第三章 後編 黄金の島のひと

第一回脱出

 I have heard of a land on a far-away strand,

 In the Bible the story is told,

 Where cares never come—never darkness or gloom,

 And nothing shall ever grow old.



 一二月の曇天だけが、無音の平穏を冠していた。冷たい風に髪を揺らし、非常口の階段を駆け下りる。白い息を吐きながら中庭に出ると、遠くから自分たちを探す怒号が聞こえてくる。皆嶌龍弥みなじまりゅうや方倉和かたくらにぎは、榎木園已愛えきぞのいあ湯河原ゆがわらロウズを連れて、施設から逃げ出した。奇跡館きせきかんはもはや安全ではない。館長の緊急通信の数分後に討伐部隊の襲撃が始まり、三階建ての白亜からはまだ多くの人間の争う音と散発的な銃声が聞こえる。

 自分より小さいものに害されない。その能力のために食料品が山ほど詰め込まれたコロ付きの旅行カバンを両手で掴み、さらに衣類バッグを背に抱えても平然とした已愛と、何も持たないのに肩で呼吸をしながら必死の表情でついてくるロウズ。対照的な二人の女性の息遣いを耳に、同じく荷物を背に抱え込んだ龍弥は、複雑な建物の隙間を抜ける。なだらかな遊歩道を下って本館関係者用の第八駐車場へ到着すると、降り出した雨が頬を濡らす。

 電灯の近くに停めてあったワゴン車のトランクいっぱいにものを詰め込み、已愛とロウズは一○人乗りのそれの後部席に座った。周囲に人の気配はない。隣の開いた車両止めに片足を置いて警戒に当たる龍弥を、ハンドルを握ったにぎが窓から見下ろす。

「ミナ、寒くないか」

「そこまでじゃない。クソみたいな夜だけどな」

 皆嶌龍弥をミナと呼んだ彼女は、長い髪をかき上げ、英知に満ちた枯れ葉色の瞳を滑らせる。超然的な神秘性さえはらんだ白い腕でレバーをリバースに嵌めると、そのまま駐車スペースに頭から突っ込んでいた車体がゆっくりとバックし、予めバーの上がった自動精算機に顔を向けて止まる。

 傘なんか持ってきている余裕はなかった。女性三人が乗って再び停止したワゴン車を横目に、龍弥は次第に強くなる水を浴びながら、警戒を強める。本来ならもう北門から脱出した令吾れいごたちが追ってくるはずだ。べたりと張り付いた服から伝う一二月の雨の寒気に加えて、緊張が身を覆う。見上げて、遠い丘に生えた三階建ての施設からは、未だ激しい怒号が聞こえている。


 こちら討伐隊、緊急掃討作戦を実施しています。

 住民のみなさまは、地下シェルターか手近な屋内へ避難してください。


 討伐軍本部から住民へ緊急避難信号が発せられたあと、ひゅんっと空気を裂く音と、一手遅れた激震があった。離れた施設西区画に煌々とした轟炎が渦巻いている。軍所有の環状防壁から反転して撃ち放たれた対地ミサイル弾が、分館の連絡橋を粉微塵に爆砕したらしい。彼が何を言う間もなく、二撃目が奔る。続く着弾によって破壊されたのは、正面玄関の横にある第一駐車場だった。吹き飛んだ軽自動車が奇跡館二階食堂の窓に突き刺さり、オイルを巻き散らして燃えている。

 三、四、と近付いて施設を穿つ遠距離砲撃の嵐のなかで、小さな足音が響くのを彼は聞き漏らさなかった。左を向く。数分前に通った遊歩道、そこには、涙を流して走りくる竹平純たけひらじゅんと、マシンガンを持って彼を追う黒い装甲の部隊員の姿があった。

「こ、こちら笠松かさまつ隊、捕獲対象を発見、場所は――ぐぁッ!?」

 龍弥たちを見て声を上げかけた男の腕がぐるんとあらぬ方向にしなり、彼の後方、純に銃口を向けて立ち止まったもう一人の隊員に、握ったマシンガンの弾丸をまとめて叩きこんだ。走り出した龍弥が目を向ければ、視界端の硝子の向こう、運転席に腰かけた和の背中に赤黒い紋章が大きく浮かんでいるのが分かる。濡れたシャツの肩越しにだ。部位による装甲の厚さの違いを、彼女が知らないわけがなかった。寄生生物を生み出し操る能力。一瞬身体の自由を奪われて仲間を半殺しにした部隊員が口を開こうとしたときには、龍弥は息を切らせて走り込んだ純の手を掴んで、ワゴン車に飛び込んでいた。直後、叫び声や発砲音が追い付く前に駐車場に設置してある外部スピーカーから言葉が響く。

