愛は已まない

 歩いていた。一人歩いていた。雨の中を一人歩いていた。泥はもうない。枯れた涙を埋め合わせるように、ただ水滴が頬を伝い流れる。冬の爆心地からあてどなく東方へ足を進める旅は、今日で一月になる。熱波で西面の岩稜が焼け焦げたシエラネバダの切っ先を飛び越え、死の灰の降るアリゾナ砂漠を渡り、続くロッキー山脈の頂で数十億トンの噴射物を振りまく火の幕を眺め、砂塵からぐオクラホマ州に辿り着く。灰色に染まる世界。あらゆる生き物はもだし、地の割れる轟音だけが延々と響く。十分な量の食事を摂っていたことと、ガーネットキマイラの力があって、ここまで飲まず食わずで過ごしてきたが、そろそろ限界が近かった。一昨日より昨日、昨日より今日、一つの終末は拡大していく。全天を覆い成層圏を侵す塵埃は雨と混ざって降り落ちる。地平の果てまでの視界を、髪を、肌を、――喉に絡まって心臓を鈍色に塗り潰す。

 独り往く。無尽蔵の憎しみも、何もかもへの絶望も、幾重にもかさなった後悔と諦観も、絶え間ない寂しさと恐怖も、肌を濡らす冷たい水に流されて抜け殻になる。希望は焼け落ちた。幸福は熱を失った。未来は少しずつ塵に還り、全ての命は色褪せていく。体力は尽き果てていた。空腹に今日何度目かの音を鳴らした直後、不意に、鼓動が弾ける。動転する景色。足元の岩に体勢を崩し、雨に打たれるまま、黒く粘性をはらんだ砂地に倒れ込む。血液が体内を暴れ、息ができなくなる。突発性の発作だ。龍弥は自分の心臓を思い返す。飲まなきゃいけない薬を、ここに来てから、ずっと飲んでないんだ。誰かがそう言っていた。確か、大切に想っていたはずの誰かが。

 枯れたはずの涙が流れ、雨と混ざって染みる。まだ残るガーネットキマイラの力で、そのまま死ぬことはない。けれど、身体が動かない。ほとんど死に場所を探すつもりでここまで来たのに、いよいよ瀕して龍弥の心に色付いた恐怖が宿っていく。頬に赤黒い紋章が浮かぶ。クローシェの命を奪った。ガーデナー達だって無事ではないだろう。引き起こした噴火が、これからどれほど多くの人を傷付け、苦しめ、殺してしまうか想像もつかない。死ねばいい。死ぬしかない。そもそも生まれてこなければよかった。いま死ね。そう思う。なのに、身体は不自由なままだ。

「うぁ、げぅ、が、がぁあああああ」

 一月ぶりに出した声。吐き出した灰に血が混じり、黒くぬめった地面に同じ色を塗り重ねる。自分はこの世で一番無様だ。矮小で、卑怯だ。悪であり、害というほかない。いますぐに、消えていなくなるべきだ。そんなことは分かっているのに、変わらず息を吸おうとするこの喉を止めることができない。

 仰向けに倒れて雨に打たれる。空を映した視界の中央に、淡い光が見える。翼を持った赤い怪物。丹泥種たんでいしゅ、何かの鳥だ。大声を出したことで、存在を知られたのだろうか。決して生きていたくはない、けれど死ねない。だから、お前が殺してくれるのか。龍弥は言葉にならない音を喉から漏らす。灰雲の垂れる曇天。一羽の怪物は、そこから漏れだした日の光にも似て降りてくる。舞い散る火の粉に、冷え切った身体が温まるのを感じながら、青年は紋章に覆われた目を瞑った。もう、何もしたくないし、何もできない。あとは意識が途切れるのを待つだけだ。怪物が着地した音と共に訪れる静寂。何も見えない暗黒の世界、雨音だけが耳を打ち付ける。

「お前は、悲しく思っているのだな」

 だから、その言葉は今際の幻聴に違いないと思われた。目を開けると、色を変えた光が視界を覆う。倒れ伏した自分の隣に立っていたのは、鳥ではなかった。淡い空色に燃える四枚の羽根を備えた蝶。紋章権能生体ソース、羽化不全の大水青オオミズアオ。ガーネットキマイラ:オートノミー。奇跡館にいた超常の女性が、いま、そこに立っていた。

 驚きに言葉も出ない龍弥の耳に、ふと、音が聞こえる。遠くからプロペラの音が。羽を揺らして君臨する超常の女性の視線を追って、見上げる。灰色の天地の向こうに、風を裂いて動く影。雲間から穏やかに漏れ出た日を浴びる、四基のエンジンを備えた黒い航空機。フラップを動かして旋回し、こちらを向いたそのコックピットに、二人の男女の影が映る。女性が指をさして、言う。

