ある夜の戦い 洞窟

 沈黙。時間は流れていく。次から次へ本を取り出しては、『叙述された銀河たちナラティブ・ギャラクシー』に翻訳させて回るじゅん、本に完全に飽き、ふわふわ飛んできた青く光る座布団を捕まえて、キャッチボールを始めるミネルヴァとファーガル。立ち上がり、浩瀚な一冊を手に取ると、真剣な表情でページを捲るカノート。十人十色の音や息遣いが入り混じる図書室の中で、龍弥りゅうやはただひたすら静かに凹んでいた。

 やらかした。自分の四分の三くらいしか生きていない、日本で言えば中学三年生相当の少女に、気を遣わせた。彼女自身、相当なショックを受けていることは明らかなのに。昨日、彼女と会話したとき、その優れた容姿と精神性に嫉みを感じた自分のことを酷く恥ずかしく思った。

 ガーネットキマイラ:アーチスト。自分には唐突に得た超然性と強大な力があるが、結局のところそれ以外に何があるだろうか。可能性に溢れ、将来のある子どもたちや、倫理観以外はほとんど完璧超人のような純。彼らに比べれば、二〇歳であること以外に大人として足りる要素のない凡愚の自分は、ほとんど全てにおいて劣っている。

 ガーネットキマイラになって、視力や聴力は圧倒的にその精度を増し、思考もずっと研ぎ澄まされた。けれど、それは本当のところの自分からの積み増しに過ぎず、とんでもなく能率の悪い機械に油をさして多少マシにする程度のものだったのではないだろうか。燃え立つような赤い髪。一九〇センチを数える巨体。ときおり泡立つ肌に、溢れ出る威圧感。丹泥種たんでいしゅと戦い、恐怖という人らしい感情を強く取り戻したいま、身にまとうこの超然性さえ、矮小な自分をごまかすための飾り物に思えて、龍弥はますます意気消沈した。

 とはいえ、勝手にやらかして勝手に凹んでばかりもいられない。励ますようにか、あるいは責めるようにか、頭の上でぽんぽんと跳ねる座布団の心地よい重さを感じながら、ふと龍弥は思考を切り替える。距離六〇〇キロメートルのアカシックレコード群。その修復や保護を担当する人工生命体『叙述された銀河たち』は、どういう仕組みで動いているんだろうか。二つともひょいっと捕まえて、しげしげと眺めてみる。水銀を思わせる冷たく柔らかい質感に、滑らかな青色のボディー。ちょっと強く押してみると、やめてくださいと言わんばかりに微振動し、色が赤い警告色に変わって激しく点滅した。あっ、ごめんね。そう言って撫でながら元の静かな色に戻して辺りを見回す。

 図書室の照明代わりになっている光る座布団。壁や天井の梁の灯火袋とうかたいに納まったそれらは、いつの間にか緑色の光に変わっていて、『充電中』という文字が浮き出ている。良く見ると、壁を覆う書架の中に本に紛れて複数、大判の図鑑ほどの大きさでプラスチック製の蓄電池パックが置かれていて、そこからコードが壁伝いに伸びている。灯火袋は図書室に七つ、クローシェの部屋に一つ、合計八つ分あった。純が連れまわしている一つ、ミネルヴァとファーガルが投げ合っている一つを考えれば、ちょうどこの二つ分が空いていることになる。龍弥の膂力で押されるよりは危機感を覚えていないらしく、金髪コンビに弄ばれている方の座布団はまだ青いままだ。

 あんまり苛めてやるなよと声を飛ばした龍弥は、手に持った座布団二つを図書室一階の壁面と梁の袋の中に収め、閲覧席に戻って、ナイロン製の柔らかい長椅子に腰を下ろす。淡く留まった緑色の光と揺れ動く青色の光。少し時間が経って眠たくなったらしく、隣に座っていた少年カノートが倒れ掛かってくる。彼の手にある浩瀚な本が落ちないようにすっと支えて椅子の上に置くと、必然的に膝枕のような姿勢になった。

 ミネルヴァとファーガルも遊び疲れた様子でふらついているのを、純が一人ずつ抱えてきて、椅子に寝かせる。純と金髪コンビが持ち出していた座布団はその光量を落とし、ちょうどいい感じの枕になって、眠る小さな女王様と快活な少年の頭の下に置かれた。

