東京中央病院分館 奇跡館

 おはようございます。二〇二四年、八月六日、午前六時になりました。

 放送係の大幕街おおまくまちが、奇跡館きせきかん起床時間をお知らせします。

 それでは聞いて下さい、今日の目覚めの曲は、Greensleevesです。


 いつもの歌が聞こえる。小高い丘にそびえた、東京中央病院分館、通称『奇跡館きせきかん』。その第一病室で目を覚ました青年、皆嶌龍弥みなじまりゅうやは、伸びをしながら日の差す窓へ歩く。

 霜の張ったガラス越し、眼下に広がるのは対融解低温素材と無数の冷気管によってコーティングされた鋼の建物群、彼方に横一面の鉄板となってそびえるのは、それらを護るように設置された高さ六○メートルの環状氷結壁かんじょうひょうけつへきだ。討伐軍本部から黒蝋種警戒用のヘリコプターが飛び立つ下で、学舎や仕事に向かう厚着の人影たちが賑やかに通りを埋めている。氷点下に灯る街並み。人口一二〇万、中央環状線の内側に改めて構築された都、新世界方形原領域しんせかいほうけいげんりょういき東京とうきょうが、朝を迎える。

「こら、お前、絶対に似合うから待ちたまえ!」

「ヘアースプレーも何個かあるから、好きなのを選んで!」

「うわぁあああああああ! 嫌だぁああああああっ!」

 着替えて、布団を畳み、読みかけの本を棚に戻す。一〇分ほどで起床準備を終えた瞬間に、情緒もへったくれもない声が彼の耳に響いた。白い廊下を揺らす激しい足音。さっと病室を出れば、泣きそうな顔でこちらに爆走してくる竹平純たけひらじゅんの後ろを、フリフリの付いたワンピースを掲げた方倉和かたくらにぎと、五個くらいのスプレー缶を腕に抱えた二条市陽にじょういちはるが追いかけているのが見えた。さらに、もう少し奥には早足で歩いてくる大幕街おおまくまちユウの姿がある。彼女の手にはいつもの小さなメガホンが握られているが、口を開く気配はない。

 また賑やかなのが始まった。そう思って一人と三人の間に盾になるように龍弥が割って入ると、純は特に大柄でもない彼の背中に隠れ、抗議の眼差しで追っ手たちを睨みつけた。細く頼りない印象の青年は、白い腕にすっと紋章を走らせ、小さなハンドガンを握って、銃口を上に向ける。

「そ、それ以上近付くと撃つぞ!」

「何だ、ゴスロリとかの方が良いか。服飾は未経験だがやってやれないことはあるまい」

「オレ、カラコンも用意した方がいい感じ?」

「うわぁん全然止まってくれないじゃん! やっぱり助けて龍弥くん!」

 きらめく凶器を無視してさっと近付く男女。ゆっくり歩いてきた大幕街ユウだけが、一瞬歩幅を緩めるにとどまった。威嚇射撃とはいえ、純が銃なんて撃てるわけがないということは、誰しもが――恐らく本人も――分かっていた。もし撃ってしまったら、反動で何処かへ飛んで行ってしまいそうな華奢さだし、何より人に武器を向けるという行為が彼には出来ないだろうと思われた。『発現する能力を誤った大賞』として市陽や和にセレモニーを開かれかけ、怒りの已愛の殴り込みによって一騒動に発展しかけたことだってある。だからこそ、もう紋章権能を得て五ケ月になるのに、その真価を一度も発揮することなく、こうやっていつも追いかけ回されている。

 馬鹿はやめろとだけいって移動しよう。足を進める龍弥だったが、その前にもう一方の廊下の階段口から二人分の女性の足音と、大きな声が飛んでくる。

「また何やってんですか、このてんてけヴィジュアル三銃士! いじめるのはやめなさいって言ってるでしょ!」

「はぁ……はぁ……もう、朝会議に遅れるから急いでよね」

 ビーっと高音。首に下げたホイッスルを吹いてこちらをいさめる声を上げるのは、小柄な少女、榎木園已愛えきぞのいあだ。その隣で息も絶え絶えの湯河原ゆがわらロウズが、トイレのスリッパを履いたまま会議室への手招きをしている。ヴィジュアル三銃士、そう呼ばれたなかで、降参だと諸手を上げた市陽と、何故か歩いていただけで悪役に巻き込まれたことに混乱するユウを置いて、方倉和は榎木園已愛の前に立った。

 ピリッとした緊張の直後、紋章が開く。バックオープンキャミソール。豊満な胸を支えながら大きく空いた服から漏れる白磁の背中に、浮き上がった漆黒。已愛に伸ばされた彼女の両腕の皮膚が大きくうねり、歪みが肩まで流れて二対の線虫の翼が生える。方倉和かたくらにぎ、紋章権能生体ソース、羽化不全の大水青。寄生種を支配する強大な能力が、小さな少女の前に揺れるが、已愛いあは全く譲った様子がない。

「ずいぶんと強気だな、蛇。内から食い潰されたい?」

「やだなぁ、あなたの能力、私にはこれっぽっちも効きませんけれども」

 紋章権能生体ソース、窒息死した日計ひばかり。自身より小さいものに害されない能力者が、彼女より少しだけ背が高く、だいぶスタイルがいい女性に一歩も引かず向き合う。性格的にも能力的にも相性の悪い、体格差が反対になった蛇と蛾の睨み合い。一触即発の空気さえあるそれは、軽い音と共に終わりを迎えた。

