皆嶌龍弥ではないひとの罪
身体に響く衝撃と共に目が覚める。揺らめく視界に映るのは、狭い鋼色の床。そして、電灯の輝く天井と、鉄の壁面。身体に触れる薄い布団の感覚から、とても大柄の彼は、自分がベッドから転がり落ちたことを理解した。
立ち上がる気力はいつも通りなかった。スクリューの振動を感じながら、士官室という扉のプレートと、横に立てかけられた絵を目に入れる。無題。白い画用紙に塗られた女性。ここにきて、何枚か描いたうちの一つだ。どうして筆を取ったのか。それは分からなかった。とんでもなく稚拙に思える絵にも、時折数億円の値が付くように、誰に否定されたとしても、そこに何かの価値があると信じることができるから。全身を覆う莫大な倦怠感のなかで、その言葉だけが何度も脳に響いたという以外は。
顔を上げて、煤けた鉄板と向き合う。冷たい明かりが身を包む。何があったか、全て憶えている。無尽蔵の憎しみも、何もかもへの絶望も、幾重にもかさなった後悔と諦観も、絶え間ない寂しさと恐怖もいまはない。息を吐く。虚無。いつだって消えてしまいたいのに、何処へやりようもない喪失が、逃れられない身体に溶け込んで輪郭を得る。生きているということは、死ぬということのはずなのに。眩いばかりで底冷えのする空気のなかで、自分の心拍だけがやけに確かに感じられるのが嫌だった。鼓動と、スクリュー音が煩わしく響く。立ち止まっていたい。振り向いて、来た道を戻りたい。しかし、自分の命と、それを乗せたこの潜水母艦は絶え間なく前へと進んでいく。一昨日も、昨日も、今日も、きっと明日も同じだ。いつか死ぬまで、少しずつ灰色が積もる。知っていた。世界にはつらいことしかない。自分はきっと、泣くために生まれてきた。
水上機からこの艦船に降り立った一か月前、
ガーネットキマイラを炉心として回るタービンによって日本を離れた船は、二週間かけて太平洋を渡り、クリーチャーの熱で溶けて海溝と化したパナマ運河を通過して、北アメリカに辿り着いた。世界の果ての死の噴火が起こったのはメキシコ湾、ニュー・オリンズ沖に滞在していたときだ。
「あの子は、まだあそこですか」
「あぁ、あとでオレがご飯を持って行ってくるから」
朝の館内放送があり、辿り着いた狭い科員食堂。椅子に腰をかけ、已愛と青年の話を聞きながら、大男はぼんやりと思い出す。金髪の少年、ファーガル・ムーアは無事で、自分より先に回収されていたらしい。生きていてくれることが何よりの救いだと思う反面、重くざらついた苦しさが全身を侵していくのを感じる。
彼は、何日か前にその少年と顔を合わせていた。薄暗い発令所と科員食堂の間に置かれた小さな菜園。黄ばんだ明かりのなか、腰を丸めた影が映る。冷たい沈黙。少年は、ただ見ていた。もう二度と動くことのない座布団状の機械を抱き、光を宿さない瞳で、プラスチックの容器に育ったジャガイモの葉を見ていた。大きな気配に気づいて、顔を上げ、また植物に目を落とす。トループ薬草園。ファーガルがミネルヴァやクローシェと共に育て始めた双葉。それらを全て台無しにして、一人の少女の命さえ奪ったのは誰だったか。暗い含みを九歳の少年の瞳は持っていなかったものの、彼は言葉を発することも、それ以上近付くこともできなかった。申し訳なさによるものか、疲れによるものか、諦めによるものか。ずっとそうだ。凛々しく超然的な容姿の大男の前には、死を
狭い棚の下に置かれた食材にそこまでの量はない。補給がなければ持ってあと
いつか人肉を喰った口に、朝食となる温かいスープが注がれていく。横には、タナドーパなどの心機能補助剤も置かれている。飲まなきゃいけない薬を、ここに来てから、ずっと飲んでないんだ。そういったのは誰だったか。吐き出すことがなかった代わりに、彼は何の味も感じなかった。ただ呆然と積み上がる暖かさを腹に覚えるだけで、心配そうに自分をのぞき込む青年と已愛の二人に何を返すこともかなわなかった。朝も、昼も、夜も。ごめんなさい、と。それだけを繰り返し想っているのに、ずっと誰にも伝わらないままだ。罪に等しい罰だろうか。置き去りにされていく。全てに、独りで。
「
「持って二週間ですかね。それまでに色々と決めないと……。
已愛と青年の話に、遅れてやってきた声だけで五感を奪う女性が筆談で加わる。居場所はない。科員食堂の三人から離れ、大柄の彼は亡霊のように歩き出す。辿り着いたのは、発令所の奥にある用務室。置かれた椅子に座り、白い紙に色を塗っていく。拾われて三〇日、いつもこうしている。士官室と、食堂と、この用務室の往復。空っぽな身体を抱えて、それだけで一日を済ますことを繰り返している。繰り返して、名前の分からない女性の絵をずっと描いている。いや、本当は名前なら教えてもらった。水上機でこの潜水母艦に戻った夜、描いた絵。それを見て、已愛は「
