突き上げるような揺れのあとに、空気を裂いて遠方に咲く大燃焼。モニターで確認すれば、東京の周囲に五つの火炎柱が立ち上っている。この熱源――灯火という――に集まる習性を持つ黒蠟種を一掃するというのが、週に一度ある討伐隊の定期任務だった。怪物には冷気を持った武装が最も効果が高い。作戦の本部隊が蝟集いしゅうした大量のそれを周囲から蜂の巣にし、分隊が集め漏らしを討つ。補充支援任務とは、分隊に、ハードカバー本ほどの大きさの冷気ガスパックを供給し、また空になったそれを回収することだ。

 皆嶌龍弥と竹平純の二人からなる鶴チームは、車輪付きの旅行カバンにも似たガスパックケースを引き吊りながら、崩れかけた多摩川の河川敷を走っていた。右手側、武蔵小杉駅から噴き出し、爆光で倒壊したビル群を曝し上げてうねる火炎柱を横目に足を進める。スーツによる筋力補助と数か月の基礎訓練のお陰で、どうにか先を往く二人組についていけている。龍弥が意外だったのは、隣の純だ。

 討伐部隊は定期任務において一灯火グループごとに四部隊三種類の役割に分かれる。灯火を設置し、掃射を行うメインの二部隊。集め漏らしの遊撃を行う一部隊。本部や他灯火グループと連絡を取り、緊急時や怪我人に対応する一部隊だ。気弱で体力のない彼は、湯河原ロウズや大幕街ユウと一緒に、環状線列車かんじょうせんれっしゃで通信を担う事御河隊の補助に回ると思ったが、この最も面倒で危険な移動の多い仕事を選んだ。


「兄さんと、姉さんのことを、これ以上馬鹿にされるわけにはいかないから」

 前日の夜、奇跡館の休憩室で、気弱な彼は精一杯の勇気とともにそう言った。どうも、方倉和かたくらにぎが口に出した言葉を相当ショックに思っていたらしかった。紋章権能を持つ生存者は、まだ身分が固まるまで大っぴらに世間に公表されてはいない。自分たちは死んだことになっているし、いま怪物染みた力を持っている。特に純は、現実的に考えて最も恐ろしい力の一つを。ダザンクールはあまり口にしないが、奇跡館計画とは、復活した彼らが安全であることを認めさせ、社会でいままで通り生きて行けるようにするという側面も兼ねているのだと、つまらない善性をみるような眼で方倉和はいつか推理した。

「僕は怖いよ。全てのものが怖い。昔からそうだった。痛いのも辛いのも嫌だし、こんな状況にもまだ慣れてない。何で火器なんて危ないものを操る力が自分に与えられたのか分からないし、僕なんかが助かるくらいだったら、みんなの家族が生きていた方がずっと良かったのにと思う」

 ――けれどね。と、純は目を見開いた。それは怯え症の彼の心が元来持つ冷静さと思慮深さが現れていた。

「僕はもう譲りたくないんだ。何も」

 

 地鳴りを伴って聞こえ始めた掃射音に思考を戻すと、黒い仮面越しにキラキラした多摩川の水面が見える。対岸に映るのは、形成されつつある氷の塔だ。噴煙を上げる火柱に集まった巨大な怪物たちを、囲んだ一三の銃口が根元から凍結弾で滅多撃ちにする。

 圧倒的な攻撃に目を引かれていると、更に卑近で激動があった。眼下の河川敷に、くるっと回転する銀の剣先。体高七メートルの黒い大蜘蛛の全ての脚を冷気を発する刃で両断した大柄の男性が、恐るべき速度で巨体の横に冷製ガスパック爆弾を放り投げた。凍てついた多摩川。爆音とともに、そこに一つのオブジェが追加される。全身を氷で包めば、黒蝋種は墨にも似て水に溶けて死ぬ。

「――あぁ!? 隊長たちもう七もやってんのかクソッ!!」

 一戦を終えて、竹平隊第二班の班長、紅宮誠司べにみやせいじは、事御河ことみがわ隊からの報告を得て、追い付いてきた龍弥たち二人を見つめた。竹平隊は四名の精鋭からなり、竹平涼馬たけひらりょうま竹平恵梨香たけひらえりかの第一班にほとんど補給の必要はない。限りなく洗練された動きで、必要最低限の冷凍パックを用いて次々と黒い怪物を屠っていくからだ。負けていられない、という強い意志が誠司せいじのマスク越しから彼らに伝わってくる。

