第三章 前編 月を視る龍 

氷河の夜明け

 私の主よ、あなたは称えられますように。

 すべての、あなたの造られたものと共に。


「氷には僕たちの『紋章権能もんしょうけんのう』の力を抑える効果があるらしい。あの夜、龍弥くんが別のところで戦っていた僕たちの存在に気付かなかったのはそのせいだよ。『奇跡館きせきかん』がガーネットキマイラになる前の僕たちの能力で破壊したり出来なかったのも、きっと何処かに氷を利用した設備があったんだろうね」

 カリフォルニア州、その地下洞窟。熱波でガラスが溶け、扉の溶接された鈍色のキャンピングトレーラーを腕力だけで分解しながら、身長一八四センチの青年は皆嶌龍弥みなじまりゅうやに語りかけた。超然とした雰囲気を持つ凪いだ海にも似た水色の髪の彼を、同じ怪物の青年はどう呼んで良いか分からなかった。ガーネットキマイラ、名称は未設定。カノート・エスリムを取り込んだ竹平純たけひらじゅんは、ただの赤い怪物に拍車をかけてどこか尋常でない雰囲気を纏っていた。

 二○三二年現在。クリーチャーという巨大な生物を模した怪物が現れ、世界を覆い始めて一三年になり、第二次世界大戦以降の国家的枠組みが崩壊し、新世界方形原領域しんせかいほうけいげんりょういきという都市コロニー群が創設され始めて一〇年になり、ヨーロッパ州及び両アメリカ大陸のそれが完全に滅亡し、奇跡館から逃げ出した龍弥がガーデナーたちとトレーラーハウスで暮らし始めて三週間になる。

 クリーチャーに対抗するため、人類は様々な手段を用いた。クローン人間やサイボーグと並んで、その対抗策の一つが特殊な異能力、紋章権能を持つ者を生み出すことであり、クリーチャーに襲われながらも命を保った龍弥たちが研究の対象となった。

 逃げ出したガーネットキマイラと能力者たちは、どうやら他のクリーチャーと同じように人類の敵として扱われるらしい。あの夜、奇跡艦大和きせきかん やまとの討伐部隊との戦いで、カノートが失われた。それは、榎木園已愛えきぞのいあが語って聞かせた『奇跡館』の事実――白い監禁施設は、他の能力者を取り込ませ、已愛を制御可能な最強の能力者にするためのものだった――と同じくらい龍弥には悲しいことだった。もし、張り付いていた氷が溶けて、みんなを探して護るように動けていれば、こうはならなかったのだろうか。

「ちょっと龍弥くん、勝手に凹んでないで手伝ってよ。解体してまた別の移動用具の材料にするんでしょ。冷蔵庫にもまだ何か食べ物が残っているかもしれないって、君が言い出したことじゃないか」

 純が取り外したトレーラーの扉を横に置きながら文句を垂れる。ガーネットキマイラになる前と変わらない口調と様子に、龍弥はまた深く重いものを感じる。自分でないもう一人の能力を使えば使うほど、その記憶は薄れ、超然性を保ったまま二つの能力を宿した個人となる。それが半人型丹泥種はんじんがたたんでいしゅとも呼ばれる彼ら怪物の性質だった。ミネルヴァやファーガルが慌ててカノートの名前を刻んだ飾りを純に持たせるより先に、彼はさっさと全て忘れ去って一人の純としてそこにある。『一秒先の未来を予知し続ける』。常時発動する寡黙で本好きだった褐色の肌の少年の能力は、半日と持たずに彼自身の記憶を奪ってしまった。

 ブラック・クリーチャー、黒蝋種こくろうしゅは、ほかの個体を取り込み、より強力な個体、レッド・クリーチャー、丹泥種たんでいしゅへと変化することがある。その理由は、龍弥たち紋章権能を持つ能力者がほかの能力者を取り込んでガーネットキマイラになる理由と同じく、不明なままだ。ただ一つ確かなのは、ガーネットキマイラを元の二人に戻す方法が未だに発見されていないことだけ。

