ある夜の真実
頭上、水面が何度となく揺れる。主砲音と合わせて、機銃がパラパラと掃射されるのが聞こえる。しかし、
「何ですか
「あぁ、ごめんよ。ごめん……」
身長一九〇センチ。まだ少し頬を凍らせたまま、人の姿に戻った龍弥は、言いながら両目から涙を流した。それは海水に乗って流れ、頬の横に線を残していく。何が何だか分からないが、已愛が生きている。やった、本当に良かった。喜びと安堵に溢れてくる涙を必死に拭い、自分を見失うまいとする龍弥の姿に、已愛は優しく笑って言う。
「ちょっと近いですけど、ここの辺りの岩場にしましょうか」
「あ、あぁ……。うん、ごめん……」
「謝らないでください。私も、皆嶌さんが無事で、何よりだと思っています」
深さ四〇メートルほどの砂地の海底。そこに小さく隆起した扁平な岩場に腰を落とした龍弥の涙をそっと細く柔らかい指で払いながら、已愛は続ける。
「これまでのことを、お話しします」
彼女が語って聞かせたことは、ほとんど龍弥の想像と合致していた。アジア圏
「
言って、龍弥の隣に座った已愛は、鎧の隙間から小さな瓶を取り出し、投げ上げた。中身が弾け、小さな粉が海流に乗って発光すると、それは月明かりを助けて淡く二人の岩場を照らす。夜の海底。幻想的な景色の中、龍弥はふとある言葉を思い出した。「プランクトンがたくさんいて、一夜に一回輝くんだって母さんが言ってた」。数日前の浜辺、確か話していたのは……。
「そうだ。已愛、ガーデナーはどうした。仲間なんだ。ガーネットキマイラはほとんど撃滅したって話だったけど、まさか――」
「――
慌てて問いかける龍弥の言葉を遮るように、已愛は別の名前を出した。
龍弥の能力は『行使されていない他人の能力を行使できる』というもの。その能力で周囲の能力者の能力の起動状態を知ることができる。加えて、カリフォルニアでの生活で、その常時探知範囲が周囲五キロメートル程度であることが分かった。あの広さの建物の中で能力が感知できなかったということは、つまり生きてはいないということではないのか。それに、已愛自身が、その口で、『処分した』と言っていなかったか。不安と疲労と混乱に満ちた龍弥の表情に、そのまだ少しだけ凍った右頬に暖かく触れながら、小さな少女は続ける。
「令吾さんも、
氷が完全に熔ける、と同時に、龍弥の目の前に、『自分より小さいものに害されない』能力の反応が探知される。ふと思い返す。そういえばあの戦艦の上にいたはずの已愛の能力も、いままでずっと観測できなかった。どうしてだ。着ている黒い鎧に関係あるのか。思考する龍弥だが、已愛の続いての一言が、すっと悪夢のような別の事実を彼に突き付けた。
「『奇跡館』計画の目的は、私に、被検体である皆さんの能力を充填し、丹泥種を遥かに凌駕する力を持ち、かつ制御可能な、人類最強の生体兵器を作ることにあったんですから」
まぁ、想定外の丹泥種の襲撃と、そのあとのごちゃごちゃのせいで、皆嶌さんと、ロウズさんと、純さん、それから半人型丹泥種第一号のオートノミーには上手く逃げられてしまったわけで……はは、詰めの甘い話ですよね。已愛は、困ったような顔で頭を掻き、照れ笑いを浮かべる。その仕草に、龍弥は初めておぞましい何かを感じた。少女は何でもないような様子で続ける。
「半人型丹泥種は、恐怖すれば恐怖するほど強い。その点で、皆嶌さん、お人好しで心の弱いあなたは最強です。本来の目的ではないですが、東京湾からここまで四体の半人型丹泥種を葬ってきました。あなたほどの熱量出力はいませんでしたよ。隊長と副隊長が身を投げて、様子を見に来たら、まさかまだ生きているなんて」
素晴らしいと言わんばかりに水中で拍手をする已愛。
「向日葵の能力者から聞きました。『奇跡館』から私たちを助け出そうとしてくれていたんですよね。でも、もう大丈夫です。みんなここにいますから。さぁ、皆嶌さんも、ロウズさんも、こっちに。私には、あなたたちの力が必要です。――共に、ヒーローになって、人類を救いましょう」
彼女が手を伸ばす。明かされた事実が、龍弥の脳を深く曇らせる。馬の丹泥種から始まってここまで全力で戦い続けて三〇分と少し、全てを失って一〇分ほど。ストレスは振り切れ、身体の限界はとっくに超えた。気を張り、疲れすぎて、頭が追い付かない。ただ眠たい。もう、何も考えたくない。目の前の
「違う。何か間違ってる気がする。良く分からないけどさ、私たちと一緒にいた已愛じゃないでしょ。あなた」
口をついて出た女性の口調。全く意志と関係のない動きをした自身の身体に驚く龍弥に、眼前の少女はいらついたような表情で言う。
「えぇ、やだなぁ、私は私ですよ……? それに、そんな酷いことをするなんて、あなた本当に
違う。いまのはロウズだ。そう龍弥が訂正の言葉を上げるより先に、目の前の已愛の背負った冷気パックが甲高い音を立てた。自爆だ。そう思ったときには、もう遅い。くぐもった爆発音と、立て続けてパキンと氷が割れる音。舞い上がった海底の砂煙。両手の凍った龍弥が数歩距離を取り、波に砂が流れていく。その奥から現れたものを見て、身長一九〇センチの大男は驚愕した。
