月を視る龍

 全てを熔かす熱の推進力を以て、爆音と共に怪物が怪物を追う。梯子を融解させながら飛び上がり、距離六○○キロメートルの地下洞窟を獄炎が奔る。一直線の道で、たびたび視界を塞ぐ黒色。先をいくじゅんが築き上げた泥の防壁を貫きながら飛ぶ龍は、その一三枚目を破ったところで、ふいに標的を見失った。うだる高温の空気をかき混ぜながら急制動し気配を探る。

 そこに聞こえる。叫び、混乱するような数人の声が。熱波に揺れる空気を呑みながら、首を曲げる。真横、黒焦げになった半開きの扉に『トループ薬草園』の文字を読み取った瞬間、その部屋は響く轟音と熱波に圧搾されて形を崩した。気化爆弾。滑るような足取りでいつのまにか背後を取っていた純が、飛び乗って赤い怪物の首元で炸裂させたその兵器は、吹き上がる煙と合わせて洞窟に焦げ付いた広間を生む。

 だが、十分ではない。間髪入れずに咆哮が響く。龍は頭上の光輪を赤く輝かせ、ふわりと浮くと、降り注いでくる岩片を身から溢れる高温の蒸気だけで溶かし尽くす。頭上に気配。地面を蹴って逃れた敵を狙って制動し、大きく縦に一回転。厚さ八メートルの天井岩盤を青い炎をまとう尻尾の打撃によって打ち上げ、さらに燐光を着込んで加速する。

 流れる景色、氷の大地を割り、躍り出た中空。牙をぎらつかせ口を開く龍の視界に捉えられた純は、すっと笑顔のまま涙を流し、その白い腕を振り上げる。莫大な能力の行使に合わせて、赤黒い紋章に塗れた手に握られる銀色のレールガン。直後、彼我の距離三メートルの雷鳴。超威力の一撃を翼膜に食らってふらつく巨体の首元に掴みかかる影。ガーネットキマイラ、名称は未設定。一瞬の間に一○メートルの巨人となった純は目まぐるしく巡る視界のまま、暴れる怪物ごと氷結した海面に突っ込む。

 接地の寸前開かれたのはあかい翼だ。輝ける二枚の扇が空を縦に裂き、数秒遅れて音が飛ぶ。目を灼く光ののち、激甚の風圧。渾身の羽搏きで氷原にふざけた窪みを刻んだ龍は、体勢を立て直して再加速する。

 吼え、瞬き、青白い火を全身に纏う。何度も天地を逆転させる視界に、音速の一八倍の速度。ビルも、小屋も、森も、丘も、道中の冷え固まった万物を摂氏一二○○度の衝撃波で根こそぎ消し飛ばして駆ける。およそ五秒の間にサンノゼから北西へ二○キロに渡って迸ったのは、何度も屈折した熱の稲妻だ。フリーモントを焦がし、ユニオンシティーを火で染め、凍った内湾を深く抉る。さらに、ベア島の上面を高温で均して、国際空港の残骸を灰燼に帰すと、下に見えるのはサンフランシスコだった。

 眼下、都市を数個呑みこむ規模の円形の水面、サンパブロ湾。龍は力の限り身をくねらせ、九○平方マイルの面積を誇るその中央に怪物を叩きこんだが、熱で溶かされて上がった莫大な量の水飛沫は流れるように泥の盾に変わった。赤黒い土でせり上がった足場から、きらめく大口径の砲が覗く。一撃。軌道を読んで身を沈め、射線から逃れた怪物だったが、弾種が違った。有り得ないはずの、超遠距離の散弾。瞬く間もなく、正面六〇度奥行き四キロメートルの湾岸が爆音を響かせた。

 氷を武器として扱えない限り、ガーネットキマイラや丹泥種たんでいしゅを相手にする戦いにほとんど一撃必殺はない。鉄筋ビルをへし折る威力のある炸裂弾を全身に複数受けた龍の傷はすぐに埋め合わされるが、もう一方の怪物はその隙を逃さなかった。空を裂く三発の狙撃。急加速による回避はすんでのところで間に合わない。確実に軌道を読み切った一発が命中する。

 無音、色もなく浮かび上がる静寂の中、湾岸南部、地上から三○メートル地点で羽根を伸ばす至天の焔。視界が明滅した直後、空と大地をかき混ぜる激震が続き、紫電をはらんで対流圏の天井を貫く巨大な雲が立ち上る。いつか丹泥種を誘導した弾と同程度の威力。何もかもを滅ぼしてしまうように思えるその一撃は、しかし臨界を迎えたガーネットキマイラには足りない。

