始まりの夜
人間は狂っている、故に世界は発見に満ちている。それがドグラ・マグラに毒されたわけでもない彼女の持論で、
「人間は狂っている。植物の性器に意味なんてあてがって、語り、写真に納める。どう思うミナ? たった五度レポートを提出しなかっただけの私が、特別ここまで咎められる必要はないのではないか」
「ごちゃごちゃ言ってないでさっさと終わらせろよ」
「外国文献は一つでいいって話だったが」
「エゴだよ。はじめてまともにやるのだから、多少は発見のあるものにしなくてはね」
電灯の揺れる机の上に置かれたのは、厚さ五〇センチほどにもなる洋書論文のコピーの群れだ。海外の大学のリポジトリから取ってきたものが八割、この大学に置いてある論集を印刷したものが二割。発表テーマは、西欧の遺伝子工学の展望について。手伝えと差し出された英文を電子辞書でどうにか解読する龍弥に対して、和は右手で絶え間なくページを捲りながら、空いた左手でパソコンに文字を打ち込んでいる。読んでいるのは、『自己同一性について』という書籍で、この分野では基底研究の一つに当たる本だった。
空気を震わせる時計の針。紙の捲れる音と二人の吐息が、書架の合間を縫って地下室を満たす。講義の入ってない午後一時からぶっ通し五時間ちょっと。龍弥がまだ一本目の論文を一五ページほど読み、何度目かの休憩のために顔を上げたところで、薄暗い図書館の地下室に声が響いた。
「発見した」
それは、いつも和が何か特別なものを目にしたときに発する喜びの声音だった。小学生のときに新種の蛇を見つけたときも、中学生のときに新しいコンピュータ言語を生みだしたときも、高校生のときに特許品の溶けにくいチョコレートを作ったときも、隣で龍弥はその言葉を聞いていた。
今度はどんな発見をしたのだろうか。声の方へ歩みを進める彼は、行きついた。十進分類法の九九〇。九類文学のなかで、その他の文学の棚。腰をかがめたカーディガンの彼女の手の先には、古ぼけた一冊のメモ帳があった。
Abbiamo tutti paura di morire,
表紙に外国語で文字が書きなぐられたそれに、彼はこの世のものとは思えないおぞましい迫力を感じた。彼女が開いて内容を確認すると、多くの白紙のなか、見開き二ページに渡って詩と文言が刻まれている。狂気すら帯びたその筆致に危機感を覚えて数歩後退る龍弥に、和は内容を伝える。
いつか、闇が醒め、
被造物たちが、祈る黄金の島になるとき、
その恐怖も幻へと変わるだろう。
空調を通しても刺さる一一月の冷たい風。心拍が高まる。漠然とした恐怖が沸く。これは文章だ。何かとてつもなく悪い予感を想起させる文章だ。急に視界が歪み、空気が重くなる。これは何だと龍弥が尋ねると、分からないと素直に彼女は返した。特定しようにも、メモ帳には短い文字列しか記されていなかったからだ。身体を傾け、腰を鳴らして椅子についた和は、龍弥が目をまだ机の上に持ち帰ったその一冊に向けているのを見て小さく笑った。訳し伝えていない部分がある。思い出した彼女は、表紙の一文をゆっくりと読み上げる。
我らみな死を畏れ、
黒と、
ドクンと心臓が跳ねた。図書館の空気が大きく変わる。和と見合う。彼女も思うことがあるのか、にっと口端を上げて、挑発的に表情を送ってくる。この発表が片付いたら詳しく調べてもいいかもしれない。そういう意図を視線の交差によってかわしたあと、彼の四回分の心拍の時間おいて、それは起こった。
音がする。図書室が揺れる。テーブルの上に置いてあった書籍やコピー用紙の群れが散り、文房具と電子辞書が木の机を滑る。近くから聞こえる。尋常の様子ではない。地鳴りのなかに混ざり、鉄が破断する音が床を伝って耳に入る。地震だ。それも、とても大きな。
「和、来い!」
「うわ、急に大胆じゃないかお前!」
突然の事態に興味深く周囲を見回そうとする彼女の手を取って走る。いままでもいつもそうだった。方倉和ははじめてのことに俯瞰的過ぎた。はじめて発見した蛇に噛まれ、高熱を出したとき、隣にいた龍弥が咄嗟に助けられなかったことをどれほど後悔したか彼女は知らない。