 彼らの慣れ親しんだガーデナーがいなくなって、丹泥種にも襲われた。口や表情に出さないだけで、身も凍るような混乱や恐怖があっただろう。疲れが溜まっていない方がおかしい。三人揃って寝息を立て始めた子どもたちを見下ろして、龍弥に視線を戻し、純は慈愛に満ちた父親のような口調で言う。

「しばらくそっとしておいてあげよう。きっと、昨日は気が張って眠れなかったんだ。トレーラーに戻って時計を持ってくるよ。どう考えても洞窟より安全だから、晩御飯はみんなでここで食べよう」

 火が消え、床に置かれた二つのランタンを持った純は、照明代わりの座布団を灯火袋から呼びつけて頭の上に置くと、図書室をあとにした。

 あぁ、純には嘘がないのか。一人取り残された龍弥は思った。思うさま出鱈目を言い、簡単に他人に武器を向け、撃ち放つ。かと思えば、花火で子どもたちを楽しませ、トレーラーを襲った丹泥種を迎撃し、重苦しい空気を誠意ある言葉で前向きなものに変える。彼は、その場その場で思っていることとしていることに齟齬がほとんどない。あるのは、デナリ山でファーガルとカノートを助けたときと、昨日の夜、引き金から指を外したときくらいだ。龍弥と同じかそれ以上の超然さを誇るオートノミーにさえ武器を向けた彼が龍弥の意を酌んだのは、明らかにガーネットキマイラの武力のためではない。純自身も言っていたとおり、自分に何かを見出して素敵な人間と思ってくれているからだろう。

 一時間後にはどうなっているか分からないが、ともかくいま、純は本気で子どもたちを大切に想っている。そのことについての感謝を伝え、時計を持って帰ってきた青年と他愛ない会話を続けること少しして、涙を拭い、彼女の思うところの決意に満ちた表情になったクローシェが階段を下りてきた。

「二人とも、お伝えしたいことがあります」

 彼女が言ったことは二つ。

 一つは、彼女が両親から受け取った誕生日プレゼントの本の後付けに、以下の文章が書いてあったこと。

 

 創世記 三章一九節をみよSee, Genesis 3:19

 

 もう一つは、この距離六〇〇キロメートルのアカシックレコード群の第六区画以外の全ての区画がクリーチャーによって粉微塵に破壊されてしまったことを『叙述された銀河たち』の報告によって確認したこと。

「創世記は、私の両親が修復図案を担当しました。この部屋の図書室のものも確認しておきますが、壁画のことだと思われます。でも、壁画は……」

「怪物たちの攻撃で全部壊れちゃったってわけだ。龍弥くんの頭に乗ってポンポンしてた手持無沙汰の二つは、他の区画を担当して避難してきたものってことかな」

 永遠に保存されておくことを目的として作られたこの長い洞窟も無事では済まなかったらしい。恐らく自分が訪れて、ガーネットキマイラの威圧を無意識に撒き散らしていなければ、いまにこの区画もサン・フランシスコのシェルターのようにクリーチャーの波に呑まれていただろう。美しいブロンドの髪が揺れる。握りしめたクローシェの拳が悔しさに震えているのが見える。

 怪物どもに覆われた世界、サン・フランシスコで自らの娘が再び目覚め、ケーニッジ写字室まで辿り着くことを信じた彼女の両親は、何かを残したようだった。創世記の壁画。この洞窟のものは既に破壊されてしまった。確認するには……。

 顔を上げた龍弥の目、その視界に映った灯火袋が、一斉に赤く変色して明滅した。直後、爆音と激震。図書室の梁が軋みを上げ、多くの本が書架から転げ落ち、子どもたちが慌てて飛び起きる。この洞窟の上、そこに何か落ちたのだと気付かない方がおかしかった。

 その何かははっきりしている。今日の昼を時限として、全世界に撃ち放たれることになっている凍結ミサイルだ。着弾と共に半径五キロメートルほどを氷河に変える一撃は、その二回目の直撃を以て、龍弥たちに彼らが危機的状況にあることを理解させた。