「こんばんは、大幕街おおまくまちユウです。奇跡館、夜の最後の放送を行います。きっと、また会いましょう。今夜の曲は、Con te partiròです」

 放送器具を通しているため効力が落ちている。視覚も聴覚も全てを失うほどではないが、地の利を持たない追手は一気に狭まった視野に倒れ伏した。彼女の声しか知覚できなくなる。そんなユウの能力がここで振るわれたということは、先に北門から脱出した二条令吾たちにトラブルがあったと考えて良かった。

 どちらかが塞がれていてもいいように、経路を二つに分ける。それが、あらゆる紋章権能もんしょうけんのうを封殺する凍結弾を持った討伐部隊に囲まれた彼らが唯一逃れる方法だった。隙を縫って逃がされたらしい純は完全に絶望の表情をしていた。臆病な彼が何らかの下手を打ったようで、僕のせいだと涙ながらに語るその身体を、龍弥は両腕で抱き締めた。後方席では、やっぱり助けに行こうと立ち上がったロウズを已愛が諫めている。最悪のパターンだが、想定されていたうちの一つだ。ここから自分たちが戻ったところで、犠牲者が増える以外ない。討伐隊は訓練を積んだ戦闘部隊であって、紋章権能という特殊な能力を得ただけの一般人では勝てない。二条令吾にじょうれいごと方倉和。能力も含めて、正面からまともに戦えるのは二人のみだ。何もかもうまくいって、ここでいま襲撃してきている何人かもわからない敵をみんな追い返せたとしても、その先はない。

 純を抱えて飛び込んだ龍弥がワゴン車の扉を閉じたと同時に、タイヤの回転する音が響く。窓の外を見る。今年の冬に目覚めていままで、丸一年過ごした東京中央病院分館――通称『奇跡館』は、少しの雨を被りながらもまだ燃えていた。二条兄弟や、わずかな施設の職員たちが、討伐部隊と戦っている。万一のために防災設備は全て切ってある。何度も爆音がして、ガラスが弾け、壁が焼け落ち、黒々とした煙が昇るのが分かる。隣に座らせた純が震えながら窓から視線を外す。車の揺れに合わせて振り向くと、ロウズは胸元を抑えながらとても悔しそうな表情で惨状を見つめ、已愛は静かにこれからどうするかについて考えている。

 少しの間もおかず、夜天を焚き上げる炎に、凛とした声の透明な旋律が続く。


 Con te partirò 

 あなたとともに旅立とう。

 Paesi che non ho mai veduto e vissuto con te,

 様々な場所、いままであなたと共に見たことも訪れたこともない色々な場所を、

 adesso si li vivrò.

 これからも経験していこう。


 窓の外で燃えていく。広間も、食堂も、図書室も、作戦室も、全ての思い出が焼けていく。目覚めた春の初めも、日々の生活に慣れ始めた夏も、はじめて討伐部隊と協力して戦った秋の終わりも、いまこの凍えるばかりの冬も、鮮やかな過去が黒煙に変わる。聞こえる歌声に涙が混ざる。思い返せば、ユウもそうだ。本当は純と同じくらい臆病なのに、すぐにでも逃げ出したいはずなのに、討伐部隊をかく乱するために、彼女は炎上する奇跡館の放送室に一人籠って、歌っている。


 Con te partirò

 あなたとともに旅立とう。

 su navi per mari che,

 船に乗って海を越えて、

 io lo so,

  私は知っている、

 no, no, non esistono più,

 もうどこにもなくなってしまった、

 con te io li vivro.

