冬の夜の死の彼

 赤い怪物の群れの気配はまだ少し離れたところにある。昼の哨戒のためにアカシックレコード洞窟を走っていた龍弥りゅうやは、右手を泥で発火させて一人で壁を眺めるじゅんと出くわした。

「ねぇ、龍弥くん。流石にこれより僕の絵の方が上手だと思わない?」

 彼が指を差したのは、中世盛期の区画の壁画の一つ。馬のような動物に騎士の身なりをした男性がまたがっている、薄く焦げた絵だった。一二世紀の作品。確か、バイユーのタペストリーというものだったと、龍弥は何となく思い至った。

 時代の限界というか当時の画風というか、ともかく漫画のネームのような線の粗さのあるその作品の一部に、目を引かれる。二人の騎士。彼らの持つ盾、それに刻まれているのは、龍の意匠、俗にいう紋章だった。紋章。それは龍弥たちが特異な能力を行使するときに皮膚に現れるものだ。すっと周囲のほかの壁画を見回す。中世盛期の騎士たちの武装、特にその盾には全て何らかの意匠が刻まれている。何となく疑問に思っていたことの一つ。能力者は死に瀕した生物の遺伝子を打ち込んで造られた。だとしたら、どうして紋章が浮き出るようにしたのか。ガーネットキマイラの泥の上からでもわかる印。それは、普通の人々との違いを示すための烙印か。それともほかに意図があるのか、あるいは全くの偶然の産物か。考える龍弥の肩に、とん、とぶつかる感覚。

「ちょっと付き合って」

 純に手を掴まれたまま歩いて、辿り着いたのは更なる地下だった。龍弥があまり行ったことのなかった、未来の方面、中世晩期ちゅうせいばんきの区画。クリーチャーたちによって複数の大穴を開けられ、半分くらい拉げた鋼の壁画の洞窟には、同じ鉄壁に表層を覆われた下りの梯子があった。高さ三〇〇メートルと少し、ここもまた黒い怪物によって歪に歪んだ長い縦穴を、怪物二体が直滑降する。乾いた着地音と共に指先に火を灯す。照らし上げられたのは、広い部屋。正面の壁を見ると、文字が書いてある。


 共に築き上げた、あなた達のために。

 特殊区画、ニエンホルト服飾廟ふくしょくびょう


 左右の壁面に沿って複数置かれた木製の棚に、納められた多くの服。文字をさらに読み進めれば、ここはサンフランシスコからロサンゼルスまで連なる洞窟を造り上げる際に亡くなった人々が身に着けていたものが置かれているらしい。人が死んでも、土地の関係上、キリスト教圏の伝統的な埋葬はできなかったようだ。揺れる火に映る着物たち。ここは、もだした衣類の墓だった。

「もっと奥、こっちに来て」

 青年に手を引かれて歩く。墓の奥にはさらに一つの扉があり、四畳半ほどの個室が用意されていた。小さな部屋。指先の炎で照らして龍弥が目を引かれたのは、壁面を黒々と覆うモニターだ。部屋端のバッテリーは隣に開いた大きな穴と共に蝋に溶かされており、起動していない。

「面白いから、それを見て」

 純の声に目線をずらす。モニターの横の長テーブルの上には、小さな冊子が置いてあった。火を背に移してページを捲れば、大洪水の様子が表紙に描かれたそれには、欧米の科学者たちが仕組んだ世紀の作戦について書かれていた。何の捻りもなく、方舟計画。ここ、カリフォルニア州に走るサン・アンドレアス断層は、世界有数の活断層だ。計画は、それを人工的に刺激することで、地球自体を灰により一時的に大寒冷化させるほどの噴火を起こし、クリーチャーたちを絶滅させるというもの。

 避難用の耐熱区画と食糧庫はこの全長六〇〇キロメートルのアカシックレコード群の中に複数個所用意されていたらしい。どうやらケーニッジ写字室のクローシェの部屋もそうであったようだが、地図を見る限り、いまは全てクリーチャーによって破壊されている。あくまで選択肢の一つとして、ここに残す。全ての人に幸福あれ。そう区切られた最後の頁までをとんでもない速さで読み終えた龍弥は、壁面のモニターを触っている純に目をやった。