「いった、何するんだミナ、いきなり酷いじゃないか」

「うわ、私まで邪険にすることないじゃないですか皆嶌さん」

 開く紋章に、コンと一撃。震える純の手を左手で握って進み、道を塞ぐ二人の女子を生み出した盾で軽く払って退かせる。

「喧嘩両成敗だ。と言いたいところだが、和の方が一手悪いな」

 さらに右手を振るって握る火炎の剣。くるっと持ち替えて柄で小突こうとした彼だったが、女性は優雅な素振りで飛びのいた。躱されるのは予想通りだ。次。握ったのはボルトアクションライフル。銃器の扱いなら、三ケ月前から訓練をしている。まともに当てられる自信はないが、吹っ飛ばされることもない。奇跡館で未だに引き金が引けないのは、ユウと、純くらいだ。

 能力上弾が入ってしまっているが、撃つつもりはない。銃口を握ってグリップでコツンともう一撃喰らわせようとするが、途端に凶器を持った腕が動いた。痛みも、彼の意志も無視されている。腕の肉が膨れ上がり、筋肉が神経の信号と関係なく動く。すっと裂けた二の腕から、線虫が覗く。身体の内部に発生した寄生虫により肉体が操られていると龍弥が気付いたときには、その銃口は壁際に立って黒い髪を揺らす和の胸元に向いていた。彼女は狂気的な笑顔で言う。勝手に動く、引き金にかけた指が。

「そう日和るなよ、ミナ」

 銃声。完全に彼女の心臓を貫く位置で撃ち放たれた弾丸は、しかし正反対の壁に弾けた。接触した相手との位置を入れ替える。手をつないだ純と自分の位置を反転させた龍弥は、両手を放して、振り向きながら言葉を発した。

「無茶するなよ、ニギ」

 それは、感覚を奪う音韻。彼の声以外にあらゆるものが途絶えた世界。その三秒後、青年の姿は炎の剣で小突こうとした位置から数十歩先にいて、自由に動く左手を片倉和の喉にかけていた。

 その能力において、皆嶌龍弥は最強に近かった。半透明の盾、炎の剣と火器の顕現、接触者との入れ替わり、そして、五感を奪う声。立て続けに五つの能力を借りて行使した彼は、寄生種の女王の目と鼻の先に立っていた。触れれば混ざり合いそうな距離。人間離れして美しいその容姿も、彼は見慣れていたし、何よりそれが彼女の本質でないことを分かっていた。二○年。気が付いたときには隣にいた彼女のことを彼は知っていて、その逆も然りだった。腕から這い上がる、脳まで食い潰すようにせり上がった虫の感覚も、紋章権能を得たことでますます美を極めたその瞳の覇気に穿たれることも、この日々で慣れ切っていた。

 首を持つ龍弥の左手に力が籠らないのと同じように、寄生された右腕が余りの血肉を吹き散らしながら元の太さに戻っていき、結合部まで塞がり、制御を取り戻す。当たり前のように元のかたちに戻る。

「良く寝なかったのかミナ、少し隈が残っているぞ」

「『あらゆるものは熱から産まれた』。読んだ本が面白過ぎたんだ。ニギも、地学に興味を向けた方が良い。まぁ、一瞬で俺が追い抜かれそうだからちょっと嫌なんだけど」

「んなぁああああ! 朝っぱらからいちゃいちゃしやがらないでください!」

 およそ一〇秒間、様々な能力を行使した二人の攻防に呆然としたほかの数名をおいて、とんでもない胆力でこの男女の間に割り込んだのは榎木園已愛だった。彼女はぷりぷり怒って、涙目で腰を抜かした竹平純の手を取ると、震えるままの青年を半ば引きずるように階段口に向かって歩き出した。


 奇跡館計画 第三フェーズ進行中


 小柄な少女に続いて辿り着いた部屋。でかでかと垂れ幕が下がった天井の高い会議室では、椅子に囲まれた長テーブルを隔てて、二人の男が談笑していた。ガッチリとした体格をした青年と、杖を携えた威厳ある西洋の老人。二条令吾にじょうれいごとアドン・ダザンクール。こちらを見て、座ったまま柔和な笑顔を浮かべた老人に、已愛が今朝の出来事を陳情申し上げに行く。

「聞いて下さいよ、館長! 皆嶌さんと片倉さんがまた能力で物騒なことをですね」

 それを聞いて一つ深いため息をついたダザンクールは、丁寧な日本語でこの施設の実質的な問題児二人を呼びつける。

「紋章とは何であるのか、お前たちには話したはずなんだがね」

「黒蝋種――、あの怪物に襲われた箇所にOCB生命臨死遺伝情報粒子群せいめいりんしいでんじょうほうりゅうしぐんを打ち込んだ際に出来た、痣のことだろう。お前がそれをしたおかげで、私たちは異能力を得て、仮死状態から復活し、いまここにある」

「和。肝心なことは、どうしてその痣をこの形にしたのかだ。それは、紋章とは、」

 紋章とは、甲冑の発達した中世西欧に依拠し、『どんな鎧の上からでも識別できる味方の証明』として用いられたものだからだ。代わりにそう龍弥が答えると、老人は静かに頷いて席に座った。だからこそ、紋章権能は、仲間を傷付けたり、暴れたりするために振るう力ではない。そう何度も教わったはずだったが、服装も振る舞いも自由極まりない女性は全く聞く耳を持っていなかった。

 揺らめく白磁のおでこを小突いた龍弥が、ごめんなさいと頭を下げると、それに隣の女性はしぶしぶ従う。奇跡館最大の問題児のストッパーも兼ねる彼が場を落ち着かせて少し経って、ダザンクールは朝礼を始めた。会議室に集う、八人の男女と一人の老人。海や森などかつての美しかった日本の風景を壁紙に眺めながら、龍弥が思い出すのははじめてここに来たときの記憶だ。

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