隣で床に落ちたパソコンが壊れる音が聞こえるが、気にしてはいられない。小学校の一件以来、身体を覆う危機感に対して、龍弥は人一倍敏感だった。白い手を握ったまま、非常階段へ飛び込む。一瞬で思い出した大学の地図に従い、下る。地下三階は稀覯本の書架だった。踊り場に飛び降りて、白い扉を目にする。B3特殊閉架書架。この階は図書館でもっとも堅牢な場所だ。書物の運搬のため、別の建物に抜けたり、地上に出たりできるように設計された地下通路もある。非常階段から少し出て、進入禁止エリアまでの間の四畳半の廊下、緊急避難エリアに足を踏み入れた彼は、さらに大きくなる地鳴りのなか、扉が開く音を聞いた。見ると、もっと先、図書館職員専用のカードキーを持った和が、自分を開かれた暗い鉄の閉架書架のなかへ引っ張っている。
「お前その鍵パクって」
「重要じゃないだろう、いまそのことは! いこう!」
咄嗟に平常の心が戻って抗議しかける龍弥だが、いまは緊急時だ。何故かややほわほわした顔の和に導かれるまま、鉄のレールを跨ぎ、狭い稀覯本室に入る。そして、その瞬間、揺れが止み、すっと一瞬の風を切る音がする。違ったと、龍弥は本能的に気付いた。断続していたのは、地震ではなかった。倒壊音だった。だから、瞬く間に降ってきた。大学の略図では小道を挟んで隣にそびえるそれが。根元から圧し折れた、八階建ての、理学部棟が。
この世で最も恐ろしい音が、万物を裂いて、あらゆるものを揺らしながら響く。振り下ろされた五〇〇〇トンの鋼。地上二階建ての図書館が激震と共に潰され、同じ瓦礫へと変わった。ただ、永遠に続くかと思われた破砕の最後に、どぷっという着地音が加わったのを龍弥は聞き逃さなかった。
「ツッ……」
いまこの瞬間に咄嗟に動かなければ一生後悔すると思った。けれど、ポケットのスマートフォンを取り出して辺りを見回すべきではなかった。深く塵の舞う暗闇。周囲を照らすと、ひしゃげた書架が目に映る。見上げれば、天井には大穴が空いている。その下に、いる。
足元に散らばった美しい装帳や決して踏んではいけない高価な冊子本も、握った女性の手の暖かさも、噎せ返りそうな灰の混ざった空気も、遠い世界の現象のように淡く色を失った。くっきりとした黒が眼前にあったからだ。黒い蝋に塗れた、バランスボールほどの大きさの、生々しく脈動する球体が。
「発見した」
そういった和の目が、好奇心の焦点を得る。そのことで、龍弥は正気を取り戻した。黒い球体。異形からの圧が全身を捉える。次の瞬間に突っ込んでくると本能で理解した彼は、和の手を取ったまま思いっ切り横に飛んだ。直後、爆音。黒い球体はピンボールのような速度で突っ込んできて、彼らが少し前まで背にしていた閉架書架をドロドロに曳き潰した。
破砕音と共に黒い球体の直上の天井面が崩落する。瓦礫に押しつぶされたかに思ったが、直ぐに泡立つ音がした。どんな力だろうか、降ってきた数トンの鉄塊を溶かし尽くして、球は当たり前のようにそこにある。良く見ると、それは次第に球の形ではなくなってくる。棘のようなものが黒く丸い表皮につき立っていく。球から飛び出した棘がもぞもぞと動く様を見て、彼はふと生物学研究室に資料を取りに行ったときのことを思い出した。似ている。動き方も、身体の質感も、水槽のなかにあった、バフンウニの姿に、よく似ている。
地震に備えて作られた閉架書架の地下通路は、先ほどの突進で黒い怪物の背後で煙を上げている。荒い息遣いと共に確認すれば、非常口と通常の階段は瓦礫でぐちゃぐちゃになっていてとても利用できない。どうする。どうすればいい。混乱に止まりかけの脳を巡らせる龍弥の隣で、物音がした。音楽。和が着信にしているクラシックだと気付いた彼を横目に、超常性を発揮した女性は握りしめた旋律を左手方向に投げた。同時にポケットからライターを取り出し、足元に転がった稀覯本に火を付けて右手方向に放る。スプリンクラーは故障していて、煌々とした火が燃える。
一秒の沈黙と共に、異形が動く。コールタールのような液を流すそれは、暗闇で音楽を鳴らすスマートフォンでもなく、正面でカメラのライトを構える龍弥たちでもなく、火のついた本を追って、壁面に大穴を空けた。
「光でも音でもなく、熱か」