 爆音が響く。龍弥が見上げると、廃墟となった雑多ビルの側面に翼長八メートルの蛾が張り付いている。あの夜の恐ろしさを思い出して龍弥たちが動きを止めた直後、こちらに飛び掛かって来ようとした怪物の脚が凍ってビルにはりついた。

「三体目だなァ、おい!!!」

 横に控えた第二班のもう一人の銃撃で動きが止まった怪物に走る大男。彼はスーツの脚に設置された冷気スラスターで地面を蹴って、およそ三階部分で動きを止めた蛾の高さまで飛び上がると、思いっ切り両腕を振り上げる。瞬間、黒い装備の背に格納されたうちの一つのガスパックのメーターがゼロになる。大男の天を掴む手には、瞬く間に形成された長さ三メートルの極寒の槍が握られていた。温度差で空気が捻じ曲がり、圧倒的な風圧が、壊れてしまった街並みの細やかな瓦礫たちを吹き飛ばしていく。

消尽励起エンプティ―・バースト攻種こうしゅ一番、鐘楼崩し」

 冬の陽に煌く長大な氷槍がビルを衝く。一つのガスパックを瞬時に使い果たし、攻防様々の手段において最大の効用を得る。これは、消尽励起エンプティー・バーストという、討伐部隊の切り札的な手段だと聞いている。誠司の着地に少し遅れて、鉄を裂く爆音。サッカーゴールほどの大きさの羽虫が穿たれて張り付けになったビルが、蜘蛛の巣状に割れて倒壊する。激震のあとに高らかと響くのはガス切れのアラームだ。

「派手にやりすぎっすよ。東京のガス全部一人で使い切る気ですか」

「やかましいぞ。この辺の建物は残ってるとクソ共の足場になったり灯火が届かなかったりして面倒くせえんだよ」

 銃を武器にした青年が、班長の誠司に文句をぶつける。二人で、三体。これだって十分な成果だ。普通は同じ数を班分けしていない隊全員が倍以上の時間をかけて狩るのだというし、集め漏らしの掃討をこれほどまでに徹底的にやっているのは数少ない。ほかは灯火の凍結が終わるまで、数体潰せればいいくらいの隊がほとんどだ。

 遠く銃撃の音を聞きながら、破壊された東京の街を駆ける。蝟集しなかった巨大な魚や、虫や、鳥を、縦横無尽の機動力で斬って斬って斬り捨てる。そうして、あと一パックを残して一〇個の箱の中身をからっけつにしたとき、仕事も終わりの時間になっていた。

「計一二体ですか。先週と同じなんで、まあまあなんじゃないっすか。隊長たちはまだ粘ってるみたいっすけど……冷気ガスもすっからかんじゃないし」

「うるせぇ! テメエももうちったぁ支援の勉強しろ」

 環状氷結壁に向かって走りながら言い合う二人。ボイスチェンジャーを用いてしか彼ら正規部隊と通話することを許されていないが、それでも龍弥はその賑やかなやり取りをみるだけで十分だった。隣で、荒い息を吐きながらもしっかりとついてくる純を確認する。今日、彼は自分と同じく、どんな黒い蝋の怪物たちに逃げ出さず、補給任務を全うした。奇跡館に戻ったらみんなに伝えて、彼の勇敢さを讃えよう。和だって考え方を変えて発言を訂正するかもしれない。どんなことがあっても俺が護ってやるからな、なんて、トイレに引き籠って黒蝋種に怯えていた数か月前の純にかけた言葉が、もはや滑稽にすら思える。

 そのときだった。龍弥の耳に、いや、その場の誰しもの耳に、情報連絡を司る事御河隊から緊急連絡が入ったのは。


 西船橋駅にしふなばしえき灯火に、丹泥種たんでいしゅが現れました。

 指定以外の任務を終えた部隊は、現場に向かって下さい。


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