 咆哮と共に、羽搏く巨大な影。恐怖が増し、更に泥を重ねて成長した体長一五メートルの飛龍。その甲殻に覆われて熱を帯びた尾が、吹き出す青白い熱閃を身に着けて長さを増していく。大きく風を割り、振り上げる。

 紋章権能生体ソース・出血死した甲蟹カブトガニ。体液が抜かれて、冷たくなって死んでしまうような気がする。管に繋がれた尻尾が青い血と同じ色の熱の強さを持っていれば、逃げて、生きていられただろうか。脳内に巡る思い出が誰のものか分からないまま、龍は大きく飛び上がり、身をくねらせて振り下ろした。直線状一○マイルに成形された熱プラズマ。成層圏の底を斬る、摂氏一万度超の払暁ふつぎょうの刃。溢れる熱波によって同心円状の空を朝焼け色に歪めたそれは、揺れるキノコ雲を両断し、直撃した泥の小島ごとサンパブロ湾の三割を蒸発させた。

 明けない夜はない、世界は昼に終わるから。そう思わせるほどに、怪物二体の戦いは眩く鮮明で、上空の雲が一つの闇をもたらすことも許さなかった。同じガーネットキマイラ、本気で戦えば、元より強力で、更に『一秒先の未来を予知し続ける』という能力を備えた純に龍弥りゅうやが勝てる見込みはなかった。戦闘が進むにつれ、より大きく暴れる赤い龍の怪物は傷を増やし、泥を失っていった。とどめを刺されずにいるのは、何発もの銃撃を絶えず叩き込む純の加減によるものだと言えた。

 呼吸を落ち着け正気に戻るまで二○分。たったそれだけの戦いの中で、怪物たちの攻撃はアメリカ西海岸の氷を溶かし、多くの大地に穴を穿っていた。だから、右の翼を失いつつサンノゼの中空で意識を取り戻した龍弥には、それが見えた。天を冠する視座から眼下。抉れた地面の奥に、半壊したトループ薬草園。飛び散った土の容器に、圧し折れた柱と、焼け焦げた棚。そこに、一人。逃げ切れなかったのだろうか。いて欲しくない人が、いた。

 ねえ、何がいけなかったと思う。どうすればこうならなかったと思う。どうしたら、誰が苦しむことも、悲しむこともなかったと思う。だってあれは。詰まった喉。見開かれた目。涙の線を引いて片翼の鳥の身体がふらつく。泥の剥げた頬を濡らす血の流れも、耳に響くくぐもった風の音も、全てが淡く遠い。落ちる。空から下がって、溶けて均された水の地獄、穴の開いたその底へ。

 鈍い痛み。六○○メートルの高度から地面に叩きつけられたくらいではガーネットキマイラは死なない。死ねない。傷を埋め合わせる泥が右腕を再構成しようとうごめくのを感じながら、同じように修復されていく二本の足を引き吊って、龍弥は少し離れたところに寝転がった少女の下に這い寄った。

 クローシェ・ケーニッジは、その瞳を遥か天上に向けていた。乱れた髪と、半開きの目。扉越しに気化爆弾に煽られた彼女の身体は床面に服ごと焼き付いていて、左半身が棚の崩落に巻き込まれて潰れている。泡立った右腕の近くに転がった機械には、最大出力マキシマムの表示があった。言葉にならない呻き声を上げながら近づく。芽を出したはずのエンドウの苗が、土のケースごとばらばらになって彼女の額にかかっているのを確認したところで、ゆっくりと積み上げてきた何もかもが崩れ果てた音がした。

 見れば分かることだった。それでもまだ龍弥の身体は無意識に動いた。いまだに自分を狙う純の脅威も、頭上でやけに響く何かの群れの鳴き声も無視して、黒ずんだ彼女の頬を叩き、鼓動を聴こうとした。光のない瞳を覗き込み、呼吸音を確かめた。けれど、何をどうやったって死んでいた。ガーネットキマイラでもなければ、紋章権能もんしょうけんのうすら持たない。ただの少女は、怪物二体の戦いに巻き込まれて殺されていた。