「やっと見つけた! いました! 正面、紋章から見て皆嶌みなじまさんに間違いありません。丹泥種行空群甲型三号だんでいしゅぎょうくうぐんこうがたさんごう丙型六号へいがたろくごうが近づいています。着陸して回収を急いでください!」

「この飛空艇、着陸機構が整備中でいま使えないんだけど」

「ああそうでした、オートノミーさんそのまま捕まえて飛んできて!!」

 彼方からの言葉が重なる。抱き上げられた暖かさと共に、身体が浮かぶ。離れていく地面を呆然と見ていると、視界が大きく回転する。全身に軽く打ち付ける鉄の感覚。空中で開いた側面ハッチから航空機に投げ込まれたのだと気付いたときには、見知った少女が龍弥を覗き込んでいた。目にかかるギリギリまで伸ばされた黒髪に、病的に白い肌。細い四肢、触れれば簡単に折れてしまいそうな印象さえ受ける彼女は、彼の胸に手を当て、力強く声を上げる。

「拍動がおかしい。もうちょっと待っててくださいね、取り合えず、鎮静剤を飲んで貰って――、市陽いちはるさん、ロウズの発作防止用の薬どこやりました」

「『氷障ひょうしょうチャフ』の棚の右隣り。――っと、来やがった。已愛いあ、一発分貸して。彼を離すなよ。最大加速で逃げるぞ」

 少女の手から投げ上げられる小型の砲弾。それを後ろ手で受け取った青年は、弾くように閉じつつある腹面装甲の隙間から機体外に放り投げる。直後、小さな音と共に爆発的に拡がる白い霧。飲まされた薬剤によって心臓が落ち着いた龍弥は、それが丹泥種からの捕捉を妨げるものだと分かった。

 だが、それ以上のことは何一つ分からなかった。黒い航空機の上部に張り付いたオートノミーは、青白い翼を拡げて推力を増幅させる。死地から離れて飛ぶ鋼の中、目の前に見える光景が信じられない。直接名乗られなくても分かる。そっくりで、同じ能力反応を感じ取れる。青年、二条市陽にじょういちはるがコックピットに映し出される複数のモニターを眺めながら無線を取り、少女、榎木園已愛えきぞのいあが指示を飛ばす。

「カンザスシティに重熱反応じゅうねつはんのう、この規模だと、行陸群ぎょうろくぐん乙型最新一三号が形成される予測です。南、ダラス経由でヒューストンからメキシコ湾に一旦降りましょう」

「オーケー、ミス・オートノミー、聞こえるか! 進路変更、目的地は南の湾だ!」 

 床が傾き、窓の外の景色が薙ぐ。迫る怪物たちの緊迫感にも負けない温かい熱に満たされた空気。いつかの夜の記憶が蘇る。已愛は市陽たちを取り込み、強大な能力を得たのではなかったか。奇跡館きせきかんはそのための場所だと、已愛本人が説明していた。それがどうして、いま、こんなことになっているのか。これは走馬灯で、ふざけた夢を見ているのかもしれない。膝を折り、震え、恐怖に沈んだ瞳から涙を流す龍弥の肩を、確かな温かさを持つ両腕が背後からぎゅっと包み込んだ。

「いまは分からなくても、無理に落ち着かなくてもいいです。でも、大丈夫ですから。私たちはここにいますから」

 目の前の小柄な少女の目には激しい炎が燃えていて、それは冬日の暖炉のように、龍弥の心に灯りと熱を与える。落ち着いた空気。優しくて、人の痛みが分かって、勇気がある、素敵な人。そのままの已愛が、否定しようもなくただ隣にあった。

 しばらくすると、補足範囲を振り切ったようで、くん、と機体の速度が一段階落ちる。足音。無線機を壁端のスタンドにかけた青年は、大きく深い息を吐き、倒れた龍弥の前に腰を下ろす。髪も染めていないし、付け爪もない。しかし、奇跡館の日々で感じたのと同じ、芯の通った雰囲気を背負う彼は、どうも、と区切って続ける。

「初めまして、オレは二条市陽。君に直接会ったことはないが、記憶は水槽の中で脳に刻まれたらしいから分かるよ。特別有用な紋章権能を持つ、皆嶌龍弥みなじまりゅうや榎木園已愛えきぞのいあモデルの正規品とは違う、必要もないのに二条開発局にじょうかいはつきょくがごり押しで造った、しょうもない能力持ちのクローンさ」


 ――我らみな死を畏れ 第三章前編 月を視る龍 完

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