ある夜の戦い 海上
静かに走る。生ぬるい風を受け、カラフルに色付けられた壁画たちを視界の端へ追い抜きながら進む。身体から漏れる炎の赤が、過去から未来に向かう歴史の断片たちを照らしていく。暫くすると、視界の彼方の廊下に光が差しているのが分かる。その奥は焼けただれた一面の墨色。十数分前、丹泥種を地上に持ち上げた場所だ。
何だ。何か嫌な予感がする。乾いた焦りを感じながら、足を進める。階段を上って正面、ずれて動いた書架、その奥に現れた扉。扉を隔てた向こう、子ども部屋。そこに、みんな避難しているはずだ。
だから、何も言えなかった。デジャブかと思った。すっと、クローシェの子ども部屋の扉が内側から熔け落ちる。熔け落ちて、現れる。――巨大な角ごと泥に身体を満たした、禍々しい血に似た赤いサイが。
喉が干上がり、思考が止まる。目が泳ぐ。無事だ、無事なはずだ。能力を使う。だが、現れない。龍弥の能力が網羅できるはずの範囲に、能力の反応がない。ミネルヴァ自身が瞬間移動能力を使っていないことは分かっている。だから、近くに居るはずだ。それなのに、純も、ミネルヴァも、カノートも、ファーガルも、その能力を観測できない。あのときと同じだ。『
「う、ぁああああああああッ!」
恐れていたことが現実になった。涙の代わりに、体中から赤い泥が溢れ、音もなく全てを覆っていく。傷を埋め合わせる泥が、全身を満たし、鶴を象るまでになっても足りない。欠けていて、冷たくて、取り戻しようがない。あぁ、まただ。温かいものは、過ぎ去って、失われてしまった。短い月日だった。トレーラーのみんなの姿が脳裏にフラッシュバックし、絶望の熱量を上げていく。
咆哮。甲高い鶴の割れた鳴き声が破壊された写字室に木霊する。死を恐れるほどガーネットキマイラは強力になるらしいということは、暗く沈んだ龍弥の脳からは奇麗に抜けていた。
つらい、寂しい、何処にもいない。仲間の死への恐怖だけが全身を満たし、他の理性的な何もかもを熔かし尽くしていく。胸の内にわだかまった悲しみが、喉にせり上がって口元の火を得る。こんなにつらいときには、自分には絵しかなかった。なぁ、そうだよな、と心に問いかけるが、静まり返って何も応えてくれない。
もはや、サイなど目もくれない。上を向く。耐え切れない絶望を吐き戻すように、鶴の口腔から青白い閃光が撃ち放たれる。気付けば、鶴の身体は暗く沈んで凍ったサンノゼの街の上空にあった。地上からの冷気に身を縮ませながら地面に降り立った鶴に向けて戦艦の六つの主砲門が火を噴く。追って出てきたサイが音速の弾丸三発に吹き飛ばされて凍り付くのを尻目に、血濡れた色の脚を動かす。
どうして、あの船はこちらに砲を向けて撃ったのだろう。日本国旗がある。あれは、かつて寄る辺の印だったはずだ。夜の闇と氷が覆ったサンノゼの街で、たった一羽。奇怪な鳴き声を上げながら翼をばたつかせ、呼び掛ける。お願いだから、助けてくれ。ここは暗くて、冷たくて、寂しいんだ。
しかし、返ってきたのは変わらぬ砲撃だった。激震と共に水平の果てが瞬いたのと同時、空を切り裂く音の後に、周囲の地面が鮮やかに爆発して凍り付いた。本能で全弾を躱した鶴は、いよいよわけが分からなくなって、水平線の方向に爆発的な速度で赤い翼を羽搏かせる。
轟音。視界が大きく揺れ、緊急事態を示す警報音が駆け巡る。特殊な加工がされているらしく、赤い怪物の突進は、艦橋の横面の鉄板を数センチ凹ませるだけに終わった。軽快な足音が甲板に響く。またふわっと飛び上がった鶴の眼下に、黒い鎧を纏った一〇人程度の特殊部隊染みた男女の姿が映る。全員が長方形の鉄製の容器を背負い、腰に黒光りする何かの機械が見え、袖口からは直径二センチほどの噴射口が覗いている。一番後方に立ち、カメラを携えた小柄な少女が言う。
「
直後、正面、部隊長と思しき人物が、カッと床を蹴る。黒い鎧の人々の腰の機械はブースターだったらしく、爆発的な空気を噴射しながら、流れるように鶴に近付いて、風に揺れる袖口を赤い怪物に向ける。が、鶴も気が付いていた。自分に危害を加えようとしているのはそれだけではない。背後、主砲塔の上に伏せた一人、艦橋の裏に隠れた一人、他に船体左右の機銃座に身を潜ませている二人ずつ四人、累計六つの長銃の口腔の底抜けた闇がこちらを向いている。
想定通り、重なった射撃音は七。そのどれの軌道からも逃れるように直上へ飛び上がった鶴の脚が中空で凍り付いた。加速がついた身体から、突然くいっと地面に引かれる感覚に、龍弥は意識を取り戻す。周囲を確認するまでもなく、分かった。七発の射撃、それは全部躱した。しかし、結論から言えば、それも陽動に過ぎなかった。水平方向三六〇度を包囲する射線で逃げ場を奪われ、安易に高度を上げた。その地点に、射撃に一手遅れるタイミングで炸裂するよう、周囲を凍結させる迷彩色の手榴弾が投げ込まれていた。合計十数個の鉄塊。足を縫い留める一発の起動から刹那の間も置かず、その全てが、燃え立つ龍弥の皮膚から一〇センチ以内の位置で、いま、弾け――。
「がぁああああああああああ」
叫んで爆発的に体温を上げるが、当然間に合わない。身体を覆う泥が全て凍り付き、その冷気は真皮まで染み、髄、果ては心臓の動きを止めようと凄まじい速度で迫る。身体の中心から熱が流れていく。気温摂氏一五度。ミサイルによって冷気に沈んだサンノゼの海岸線。その温度まで、ゆっくりと体温が下がっていく。
ただの丹泥種なら、ここで終わっていただろう開幕の一撃。しかし龍弥には、武器があった。燃え立つ空色の剣、それは彼の意思とは関係なく一人でに中空に現れ、凍り付いて丸まった龍弥の背中に勢い良く突き立った。鋭い痛みと共に、意識がはっきりする。同時に、核融合炉に燃料棒を突っ込んだように、爆発的に熱量が上がる。背の氷が縦に裂け、昆虫の羽化にも似て、内側から闇夜を裂く熱圧の翼が伸び、拡がる。
頭上に円を描いて火が駆けると、軌道そのままをなぞり直すように、虚空に光輪が浮かび上がる。あまりの熱量に全身を覆う氷が爆発し、血肉と合わせて飛び散った水が怪物自身の眩い光に照らされて虹色を帯びた淡い霞に変わっていく。
龍弥はもはや、ただの鶴とは違っていた。身体の傷を埋め合わせるための泥は堅牢な甲殻を形成し、臀部からは鋭く伸びた二メートル程度の尻尾が生えている。鋼の艦に昇る冬の夜の日。体長六メートル超、頭に天使の輪を冠し、炎の翼で宙に浮く。鶴と甲蟹を混交した神々しい怪物は、しかし直後、大きく目を見開いた。
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