「一回解体してみたけど配線自体に故障はないんだよね。これ、もし電源入れられたら面白いと思わない?」

 黒い髪と白い肌が闇に揺らめく。避難区画はもうない。おそらくそこに残されていたであろう食料類や文明の機器は失われている。大噴火を誘発する装置。手元の資料になぞらえれば、純の言うことは命を救う方舟が破壊された状態で洪水を起こそうとしているのに等しい。

「純、色々と感謝しているが、おかしなことを言いだすのはやめてくれ」

「ええー。僕たちは何だかんだ無事で済むと思うんだけどなぁ。せっかくあるんだから一回くらいこう、ドカンと」

「やめてくれ」

「うーん」

 目の輝きが薄れてしょんぼりとした純は、部屋の木製の椅子に座って、テーブルの脇に用意された工具箱を開いた。中からプラスドライバーを取り出すと、シュッと手首をスナップ。龍弥の顔面に向けて投げつけて、続ける。

「仕方ないなぁ。仕返しに、ちょっとだけ暗い話をしてあげようか。特別だよ?」

 差し込まれた言葉と武器。鋭い鉄の一撃を何でもない様子で弾き飛ばした身長一九〇センチの大男は、しかし、目を引かれた。涙。見下ろした椅子に座った純の右目からは、透明な一筋の雫が流れていた。はぁ、とため息を吐き、深淵の瞳の青年は首を振る。水が跳ねる音。涙が龍弥の腕に触れ、それに驚いて彼の手首に宿っていた火が消える。

 ここだけの話だけど。そう区切った純は、火の灯った人差し指の先を龍弥に向ける。狭く暗い部屋で唯一の明かり。ささやかな熱が青年の二人の影を化け物のように壁面に曝し上げながら揺らめく。そのまま口の先に、指を持ってきて、しー、と一吹き。途端に、何も映らない暗闇。それでもガーネットキマイラの超常的な視力を働かせた龍弥は、眼前の青年の唇の動きを読み取る。文字となって、聞こえる、それは――。


 龍弥くん、僕の兄と姉を殺しちゃったでしょ。


 言葉に意識を飲まれた直後、眼前を火が焼いた。唇が触れそうな位置に、右半分が泥に覆われた純の顔がある。――こうやってさ。吐息が届く距離で、まばたき。涙に代わり、赤黒い泥に覆われた青年の右頬に一筋の火が伝う。高威力の能力使用の警報。龍弥が危機感を覚えて飛び退ると同時に、泥の仮面が炸裂し、飛び散る熔岩の雫となって壁を溶かした。うち一つは龍弥の右目にかかったものの、咄嗟に燃え上がる鶴の外皮に包まれた彼の肌には傷一つ付かない。

「ほら、噴火くらい僕らには何にもならないはずさ。そうやって防げるんだから」

 笑顔。手首に大きな火を灯し、暗い雰囲気を振り払って、何事もなかったかのように純は言う。しかし、言葉だけ聞き取った龍弥は、首を動かした。右を向く。視界の中央に煙を上げて映るのは、熱により穴の開いた壁。思い出す。二週間前、あの鋼の船の上。怪物と化した龍弥の火炎に顔面を焼き焦がされながら特攻を果たして弾け飛んだ男女二人。明らかに日本人の見た目をしていた彼らはまさか、

竹平涼馬たけひらりょうま竹平恵梨香たけひらえりか。討伐隊の隊長副隊長は僕の家族だよ。優斗ゆうとくんから聞いたんだけどね」

「っ……俺は……」

「そんな顔しないでよ。気にしちゃいないさ、そんなにね」

 ふらつく思いがした。殺した。人を、自分が。正気を保っていたわけではないし、あれはほとんど自殺に過ぎなかった。そんな自己弁護より先に、ずっとおどろおどろしい絶望が身を覆う。どこからか、鶴の声がする。十分な睡眠と食事を摂った。ガーネットキマイラ、その力の熱量が波濤のようにうねり、不安定に揺れる身体から溢れそうになる。