海底に咲いた氷の華。中心に立つ、榎木園已愛の裸体。全身の皮膚はいつか彼女が飲み込んだ薬物の飽和液のようにサイケデリックな色に染まり、内部から張り上げて、いまにも人の形を崩しそうなほどうごめいている。少なくとも彼女のサイズに納まるはずないものを、彼女の能力が強引に押さえつけている、そういった様子だ。
「『奇跡館』の三人と半人型丹泥種四体、私自身も含めて合計一二の能力を、いま私は備えています。龍弥さん、どうか自分からこの手を取ってください。私を助けてください。私だって、あなたを傷付けるようなことはしたくありません」
お前に勝ち目はないからさっさと取り込まれろと彼女の瞳は言外に告げていて、そんな冷たい已愛の表情を龍弥は初めて見た。疑念が強まる。已愛はこうではなかったと思う。助けて欲しい、傷付けたくない。それらの言葉は、明らかに彼女の本心から来るものではなく、自分を言いくるめるために振り撒いた薄っぺらい嘘であることは分かり切っていた。そしてその嘘が看破されようがどうでも良いというような強者の驕りに近い態度を、彼の知る『奇跡館』の已愛は決して取らなかった。
変わってしまったのか。だとしたら、何が彼女を変えたのか。数歩後退りながら思考する龍弥の左斜め上で、一際大きな激震と何かが海面に墜落する音がした。角ばった黒い影。見上げると、鋼色の鉄塊が水を圧搾しながら爆発的な勢いで二人に迫っていた。戦艦の主砲塔の一つが、甲板から弾き飛ばされて落ちてきている。そう気付いたころには、龍弥は目の前の小柄な少女のサイケデリックな色をした手を掴んで引っ張り、落下地点から距離を取っていた。
「……正規兵のムシケラ共が雑魚を相手に手間取りやがって。――あ、龍弥さん、すみません、ありがとうございます。私の方がずっと強いのに助けてくれるだなんて、やっぱり龍弥さんは龍弥さんですね」
おぞましい表情で悪態をつき、また百面相のような器用さで柔和な笑顔を向ける已愛に、龍弥は今度こそいやというほど理解した。
已愛は変わってしまったか、元々そうであって『奇跡館』での姿は偽りに過ぎなかった。疲労とストレスで眩暈がするほど悲しいが、このまま已愛の言うとおりにしてしまっては、絶対に誰のためにもならないという確信があった。距離を取り、身を赤い鶴に変える。龍弥の臨戦態勢を見たサイケデリックな彼女は、悪魔染みた笑みを浮かべたあと、一転いまにも泣きそうな表情になって言う。
「助けてくれないんですか? 『奇跡館』のときみたいに。また私たちを置いていくんですか。
感情が乗り、訴えかけるような彼女の言葉は、しかし、あまりに空虚に響いた。龍弥に動揺した様子が見られないのを見て取ると、彼女は烈火のように激昂してみせる。
「最低です、龍弥さん。あなたには心がないんですか。家にいつもいて、働きもせず、酒を飲むたびに私とママに暴力を振るった私の父親と一緒じゃないですか!」
もう何も考えたくない。それくらいぼうっとする脳で彼女の叫びを聞いていた龍弥は、しかしどうしようもなく一つ疑問に思った。彼が『奇跡館』で彼女に聞いた数少ないこと、その一つを問い返してみる。
「已愛、君の父親は、登山家じゃなかったか……?」
「え……」
時間が止まった。目の前、サイケデリックな闇ですべてを着飾ったような振る舞いをしていた彼女の表情が、一瞬、虚を突かれたように固まった。
「……あ、あぁ、そうでした。登山家。登山家です。それはそれはしょうもない登山家で――」
それも間違いだ。已愛の父親は高名な登山家で、その生き様に彼女は憧れたという。だが、目の前の彼女は已愛は決して意図して嘘を吐いたのではないだろう。首を傾げた龍弥の様子にビクッと肩を震わせ、真実を語る無音を圧し潰すように言葉を紡ぐ。
「わ、私の父親の話なんかいまはどうでも良いことです。どうあったって、」
しかし、彼女の言葉は最後まで続かなかった。魚雷のように超遠距離から撃ち放たれた大岩が、海中を裂いて、彼女を吹き飛ばした。そして、それを成した本人が、遠くの海岸線からとんでもない速さで走り来た。その人物に龍弥は見覚えがあったが、赤い泥に身体を包まれてはいないはずだったし、何なら生きてもいないはずだった。能力が観測できる。紋章権能生体ソース、戦死した兵士。
どういうことだ。龍弥が慌てて探すと、確かに能力の反応がある。『一秒後の未来を予期し続ける』カノート・エスリム以外の全員の能力がとんでもない強度で振るわれている。戦っているのだということは、ずっと聞こえている頭上の戦艦の砲撃音からすぐにわかった。どうしていままで能力の反応が探知できなかったのか。また、純のありさまはどういう訳か。そういったことを考えている暇はなかった。途中まで走っていた巨人が、急に足をもつれさせて倒れる。
「――どうあったって、あなたたちはここでおしまいですから」
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