ある夜の戦い 中空

 圧倒的な熱量で覆い被さった数万トンの土塊を内側から熔かしながら進むこと三秒と少し、龍弥りゅうやの身体が飛び出したのは、サン・パブロ湾を彼方の眼下に望み、シリコンバレー中央に位置する、西海岸主要都市の一つ、凍り付いたサンノゼ市街地の上空だった。

 子どもたちと距離を離すことには成功した。こんな勢いで戦っていれば、黒蝋種こくろうしゅがあの写字室のある場所まで近づいてくることはないだろう。しかし、もし赤い怪物がもう一体、子どもたちの近くに現れたら、そのときは……。

 嫌な想像をしながら街の中央にある西海岸最古の州立大学の半壊した言語学部棟の天井に降り立った龍弥の身体が、不意に傾いた。短時間ながら、丹泥種を一方的に抑え込むような出力。いきなり大きく力を振るったことで、龍弥の身体を覆う泥はその半分近くが剥がれ落ちていた。

 眼下の大学中央通り、いままで押されてばかりで余力溢れる赤い馬が激しくいななき、地面を蹴って、生身のガーネットキマイラに直撃すれば即死させる勢いで体当たりを仕掛けてくる。しかし、足場が良かった。鋭利に傾いた屋根、その表面をコーティングした氷塊は、熱のあるものが触れただけでとても滑りやすくなる。激しく巡る視界。バランスを崩して転げ落ちる自身の右手数センチの位置を紅蓮の暴風が通過するのを肌で感じながら、龍弥はまだ冷静な頭で勝機を探した。

 そして、それは嫌でも目を引いた。彼方数キロ先の西海岸。夕陽が没したばかりの水平から立ち上り、プラズマを纏って揺れる幕を下ろし、凪いだ水面に照り返す幾条の弾道。アジア圏の新世界方形原領域から撃ち放たれた、緑色の翼、凍結ミサイルだ。

 新世界方形原領域ノア・クアドラータの外縁には、クリーチャーの侵入を妨げるために冷凍線という冷気ガスを噴射するパイプが張り巡らされていたという。結果それが現れた赤い怪物と大量の黒い怪物の群れから人々を護ることが出来なかったとしても、さらに威力を跳ね上げた周囲数キロを氷原に変えるような一撃であれば、丹泥種たんでいしゅに対してそこそこの打撃になるはずだ。

 彼方から迫るミサイル群の軌道は分かった。最も近く、軌道の低い一つは……。すっと、頬を涙が伝い、顔面を大きな紋章が覆う。龍弥の手に空色の剣はもうない。代わりに、足の筋肉がその質と量を増していく。

『ファーガル・ムーア、紋章権能生体もんしょうけんのうせいたいソース、圧死した笹切ササキリ

 下半身の膂力を圧倒的に強化する。借りた快活な金髪の少年の能力は、単純故に強力な利点を龍弥にもたらした。転がり落ちて辿り着いた地面を腕で弾き、再び中空に躍り出る。紅蓮の翼を拡げ、急制動。殺気。爆音と共に背後の経済学部棟が崩壊する。足場にしていた凍てつく校舎の壁を破砕し、その反動で一直線の軌道を描きながらとんでもない速度で迫ってくる馬の胴体を、振り向きざまの右足で全身全霊を籠めて蹴り上げる。

 砲撃にも似た地響き。凍り付いた西海岸最古の州立大学から赤い身体が弾丸のように撃ち上げられ、自分のきき足の骨が粉微塵に砕ける感覚が淡い痛みと共に伝わってくる。ふらつく身体。運動エネルギーを渡し切り、一五メートル下の地面に墜落する。

 能力者になる前の自分なら確実に死んでいる高さだが、不思議と何の恐怖もない。仮にそのまま地面と激突することになったとしても、この身体では怪我を負うことすらないだろう。頬を撫でる冷たい風。昨日ハイエナと戦ったときは必死過ぎて気付かなかったが、やはり自分は人間離れした何かになってしまったようだ。仰向けに落ちながら透き通った思考で他人ごとのようにそう思った龍弥の視界の中央に、一つの閃光が奔った。凍結ミサイル。その一つが狙い通りの軌道を描き、雲を冠するほどの遥か上空で、蹴り飛ばされた赤い馬に直撃する。