 純の白い手に掴まれて、小さな部屋から出る。そのまま呆然とした龍弥をおいて、もう一人の青年は横の棚に置かれた女性ものの服をいくつか両手に抱えた。

「龍弥くん、何してるの。僕らの着替えも貰って帰ろうよ。新しいのは部屋の手前の棚にあるから」

 言われるまま数歩進んで服に手を伸ばす。ニエンホルト服飾廟には、多くの衣類が置かれている。キャンピングトレーラーに積んでいた着替えはほとんど焼け焦げていた。ほとんど二枚しかない汚れた上着と下着を着回していた龍弥たちにとって、この部屋はありがたいものだった。ふうっと深い息を吐き、亡くなった人々に頭を下げる。暴れる心臓を落ち着け、棚の上を覗き、そこから三着くらいをまとめて手に取る。

「あぁ、でも一番上のはサイズが合わないと思うから置いていった方が良いかも」

 他のものを一旦床に置き、混乱したままの頭を必死に冷ましながら、服を畳んで棚に戻す。ふと目がその布地の表面に映る。それは黒く、硬いきらめきを返す装束で、防護服と書いてあった。そして、名前が刻まれていた。守河優斗もりかわゆうと。一瞬身体が揺れる。強まる鶴の声。彼の着物がどうしてここに。龍弥は服を持ったまま震える声で聞く。

「なぁ、純……優斗は?」

「え、美味しかったでしょ、憶えてない?」

 視界が明滅した。美味しかった。何が。食べたもの。脳を過る、肉が。一日の気絶。その間に純が用意した。子どもたちも食べた。いまも口の奥に感触が残る。あれは――。純を見る。笑っている。思考が弾け、身体にふざけた量の熱が渦巻く。狂っている。何もかもがおかしい。ガーデナーと共に吐き出した絶望が、嵩を増して喉を再び詰まらせる。歪む世界。頬が泡立ち、鶴の声が耳をつんざく。

「なぁ、嘘だろ……」

「何も嘘じゃないよ。僕は君が好きだからね。そうだ、ついでに最期に優斗くんが教えてくれたことを伝えようか。死の直前で、どうも思い出したらしいんだ」

 泣きそうな顔で訴える龍弥を、純は笑って否定して続ける。嘘ではない。何が。純が、自分の気絶している間に優斗を殺したことが。その肉を子どもたちも含めた全員が食べたことが。そして、その狂った純の家族を、自分が殺したことが。

 遡って、純の言葉を待たずに思い返す。何もない白い部屋で目覚めてからここまで。全ての悲しいことが、鮮明な色を取り戻して脳を巡る。こんなに、辛いときには、何だっけ。思い出せない。悲しい記憶のなかで、そこだけが何もない灰色に染まっている。吐き出すはずだったあらゆることが喉でつっかえ、腹に戻される。意識が熱に溶けていく。

「『行使されていない限り他人の能力を行使できる』。その能力を、日本で暴れ回ったガーネットキマイラは持っていたらしいよ」

 純が口にしたのは、そのまま龍弥の力だった。理解不能な絶望が錯綜する。わけが分からない。優斗を殺したのが純で、その肉を食ったのが自分らしい。さらに、純の家族を殺したのも自分で、日本で優斗の両親を含む何百人かを殺したのは、自分と同じ能力を持つ誰かだという。――同じ能力を持つ誰かが居たのか、それとも自分から記憶が奪われているのか。淀んで荒れる思考の中で、ふと『水槽の脳』という単語が一瞬の凪に鎮座した。

 握った優斗の服が燃え上がったころには、龍弥の全身を赤黒い鶴の外殻が覆っていた。身長一九〇センチの青年の頭上を円状に火が駆け、発光する光輪を作り出す。明度を増した天使の輪が爆発的に部屋を照らし上げたとき、そこにあったのはマグマにも似た全長一五メートルで四本足の飛龍だった。熱で歪む空気、足元の床が泡立って溶けていく。見える全ての棚が燃え、ニエンホルト服飾廟と書かれたプレートもひしゃげて形を崩す。ガーネットキマイラの力は死を恐れるほど、恐怖に満たされるほど増す。身体を覆う泥の火。駄目だ。自分でも止められない。

 力のない最後の遠吠えが響く。助けてくれ。翼をばたつかせて目の前の誰かに言う。すると、その人物は満足した表情を浮かべた。やっと君の底が見られる。冬の夜を着込んだような冷たさで鉄の梯子に手をかけた彼は、止めの代わりにこう言う。

「じゃあね、龍弥くん。僕はこれから子どもたちをみんな殺して来ようと思うけど、どうする」

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