 その海をあなたとともに航海していこう。


 ワゴン車の天井に雨音が撥ねる。極光にも似たユウの能力使用の警報に龍弥は顔を上げる。まるで、その歌声は幕だった。雲の底の輪郭が見えるほど弾けた熱と怒号に猛る街を、ただ沈める幕だった。奇跡館には多くの武装した兵士たちがなだれ込み、もはや戦争の様相を呈していた。死の乱擾。割れる硝子も、入り混じる浅い呼吸も、唸る銃声も、断続する激震も、夜を焼く焦熱も、舞い上がった塵埃も、咲き乱れる赤色の警告灯も、雨に混ざって空から降りた雷鳴も、すべて透明な旋律に音と鮮やかさを失った。濡れた服に伝わる鼓動と体温。和がふかす車のエンジンと抱き締めた純の泣き声を聞きながら、龍弥は脳内を巡るこの建物での思い出が、いままさに二度と戻らないものになろうとしていることを知った。


 Con te partirò  あなたとともに旅立とう。

 Con te  あなたとともに 、

 Io con te  わたしはあなたとともに。

 

 狭い駐車場から、時速六○キロで灰色の車体が飛び出す。壁面に擦ったサイドミラーがはじけ飛ぶが、気にしてはいられない。見慣れた街の大通り。列になって道路わきに止まった討伐隊特殊車両の横をすり抜けて進む。置いていくのは、三人。いま耳に響く最後の女性以外にも、二条兄弟の能力が必死の強度で振るわれているのが分かる。戦っている。みんな、いま、龍弥たちを逃がすために戦っている。思い出せば、ユウが奇跡館の朝の放送担当になって、どれだけ経っただろうか。彼女の最後の歌は、叶わない旅立ちの願いを添えていた。

 きっと、戻って助けに来るからな。流れる涙の線を頬に引いて叫ぼうとした龍弥の視界が激しく乱れる。破断音。さらに遠くなった丘の上に、目を灼く光が迸った。それは林立するビルや家の影をおぞましい迫力でモノクロに伸ばしながら、瞬き、爆轟と炎熱を伴って冠する雨雲をうねらせた。通りの左手、奇跡館方面の電柱や信号機が風圧で大きくしなる。三階建ての白亜の施設に制御を失った戦闘ヘリが突っ込み、一階の冷気制御タンクに引火して建物ごと大爆発したのだと気付いたのは、猛スピードで走りながら、衝撃波に煽られて傾きかけた車体をハンドル操作で元に戻した和だけだった。

 再びの雷鳴と共に、雨が降り始める。あらゆる怒号が音量を増し、遠ざかる凄惨な現実が色を得てぎらつく。歌は止んでいた。ほかの能力も、一切行使されなくなっていた。どうなったか分からない。行使されていない他人の能力を行使できるという力を持った青年は、まだユウたちの力が完全に消えてないか確かめる覚悟を、つまり彼らの生死を明らかにする勇気を持たなかった。すすり泣く声が響く車内。ただ彼は淡々とした雨音とべたついた服を背負って、呆然と彼方の鮮明な地獄の有り様を見ていることしかできなかった。

 

 二○二四年一二月二五日、午前一時二八分。

 新世界方形原領域しんせかいほうけいげんりょういき、東京。

 死に満ちた寒い夜、皆嶌龍弥みなじまりゅうや以下五名の逃避行がはじまった。


 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 生きていたって仕方ないのに、死に損なって朝がきた。何をすることもないので、ただ今日も筆をとっている。壁際の警告灯が点滅する薄明るい部屋。椅子に座り、立て掛けた壁面の画用紙に絵を描く。いつものように、淡く線を引き、色を塗る。

「――確認報告、こちら市陽いちはる丹泥種行海群たんでいしゅぎょうかいぐん、型式種別不明。六〇ノットで左舷に突っ込んで来るぞ、已愛」

「ガスパックの消尽励起エンプティ―・バースト防種ぼうしゅ二番の準備はしてあります。オートノミーは炉心を切って、ユウは音響爆雷の準備をお願いします。総員耐ショック用意。今週二回目のピンボールです。派手に揺れますよ」

 扉から漏れだす声も耳に入らず腕を動かす。雷鳴にも似て響く爆音も、それに弾かれ何度も激震する室内も、淡く遠くに流れる。画用紙に黒を、青を、灰色を足していく。ここに来て、ずっと描いている。剣を携えた気の強そうな女性の絵。

「――音響爆雷による誘導、終了しました。およそ二時間の停泊で探知線を切ったのち、巡行航海に移行します。各人は担当部署に損害がないかどうか確認をお願いします」

 数分後、船内に静寂が戻る。深い息を漏らし、顔を上げる。

 二○三二年一〇月二四日、午後三時六分。

 ハワイ南西三〇キロメートルの沖合、潜水母艦、発令所奥の用務室。

 自分が描いたものを見て、彼は言う。


 ――きみは、誰だ。




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