 冷気が吹き荒れ、頭上に赤い馬を内に閉じ込めた巨大な逆円錐の氷塊が形成される。完全に夜の帳が降り、空に星々がきらめくころ。全長六〇〇メートルと少し、ひっくり返したスカイツリーくらいの大きさのそれが、馬鹿げたサイズの隕石染みた圧力でサンノゼの中心街を纏めて跡形もなく耕してしまったのを、赤い翼で宙を駆けた龍弥は中空から静かに眺めていた。

 マグニチュード2程度の地鳴りと共に氷が粉微塵になったあと、月明かりに照らされ静まり返った大地に丹泥種の気配はなかった。周囲をくまなく探すが、赤い影はみられない。間違いない。凍結させられたことによって、相当な体力の消耗があり、消滅したらしい。よし。怪物の目に見える弱点が一つ分かった気がして安堵した龍弥は、もう一つの信号を自らの能力から受け取った。

 能力が観測される。『追われる限り逃げられる』、そうした力を行使した誰かが西海岸の彼方の水平線から爆発的な勢いで迫ってきている。超然的な視力で以て目を向けると、暗くて誰かは判別できないが、一人の人影が水面を滑っているのが見える。時間をおかずその奥から、水を割り月明かりを返す鋼の威容が現れる。広い前部甲板。鎮座する二基の各三連装の主砲塔の大口径の砲門が、屹立する艦橋を背景に、唸りを上げて旋回する。全長三〇〇メートル程度、最大級の大きさの戦艦。何もかも現実離れした映像の真ん中、突如見慣れたものが龍弥の目に飛び込んでくる。休日。大学を集合場所にして友達と遊びに行くときに、正門に掲示され、いつも視界端に見えていたもの。戦艦の艦橋にはためく、白地に赤の円、日の丸、日本国旗だ。

 自衛隊にあんな艦船なんて配置されていなかったはずだ。思考する龍弥の遥か前方で、主砲塔が旋回を止めた。落雷にも似た轟音。水平の彼方に閃光が瞬き、次の瞬間、六発分の砲弾がサンノゼの街に突き刺さった。

 うち一発が、龍弥の頬をかすめて背後の氷塊をさらに固く凍らせる。ただの火薬による主砲弾だったなら、空色の剣を握った龍弥が撃ち返すことだって出来たかもしれなかった。けれど、違った。骨折の比ではない、掠って冷気を舐めただけの頬に刺すような痛み。触れた右頬の皮膚は、凍り付いて固く、身を覆い傷を埋め合わせる赤い泥もそこからは新たに生成される気配がない。冷凍線や、凍結ミサイルと同じだ。冷気は、クリーチャーにとっても、龍弥たち能力者にとっても、致命的な一撃になる。それが、兵器化されて殺傷力を高めたものならなおさらだ。

 二回目の閃光と地鳴り。今度はもっと正確に、龍弥を狙って六発、直撃すれば恐らく即死だろう弾丸が迫ってくる。しかし、温暖化と黒蝋種たちによる大地の熔解によって内陸に大きく浸蝕した海岸線とサンノゼ市街との距離は六キロと少し、ここまで離れていれば、丹泥種の突進よりはずっとまともな対応が取れる。瞳から涙を流し、全力で飛び上がる。放物線に従って着弾した砲弾が大学から向こうのサンノゼ市街をさらに深い氷に閉ざしたのを確認し、空色の剣を握る。

 魚が水面に撥ねるように、疎らな雲から飛び出して、急降下。身体から漏れる赤い火炎と空色の剣の青い光が、折り重なって闇夜を切り裂く一条の柱となり、爆音と共に凍てついた街に大穴を開ける。

 遠方から三回目の射撃音。直後に、龍弥の耳に響いたのは、ずっと離れた位置に六発の氷結砲弾が着弾した音だった。空色の剣はもうない。『洞窟から洞窟へ瞬間移動する』。借りたミネルヴァの能力によってぶれた視界に、壁画が飛び込んでくる。

 この周囲の土地は大体凍ってしまって、洞窟という洞窟がなくなったのだろう。龍弥が瞬間移動した先は狙った通り、子どもたちのいるアカシックレコード群の窟路だった。目の前の壁画は、世界史の教科書で知っている。「ヘースティングズの戦い」のものだ。記憶と、ガーネットキマイラの力で分かる。確か一〇六六年。クローシェが解説してくれたケーニッジ写字室周辺の壁画は一三世紀のものが多かったから、廊下に刻まれた矢印方面に進めば、子どもたちのもとに辿り着けるはずだ。

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