「西海岸でここ以上の深度と強度を備えた地下施設はありません。落ち着いて、収まるのを待ちましょう」

 クローシェが叫び、慌てて逃げ出しそうになった他の子どもたちを呼び止める。また怖いことが起こっている。泣き出しそうなミネルヴァとファーガルを純が強く抱きしめ、表情は変わらないものの少し震えているカノートの手を龍弥がぎゅっと握る。

「クローシェ、ありがとう。でも、君も無理はしなくていい。危ないからおいで」

 出来るだけ優しい口調で言う。どれだけ立派な決意や、高尚な精神があろうと、怖いものは怖がっていい。それは、生来の龍弥が凡庸であるからこそためらいなく言い切れるものだった。この施設のことを一番知っている私が、みんなを助けなければ。緊張と使命感に張り詰めた彼女の表情が、龍弥の言葉に弛緩していく。筋肉質に伸びた龍弥の右手。それに、健康的できめ細かい小麦色の手が繋がれる、一瞬手前。

「龍弥くん、扉だ!」

 カノートがびくんと顔を上げたのと、それに気付いて純が叫んだのはほぼ同時だった。何を考えている暇もない。弾けるように動く。図書館入り口で青い燐光を放つ重厚な鋼の扉。一瞬で少年の腕を振りほどいた龍弥は、そこから寒気がするほどの静かさで丁度首を出した赤い馬の頭に、燃え立つ空色の剣を突き立てた。

『カノート・エスリム、紋章権能生体ソース、捕食された大樺斑オオカバマダラ』 

奇跡館きせきかん』の已愛いあやオートノミーと同じ、常時発動型故に龍弥が借りられない、一秒先の出来事を予知し続けるという褐色の少年の『紋章権能もんしょうけんのう』がなければ、完全に出遅れていた。冷や汗を蒸発させるように熱量を上げる。背から赤い泥の双翼を伸ばし、図書室の扉を両断する勢いでそのまま手に握った武器を振り下ろす。目を焼く鋭い閃光、続けて、全てをひっくり返さんばかりの爆音と激震。背後の悲鳴を気にしている暇はなかった。煙を抜け、散った瓦礫と共に赤い馬を弾き出した龍弥は、そのまま追撃のために壁画の洞窟に飛び出て、お返しとばかりに繰り出された丹泥種の亜音速の突進を受け止める。

 ヒリヒリと、剣を介して響く鈍い衝撃。恐らく、凍結ミサイルの音に紛れて気付かなかったのだろう。この壁画洞窟が西海岸で一番安全な場所だということを考えれば、子どもたちをどこかに逃がすことはできない。自分の能力を全力で振るえば確実に周囲を巻き込む以上、丹泥種を引き連れて距離を取るべきは龍弥ということになる。

「ごめん……」

 アカシックレコード群。

 この人類の遺構を築き上げた全ての人に、謝る。

 そして、力を籠めながら左、図書館の中をすがめて確認する。一階には光る座布団を含めて誰の姿もない。恐らく、クローシェと純が先導して、より安全な二階奥の部屋に避難したのだろう。助かった。安堵の息を吐き、一気に全身に力を籠める。

 獄炎。一瞬で龍弥の左右の壁画が黒々しい炭に覆われ、身体を覆う泥に引火した青い炎が彼を包む。応えるように、目の前の馬も床が熔けるほどその体温を上げる。クローシェがその度ごとに足を止め、笑顔で丁寧に教えてくれた文明の記憶が、怪物二体の熱に当てられて形を崩していく。『奇跡館』の廊下で、オートノミーと赤いゾウがぶつかり合っていたときと同じだ。一直線の洞窟、この狭い空間では、お互いの攻撃をかわすことはできない。必然的に、直接激突する火力同士の対決になる。

 経験があった。だから、赤い鶴の怪物は、持てる全ての力で先手を取った。両足の筋肉が唸り、赤い両翼の炎がその光を莫大に増す。突きの姿勢。刹那、ガーネットキマイラ:アーチストは、空色の剣を赤い馬の胸に刺したまま、背後の壁画の全てを熱波と黒煙で塗り潰し、距離にして三キロメートルの空洞を五秒で貫いた。激震と風圧。急停止の直後、衝撃で軋みながら揺れる正面の景色。その真ん中で不意の一撃に少しだけバランスを崩した赤い馬を、龍弥は逃がさない。腰を沈めて、再びの最大加速。今度は直角、直上に切り上げる。

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