 彼女にかけた言葉が心を焼き、彼女が返した言葉が胸を刺す。

『この街の皆が、君に生きていて欲しかったんだと思う。そして、いま君は生きている。まず、そのことを大切にしてあげて。それから、ゆっくり寝て、いっぱい食べよう。ね』

『――助けてもらった命です。心配をかけるようなことは、決してしませんから』

 脳に巡る鮮やかな思い出たち。その全てが身体中を打ち付け、恐怖と絶望だけを飽和させていく。ねえ、何がいけなかったと思う。繰り返し問うが、答えは返って来ない。涼しい風が吹き下ろす。聞こえる音は、頭上からの怪鳥の鳴き声だけだ。圧力で震える空気を裂きながら首を向ける。大穴から覗く雲一つない青空に、浮かぶ五つの太陽。死がすだく。自分を狙って旋回するのは、眩く輝く丹泥種の群れだ。

 すっと、涙が零れる。赤い泥が翼を成し、甲殻が身体を覆う。持ち上げたままの首。澄んだ空気の中、焦点が合う。一瞬、世界が止まった感覚がした。龍弥がその歪んだ双眸で捉えたものは、大穴の端に隠れてこちらに銃口を向ける純でも、身を捻らせて急降下してくる赤い怪物でもなかった。蒼穹の彼方。手の届かないところにあるそれは、きっと死ぬ寸前にクローシェが視界に入れていたものと同じだった。


 私の主よ、あなたは称えられますように。Laudato sie, mi' Signore,

 すべての、あなたの造られたものと共に。cum tucte le tue creature

 ――41°54'08.1"N 12°27'09.7"E

 

 視える。中天に座す昼の月。三八万キロ先の天体に刻まれた文字が、はっきりと。ガーネットキマイラは、死を畏れるほど強力になる。どうしようもない絶望が、どうしようもなく力になる。視界端で捉えた純の砲撃を躱し、ついで亜音速で降下してくる赤いワシを壁面に蹴り込んだ龍弥は、流した涙の線にそって自分の身体が金色に染まっていっているのに気付いた。黄金のめしべ。ガーデナーが力を使い果たしたのと同じ色だ。

 創世記の三章一九節の上に描かれた文字列。その末尾に付してあったのは、地理情報だった。それがどこか、さらなる超常の存在になった龍弥には分かっていた。死を想い、奈落より日が昇る。頭上に青白く瞬く光輪を冠して、一匹の龍が飛び上がる。眼下、正面。周囲を旋回して様子を伺う丹泥種たちより遥かに輝く怪物は、近くの別の空洞に向かって電柱ほどの大きさの砲身を構え下ろした巨人と目が合った。あらゆる時間と音が淡く遠ざかる。何ものをも寄せ付けない圧を発して君臨する二体の怪物の睨み合いは、ふざけた地鳴りによって終わりを迎えた。

 それは、世界が破断する音といってもよかった。撃ち終わった武器が風に流れて消滅したのと同時、左右の遥か地平の果てまで、中空から見下ろすカリフォルニアが赤く割れた。破局的噴火。爆音と共に、眼下の全てが鳴動する。全長一三○○キロメートル超、サン・アンドレアス断層の海岸面が隆起し、境界から紫電をはらんだ分厚く赤いオーロラが吹き上がって全天を裂く幕を作り出す。間もなく架かった。あらゆる破滅に彩られて、広い大地を渡す死の橋が。

 超常的な規模で暴れ回った二体の怪物。それに、狙いすました純の砲火がとどめとなって、いつか壁画洞窟を造り上げた人々が用意した兵器が生むのと同じ衝撃をこの断層に与えていた。全球凍結計画。莫大な粉塵が巻き上げられ、月を隠し、空を覆っていく。燃え立つマグマの幕の向こうの水平から迫る別の怪物の群れ、丹泥種行海群乙型一号たんでいしゅぎょうかいぐんおつがたいちごうに向けて威嚇射撃をして注意を引いた悪魔染みた青年は、すっと、人の姿に戻った。

 灰に飲まれて暮れていく世界も、それを切り分ける劫火も、海と空の怪物の群れも、全ての死を置き去りにして、再び龍弥と純は見合った。龍弥の猛る炎を宿す口から漏れたのは、無尽蔵の憎しみだった。何もかもへの絶望だった。幾重にもかさなった後悔と諦観だった。絶え間ない寂しさと恐怖だった。言葉にならない想い。一言、小さな声で龍が吼えると、相対する青年は両目から涙を流して返す。その雫は、灰の雲海によって冷やされて、地面に染み入る。新雪に似た純白の腕に、紋章の夜を纏う。迫る丹泥種のクラゲを振り向きざまの銃撃で大きく弾き飛ばした純は、赤いカーテンの向こう側へと足を進める。ごめんね、こっちは引き受けるよ。そう呟いたあと、一瞬振り向いて、言う。

「じゃあ、またね、龍弥くん。今度は、冬の果てで会おう」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る