第三章 前編 月を視る龍
氷河の夜明け
私の主よ、あなたは称えられますように。
すべての、あなたの造られたものと共に。
「氷には僕たちの『
カリフォルニア州、その地下洞窟。熱波でガラスが溶け、扉の溶接された鈍色のキャンピングトレーラーを腕力だけで分解しながら、身長一八四センチの青年は
二○三二年現在。クリーチャーという巨大な生物を模した怪物が現れ、世界を覆い始めて一三年になり、第二次世界大戦以降の国家的枠組みが崩壊し、
クリーチャーに対抗するため、人類は様々な手段を用いた。クローン人間やサイボーグと並んで、その対抗策の一つが特殊な異能力、紋章権能を持つ者を生み出すことであり、クリーチャーに襲われながらも命を保った龍弥たちが研究の対象となった。
逃げ出したガーネットキマイラと能力者たちは、どうやら他のクリーチャーと同じように人類の敵として扱われるらしい。あの夜、
「ちょっと龍弥くん、勝手に凹んでないで手伝ってよ。解体してまた別の移動用具の材料にするんでしょ。冷蔵庫にもまだ何か食べ物が残っているかもしれないって、君が言い出したことじゃないか」
純が取り外したトレーラーの扉を横に置きながら文句を垂れる。ガーネットキマイラになる前と変わらない口調と様子に、龍弥はまた深く重いものを感じる。自分でないもう一人の能力を使えば使うほど、その記憶は薄れ、超然性を保ったまま二つの能力を宿した個人となる。それが
ブラック・クリーチャー、
解体音が続く洞窟。一度融解して歪に冷えて固まった鉄板に手を当てて、龍弥は自分の中のおぼろげなロウズの輪郭を漁る。確か、女性で、髪は黒くて、身長と年齢は……どれくらいだっただろうか。年上だったような気もするし、年下だった気もする。とても小さかったとも思えるし、そこそこ大きかったようにも感じる。流石に自分と同じ一九○センチはないだろうが……。肌に触れる冷たい空気が、大切なものを少しづつ浚って流れていく。温かいものがどんどんと溶け出す不安を振り払うように、彼は立ち上がって作業を続ける。
解体は怪物二人の腕力をして数分で終わった。再利用可能なのは歪に成形された厚い鉄板が数枚といったところで、家電製品やエンジンなどの機器、食料品は全部ダメになってしまっていた。何にせよ移動が必要だった。ただ、行く当てもなかったし、まず乗り物を作らなければならなかった。
視界の果てまで、どこまでも
足元の氷を割りながら進む。彼方に揺れる蜃気楼と、頬を撫でる冷たい空気。頭上では風が巡り、巨大な入道雲が形を崩して運ばれていく。中天に座した日が流れ、地表に浅い水溜まりを残す、いつもの時間。周囲には誰もいない。頬にとめどなく流れる涙。龍弥は身体を傾けて腰を鳴らし、息を吐いて力を込める。顔面に赤黒い紋章が浮かび、伸び拡がる紅蓮の翼。熱で軽く浮いた身体が赤色の泥に覆われていく。凍り付いた海で、とん、と地面を蹴る。大きく羽搏いて空気を裂き、首を持ち上げる。鶴の首と翼に、
そこまで頻繁に飛び回っている余裕はなかった。だから日に二回、昼夜の全力の威嚇だった。空気が焼け焦げる振動と、中空から同心円状に拡がる摂氏二○○度の衝撃波に少し遅れて、世界を揺るがす地鳴りのような音が聞こえる。氷原の向こうに
降下しながら泥を脱ぎ去り、勢いのまま斜めに海面に突っ込む。服を着たままの素潜り三○メートル。光も薄い海の中をガーネットキマイラの圧倒的な視力で網羅し、一連の動作を終えると、再び足元に泥を纏って温度差の加速で水面へ飛び出す。掻き抱いたのは、自身の腕ほどの大きさの名前の良く分からない魚が五匹。見よう見まねで狩りを始めて二週間になるが、この昼の漁獲量は悪くない方だった。
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