海を往く潜水母艦。そのなかで、筆を取り、色を塗っていく。今日で画用紙は最後の一枚になっていた。女性の輪郭を描き、彩度を足す。いままで
「話したいことがある」
隣から声がした。中肉中背、古びたマントを羽織り、細い樫の杖を持ち、灰色の髪を揺らす六○代の男。アドン・ダザンクール。フランス人にしてはとても流暢な日本語を話す老人は、ほとんど自律システムによって駆動しているこの潜水母艦の艦長で、乗っている最後、七人目の人間だった。
「酸素交換のために水上に出る。ついてきたまえ」
彼が従ったのは、船が動きを止めてからやっと一五分後だった。ふらつく身体。重い腰を上げ、一九〇センチを超える巨体を揺らしながら、ゆっくりと歩いてハッチまで向かう。老人の着込みはじめた分厚い防護服は、男には必要ない。いま、誰も彼を必要としないように、本当は艦内に張り巡らされた空気浄化設備も、浄水システムも、何も。
甲板。パナマ運河を再び渡った先の大平洋の中心、小さな鋼の平野から見上げる空の彼方には、とんでもないものが浮かんでいた。地上三〇〇〇メートル、横凪ぎ三〇〇〇キロメートル。果てのない水平に鎮座し、煌々とした青白い光を湛えて炎上する焦熱の雲海。降り落ちる塵は、青かったはずの海面を既に
ソウルは内乱と飢餓によって崩壊した。北京と上海は粒子群の直撃を受けて熔け落ちた。バンコクとジャカルタは
あの偽物の已愛がどうしているかは分からないが、人類はほとんど滅亡したといってよかった。それは疑いなく、自分と純のあの戦いのせいだった。あらゆる幸せは焼き上げられ、希望は炭になった。黒々と変色した広大な水平。小さな涙を零しながら彼はゆっくり右を向いて、左を向いた。目を見開いて首を振る。何かを探しながら、同時に違うと否定する動き。しかし、どちらも青年には分かってしまった。この船以外に命はない。誰しもを殺したのは自分だ。
呆然と涙が伝う頬を、突然けたたましい警告音が叩く。ゆっくりと顔を上げる。神経を研ぎ澄ませば、彼方に、命かどうか分からないものの気配がある。三つ。ああ、いつかの悍ましさだ。あの燃える雲海から、致命的な速度で迫ってくる。
「粒子群方面一八キロメートルの海上から
艦内通信が言い切られるより先に、背後のハッチが弾けるように開き、神にも似た眩い熱が飛び出した。眼下に墨色の海を臨む高度三〇〇メートル。鋼の小さな平野の中空で、蒼く羽化する巨大な蛾。超高温を纏った二対の翼は、天を
「――オートノミーさん、迎撃をお願いします」
彼女が五○○メートル前方の黒い凪に足を付けた瞬間、水面にもう一つの翼が拡がる。寄生種を生み出し、従える。超然的な女性の足元から津波にも似て伸長したつる植物のうねりが、あっという間に濡れた墨色を埋め、彼と老人を絡めとって艦に縛り付けた。迎え撃つ。天を
少しの静寂ののち、その激突があった。注視する視界の果てが瞬き、赤い光芒が迸る。明滅。信じられない振動と共に、爆発的な光彩がうねり、墨色の水、数十トンがまとめて蒸発する。一八キロを三〇秒。艦に向けて音の二倍の速度で襲来したシャチを、枯れ葉色の瞳が回し蹴りで海面に叩き込んだ。泥を失ってさえ、丹泥種に及びそうなほど力強かった彼女だからか、力の差は歴然だった。噎せ返る圧力の渦に咳きこみ、巻き付いた蔓に身体を支えられながら注視すれば、怪物が身を翻して残る二体の仲間の元へ戻っていくのが分かった。
急場はどうにか免れたらしい。一つ人間らしい安堵を得た彼は、しかし、振り向いたオートノミーが右手で握っているものに心臓の止まる思いがした。いまだ落ち着きを取り戻さない墨色の
「やはり、話すべきときか」
植物が解かれても唖然としたままの大男の横で、低い声が響く。彼はその声色に、この艦にきて初めて老人に問われたことを思い出した。
――お前は、
知らなかった。知るわけがなかった。恋人なんていなかったからだ。あれから三〇日。老人は、
「ここのイチハルくんや、オオマクマチくんと同じように、お前もまた、皆嶌龍弥ではない」
なぜなら、オートノミーは、
方倉和が皆嶌龍弥を取り込んだガーネットキマイラだからだ。
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