和がそう呟くと、二人での逃亡が始まった。怪物は一体ではなかった。
雨のなかを進む。浮き彫りにされた二人の熱が走る。理学部キャンパスの建物は、ほとんど崩壊していた。創成科学研究科塔も、学務室も、購買も、多目的棟も、実験施設も、全部だ。そしてそれら全ての場所に、別の黒い怪物がいて、反対に生存者の姿はなかった。黒い泥に泡立てられた死体は幾つも目にした。警察や消防にかけた電話も通じない。鼓動とプッシュ音だけが現実を教える世界で、彼らが辿り着いたのは、創成科学研究科の一階にあった、非常電源で稼働中の冷蔵コンテナの一つだった。扉が壊れて開かれたままになっていることもあって、マイナス三度。霜の付く冷たい部屋のなかに入れば、周囲を囲む怪物たちは追ってこない。
「なぁ、憶えてる。俺たちが、――」
突然大学に化け物が現れて、逃げ出して、ここにいる。警察も助けに来ないし、ほかの生存者は見つからない。周りからは、未だにうなるような音が聞こえて止まない。そんなふざけた現実離れした現実を想う前に、龍弥は別のことを口にした。こんなに冷たい所へ閉じ込められたのは、いつか雪山で遭難したとき以来だ。
「憶えているさ。ミナがいてくれなかったら大変だった」
それから、二人はたくさんのことを思い出し、語った。そうでなければ、雨音と黒い怪物の呻き声だけが響くここで、恐怖に凍てついてしまいそうだった。ただ寒い。身体が動かなくなってくる。逃げる際に和の背と龍弥の頬に付着した黒が、徐々に沁み込んで皮膚表面を蝕む感覚がある。
数百の死の雨の夜。ここでまだ生きていられるのは、怪物たちが熱によって相手を認識し、氷を弱点とすることを数分で見抜いた和のおかげといって良かったが、そこまでが限界だった。繋がらない電話を置いて、二人は助けを待ちながら、倒れるように眠り込んだ。
――余は『奇跡館』館長のアドン・ダザンクールというものだ。死の危機から甦ったお前たち八人は、これから討伐部隊と協力して訓練を積んでもらうことになる――まぁ、まずは自己紹介にしよう。席の近い、
流暢な日本語だった。病院の広いラウンジで、黒々としたマントを羽織ったフランス人はそう言ったが、その言葉の意味を直ぐに理解できたのは、名前を呼ばれた女性くらいだった。明るい風が吹き抜け、ちらほら他の客も見える食堂。皆嶌龍弥とほかの六人は、意識を取り戻したあとの眩暈のような感覚に囚われて、自分が生きているのか死んでいるのか分かっていなかった。次に調子を取り戻したのは
病室で目を覚ました龍弥は、同じく生きていた方倉和に手を引かれるまま、ここまでやってきたのだった。各人の自己紹介に続いて老人が話すことには、いまは二〇二四年であり、冷凍保存されていた自分たちは何かしらの科学的治療によって特殊な力を得て覚醒したのだという。五年眠っていたのに、リハビリもなしに立って歩けるのはそういった理屈だとダザンクールは説明したが、和を除いた誰しもがそれをしっかりと理解するまでには数日かかった。
――
奇跡館での毎日は、訓練の日々というには自由だった。各人の病室での起床は午前六時。それから朝食の後に、現代戦術講義、昼食をはさんで紋章権能についての訓練があり、午後四時にはお開きだ。消灯は午後一〇時のため、そこからは毎日の検査を含めた自由時間となる。
あの怪物は世界を覆っていて、いまは新世界方形原領域という街域の居住システムが国家の代行となっているらしい。当初は日本に八〇あった原領域は、年々数を増す怪物たちの波に呑まれて三二になった。世界の最後の希望、凍結ミサイル計画。それが完遂されるまでの数年間討伐部隊と協力して、手に入れた能力で怪物たちを倒す。死から戻った龍弥たちに課せられた使命は、あくまで時限性のものだった。
正体不明の黒は日に日に勢いを増している。二〇二四年は秋を迎えていて、そろそろ訓練が本格的に実践を伴ったものを増す段階となったある日、老人、ダザンクールはこう口にした。
「来月、冬入りの前、お前たちは討伐部隊の補佐として現場に出ることになる。任務は補給通信支援だ。直接戦うわけではないにしても、
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