人と怪物たち

「この怪物め」

 その青年は、渾身の力で隠し持っていた手榴弾を投げ上げてきた。子どもたちがいるのとは別の地下空洞。泥と光を纏い、袋状の空間の天井に開いた大穴から顔を覗かせた龍弥りゅうやは、顔面近くで弾けた投擲武器などものともせず、静かに床面に降り立つ。

 青年の名前を龍弥は知っていた。その黒い装衣の裏に記してあったからだ。守河優斗もりかわゆうと新世界方形原領域しんせかいほうけいげんりょういき鹿児島かごしま所属、討伐隊海軍部新兵。あの夜の戦いは奇跡艦大和きせきかんやまとにも打撃を与えた。乗組員のうち何人かは海に投げ出されたらしかったが、取り残されたままだったのは龍弥より少し若い十代後半の彼一人だけだった。

「何が目的だ。俺を殺さないのにはどんな魂胆がある。お前みたいな怪物になんか、俺は、俺は!」

 走り来て、殴り掛かってくる。訓練された動き。飛び上がり、身を捻って、勢いのまま顔面に拳を叩きこむ。しかし、その一撃は案の定泡立ったように揺れる龍弥の頬に擦り傷すら付けられない。視線が合う。青年は乾いた笑いとともに数歩後退って膝から崩れ落ちた。

「俺は……」

 そう繰り返す彼の弱さを、龍弥は知っていた。拾って二週間。彼は舌を噛み切って死ぬことをせず、こうやって毎日持って来る焼き魚を拒むことができないでいる。殺すべき敵と、死の恐ろしさと。その二つの間で板挟みになって、暴れ、疲れ果て、次第に自己嫌悪の表情を作り、冷たい地面にへたり込む。無力。それはいつかの自分を見ているようで、龍弥は少し小さくなった思いがした。

 顔面にどんな攻撃を食らっても離さないでいたパック入りの焼き魚を岩の地面に置く。龍弥は少し足を進めて、優斗に近付いた。漏れ出る圧力。先ほどまで敵意に染まり、いまは自己嫌悪に沈む青年の顔に恐怖が差し、その度合いは距離を詰めるほど増していく。一歩ずつ足を進める。一歩ごとに目の前の青年は這いずって逃げる。近付くのははじめてだった。怖がらせないように笑顔を浮かべてみたが、効果はない。沈黙とそれを淡く塗る二人の息遣いが空洞に木霊する。片方が進み、片方が後退する。それを何度も繰り返して、壁際。トンっと、水に濡れた冷たい岩肌に青年の背が触れた途端、金切り声が響く。一瞬の攻防。恐怖に沸騰した頭で首を狩るように鋭く斜めに蹴り上げられた優斗の足を片手で受け止めると、龍弥は極めて落ち着いた口調で切り出した。

「話を、させてくれないか」

 見開かれた青年の視線と意識が、否応なく怪物染みた圧力を発する龍弥の口元に注がれる。怖がらせるつもりはなかった。けれど、揺れ動く眼前の青年の目を本当にこちらに向けるには、少しだけ刺激が必要だという確信があった。再び声が届くだけの距離を空けて、龍弥は語る。『奇跡館』で目覚めてからここまで、体験した辛く悲しいことを、全てありのままに。

 話を進めるにつれて、青年の表情は目の前の敵への疑念から薄い驚きに移ろい、最後には困惑に落ち着いた。人の形をした丹泥種たんでいしゅを殺す。そのことだけ考えていた新兵の青年にとって、奇跡館きせきかんの存在も、紋章権能もんしょうけんのうの実験の正体も、あまり馴染みのない事柄らしかった。聞こえるお互いの息遣い。洞窟の空気が完全に凪ぐまで、発された言葉の意味するところをゆっくりと飲み込みながら、優斗は静かに押し黙った。

 長い沈黙。まずは事情を知ってもらおう。そう思っていただけの龍弥は上手く次に付け加える話題を持たなかったし、優斗も直ぐに何か返すことはできなかった。そういうわけで、放っておけば永遠に続くだろう静寂を破ったのは、結局どちらでもなかった。超常的な直感で感じた頭上の気配に首を上げるより先に、身長一九○センチの怪物の後ろに似たような怪物が降り立った。

「なぁんだ。食事の後にちょくちょくいなくなると思ったら、そういうことか。水臭いじゃないか龍弥くん。子どもたちはおろか僕にさえ伝えていないなんて」

 息を呑む。慌てて振り返った龍弥の横を通り抜けた笑顔ばかり純朴な青年は、急場に固まった優斗の手をガシッと握る。

「はじめまして、僕は竹平純たけひらじゅんっていうんだ。これからよろしくね」

 海岸に浮いているのを見つけて二週間。無用な混乱を避けるために、この場所のことも、敵組織の彼のことも、龍弥はまわりの人間には伝えていなかった。何をしでかすか分からない純にはなおさらだ。一瞬の緊張。引き攣った顔のままに呼び止めようとした龍弥をおいて、二人は静かに会話を始めた。

 身長一八四センチになった純の言葉の切れ味はそのまま変わらなかった。緊迫感に満ちた空気の中で会話が往復する。頬の震えすら見逃さない、黒々と開かれた瞳。身振りを交え、声色をたびたび変じて語られる情景。戦闘服の青年の不信感を伴った探り探りの返答は、見る間に打ち解け合った相手に対する粗雑で大胆なものに変わる。龍弥が声をかけるのに約二週間かけた新世界方形原領域の兵士は、一○分もかからないうちに純の友達になった。

「僕たちは決して争いたいわけじゃないんだ。ただ生きていたい、それだけなんだ。龍弥くんが君の食料を面倒見ていることからも判るはずだ。勝手な研究によって生み出された僕たちを処分するのが正しいことかどうか、いま一度考えて欲しい」

 真剣な眼差し。笑い声の混じる歓談の中に差し込まれた、胸に迫るような一言。短い黒髪の青年は、黙って静かに頷いた。それから先も二人の会話は盛り上がった。闖入者だったはずの純は、あっという間にこの洞窟の主になっていた。しばらく聞いていると、彼らには共通の知り合いがいたようで、それが二人の距離をさらに数段速く縮める結果をもたらしたらしかった。

「ええ、じゃあ純さんって、あの? どおりでちょっと雰囲気似てると思った」

「そうだよ。討伐隊で僕の家族が優斗くんに迷惑をかけてなかったかな」

「むしろめっちゃお世話になりましたよ。それに、純さんのお話もちらちら伺ってました。二人とも心配していらっしゃって……でも、」

「顔をあげて。大丈夫、全てこれからさ。これから、僕たちは協力するべきなんだ」

 耳に入れながら龍弥は思う。ここにはもう不穏な空気はなかった。望むべき結論には純が導いてくれた。自分はもういなくても良さそうだ。一応の警戒として純の能力が起動するかどうか注意しながら、龍弥は二人に頭を下げ、ガーネットキマイラの圧倒的な膂力で飛び上がると、子どもたちの元へと向かった。

 

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