 解体音が続く洞窟。一度融解して歪に冷えて固まった鉄板に手を当てて、龍弥は自分の中のおぼろげなロウズの輪郭を漁る。確か、女性で、髪は黒くて、身長と年齢は……どれくらいだっただろうか。年上だったような気もするし、年下だった気もする。とても小さかったとも思えるし、そこそこ大きかったようにも感じる。流石に自分と同じ一九○センチはないだろうが……。肌に触れる冷たい空気が、大切なものを少しづつ浚って流れていく。温かいものがどんどんと溶け出す不安を振り払うように、彼は立ち上がって作業を続ける。

 解体は怪物二人の腕力をして数分で終わった。再利用可能なのは歪に成形された厚い鉄板が数枚といったところで、家電製品やエンジンなどの機器、食料品は全部ダメになってしまっていた。何にせよ移動が必要だった。ただ、行く当てもなかったし、まず乗り物を作らなければならなかった。

 視界の果てまで、どこまでももだした夏の日。洞窟から歩み出た先、七月下旬のアメリカ西海岸は静寂に満ちていた。特殊な融解しにくい氷によって形作られた空色の地平には太陽が浮いていて、その熱が底の透明な浅い小川を幾つか作っている。氷を嫌うクリーチャーたちの姿はないが、生活必需品はもっとない。ただ、固まった海面に大穴を空けて探してみたところ、どうにか水の深い所には魚が数匹残っているのが確認できた。龍弥と、純と、ガーデナーと三人の子どもたち。一日一食にしてようやく、計六人がどうにか死なずにいられるだけの食料を確保できそうだった。

 足元の氷を割りながら進む。彼方に揺れる蜃気楼と、頬を撫でる冷たい空気。頭上では風が巡り、巨大な入道雲が形を崩して運ばれていく。中天に座した日が流れ、地表に浅い水溜まりを残す、いつもの時間。周囲には誰もいない。頬にとめどなく流れる涙。龍弥は身体を傾けて腰を鳴らし、息を吐いて力を込める。顔面に赤黒い紋章が浮かび、伸び拡がる紅蓮の翼。熱で軽く浮いた身体が赤色の泥に覆われていく。凍り付いた海で、とん、と地面を蹴る。大きく羽搏いて空気を裂き、首を持ち上げる。鶴の首と翼に、甲蟹カブトガニの殻と尻尾。ガーネットキマイラ:アーチスト。きらめく涙の尾を引きながら、一つの夜明けにも似て昇る龍。勢いのままに息を吸い、腹のなかの悲しみと混ぜて青色の火を生む。直後、空と海の境界、高度約三〇〇〇メートルに響く爆音。眼下の影という影を曝し上げる燐光を纏った体長六メートルほどの怪物は、一際大きな咆哮と共に口腔から熱閃を撃ち放ち、あらゆる雲を見える全天から消し飛ばした。

 そこまで頻繁に飛び回っている余裕はなかった。だから日に二回、昼夜の全力の威嚇だった。空気が焼け焦げる振動と、中空から同心円状に拡がる摂氏二○○度の衝撃波に少し遅れて、世界を揺るがす地鳴りのような音が聞こえる。氷原の向こうに蝟集いしゅうするクリーチャーたちが逃げ出していっている証拠だ。龍弥の経験上、これで少なくともブラック・クリーチャーは追い払うことができる。レッド・クリーチャー、丹泥種たんでいしゅも、常に自分の存在を警戒し、子どもたちのもとには現れにくくなる。

 降下しながら泥を脱ぎ去り、勢いのまま斜めに海面に突っ込む。服を着たままの素潜り三○メートル。光も薄い海の中をガーネットキマイラの圧倒的な視力で網羅し、一連の動作を終えると、再び足元に泥を纏って温度差の加速で水面へ飛び出す。掻き抱いたのは、自身の腕ほどの大きさの名前の良く分からない魚が五匹。見よう見まねで狩りを始めて二週間になるが、この昼の漁獲量は悪くない方だった。



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