ある夜の戦い 海底

「半人型丹泥種、熱的危機により臨界しています! みなさん、早まらないで、一旦距離を取って、あぁ――!」

 叫ぶ女性の声を背景にして龍弥りゅうやの目に映ったのは、正面からこの怪物の威容に全く躊躇わずに懐に飛び込んでくる男女の姿だった。

 それが男女だと分かったのは、太陽にも似た龍弥の熱に当てられて、頭部を覆う仮面が熔け、浅黒く変色していく顔が見えたからだ。どちらも凛とした表情に熱波に煽られた短い黒髪が揺れる。死への恐れを深く胸中に沈め、ただ全てをかけて目の前の怪物を討つ。厳とした覚悟を秘めた瞳に、気圧される。

 どうして、彼らが自分に襲い掛かって来るのか。龍弥には何となく見当がついてきた。ガーネットキマイラたちとアジア圏の新世界方形原領域の交渉は、恐らく失敗に終わった。そして、新世界方形原領域は、クリーチャーと同様にガーネットキマイラや能力者を敵とみなして、掃討するという方針を取ったのだろう。

 幻覚が見える。滅んでしまったサン・フランシスコも、ロサンゼルスも、他の街も、きっと同じように戦ったのだろう。彼らの双肩に背負われた多くの命が透けて見える。この怪物を仕留め、みんなを護るにはこれしかない。眼前の二人の瞳には、うっすら涙さえ浮かんでいるのがわかる。

 見つめ合った時間は、一秒にも満たなかったと思う。直後、超然的な怪物になり果てたはずの龍弥の身体は、再び半分以上凍って、戦艦前方の海面に叩き込まれた。冷気の容量は、一つにつき戦艦主砲弾三発分。二人の背負っていた容器が音を上げ、彼らの柔らかい身体を鎧ごと引き裂きながら自爆した。計六発分、戦艦の前部甲板二基の三連装主砲弾全ての直撃を受けたに等しい衝撃に、淡い思考も途切れ途切れのまま赤い怪物は深さ二〇メートルほどの水底に頭を打つ。

 死んだ。目の前で、また誰かが死んだ。塩水が喉に詰まる。冷たい海底。頭上の半分を占める戦艦がゆっくりと回頭して龍弥の直上に側面をさらすのを、彼は黙って眺めていた。

 なぁ、ロウズ。何がいけなかったと思う。どうすれば、こうならなかったと思う。『奇跡館』で始末した半人型黒蝋種とか言っていた。それって、令吾れいごのことなんだろう。心の中で問いかけるが、波音にくぐもって返答が聞こえない。二番目の能力を起動すれば、ガーネットキマイラのもう一人に関する記憶が失われていく。この熱を保つ彼女がいままでよりずっと遠く感じる。

 どうしてみんな、平和で、傷付け合うことなくいられないのか。

 みんな死んでしまった。温かいものは、全て過ぎ去ってなくなってしまった。『奇跡館きせきかん』。いつか、その大広間でロウズが言っていたことを思い出す。私は、生まれて来るべきではなかったし、あのとき死んでしまえばよかった。あぁ、そうだ。ロウズだけではない。こんな思いをするくらいなら、生まれて来るべきではなかったし、一三年前のあの夜、巨大な黒い羽アリの怪物に殺されんでしまえばよかった。

 月明かりの照る銀色の水面が揺れる。赤い泥に埋め合わされて、氷が熔け、傷が徐々に塞がっていく。海中の僅かな酸素でも呼吸が出来るのは、甲蟹カブトガニの性質と何か関係あるだろうか。こんなありさまになっても、自分は死ぬことはないらしい。かといって、自死を選ぶ勇気はない。この身体でどうやったら良いか分からないし、怖いものは怖い。

 不意に、海面が激しく揺れる。戦艦が何処かに向けて主砲を撃ち放ったらしいが、龍弥にはもはやどうでも良いことだった。もう一度能力を使って全力で捜羅する。力を込めて、半径二〇キロ。しかし、海底にも、上空にも、凍った街にも、その地下の洞窟にも能力者の反応はない。全てなくなってしまった。

 何分経っただろうか。断続する主砲の振動に揺れる水面を見ていると、そこからドボン、と飛び込んでくる黒い鎧を身に着けた人影が目に映った。足を滑らせたのか。なんて気楽な想像をするが、違う。自分を始末しにきた。足を下にして、腰のスラスターで制動しながら、泡に包まれ、ゆっくりと降下してくる。ざわざわと、頬に触れる波の感触。徐々に近づく小さな身体。少女といっても良い。思い出す。確か、あの黒い鎧の部隊で、カメラを携え声を上げていた誰かだ。

 龍弥は考える。彼女一つ分のボンベを使った爆発くらいでは命の危機には陥らないだろう。もしかしたら別の算段があるかもしれないが、また死なれるのは嫌だ。静かに息を吐く。彼女が龍弥の隣に降り立つ直前、赤い怪物の身体がガバッと動いた。砂地を蹴って飛び上がり、黒い鎧の上から右手で少女の身体を掴んで海底に組み伏せる。莫大な粉塵が舞い、直後に吹き晴れる。左手を直上に向け、分かりやすいように熱と光を集める。

「君が自爆したら、この船を沈める。だから――頼むから、死なないでくれ」

 龍弥は祈るような気持ちで脅した。彼らにとって自分は怪物に過ぎなくて、その言葉が信じられようはずがなかった。そうでなくても、既に仲間を二人失っている。そんな彼女が、仇討ちのために一人倒すべき敵と心中を図ることは、十分にあり得る話だった。

 しかし、こけおどしではない。鶴と甲蟹が混じり、もはや鱗を備えた赤い飛龍のような見た目になった龍弥の身体。その左腕からの全力の一撃をもってすれば、特殊素材で作られているらしきこの戦艦にも大きな打撃を与えることが出来るだろうことは、目の前の鎧の少女にも分かるはずだ。自分が死ねば、より大勢を殺す。彼ら人類の希望のはずのこの船を海の藻屑に変える。もし、突然組み伏せたことによって、思考が一瞬断絶したに違いない彼女が、冷静さを取り戻し、これ以上ないほど尤もらしいこの嘘を真に受けてくれたなら、あるいは……。

「――それは、嘘ですね」

 そう、嘘――え、どうして。赤い怪物の心臓は、この死地から離れた静寂の中にあって、一番大きく脈打った。少女が放った言葉は余りに穏やかに龍弥の胸に届いた。組み伏せられた彼女はゆっくりとその黒いマスクに触れる。現れた懐かしい少女の顔に、息が止まった。マスク越しに加工された声が、生の透き通った声に変わる。

皆嶌みなじまさんは、そんな酷いことをする人じゃないはずです」

 榎木園已愛えきぞのいあ。黒い鎧から顔を出した『自分より小さいものに害されない』能力者の少女は、唖然として赤い泥の剥げた龍弥の手を力いっぱい弾くと、立ち上がり、先導するように月明かりの零れる砂地を歩き出しながら、海中をものともしない口調でこう続けた。

「まず、邪魔をされずに、話ができるところを探しましょうか」

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