ケーニッジ写字室

 第六区画 第二分区 ケーニッジ写字室

 

 五〇〇メートルほどの距離をたっぷり一時間かけて歩いて辿り着いたアカシックレコード洞窟の右手の扉。青白い光を放つそれは、クローシェが抱えた座布団、『叙述された銀河たちナラティブ・ギャラクシー』を押し当てると同時に、音を立てて開かれる。

 冷気が漏れる真っ暗な部屋に入った途端、ブロンドの少女の周りを周回していた七つの光る座布団がひとりでにふわふわと動き、壁際や天井の梁に設置された灯火袋とうかたいにすぽっと挟まる。緻密に計算されて設置された光源は、メゾネット方式の小さな図書館全体を死角なく隅々まで照らしていく。扉がパタンと閉じると、クローシェは振り向いて言った。

「ここには、パピルスから黎明活版印刷本インキュナブラまで、中世盛期を超えて全世代の主要な写本があります。全てレプリカですから、好きな本を手に取って読んで良いですよ。声をかければ、近くの『叙述された銀河たち』が翻訳してくれますから」

 私は、ちょっとはしゃぎ過ぎちゃったみたいで、少し休んできますね。そう言葉を残し、彼女は一つ座布団を抱えたまま、図書室の階段を早足に上って二階に姿を消した。じゅんに率いられる形で金髪コンビがワクワクのままに本棚を渉猟して回るのを他所に、部屋中央のテーブルに備え付けられたナイロン製の柔らかい長椅子に座った、カノートと視線が合う。

「お兄さん。分かってると思うけど、記憶が戻ったってことは、全部思い出したってことだ。ちょっと心配だから、僕は様子を見に行こうと思っているんだけど、どうする」 

 図書室の静謐な空気の中、短い黒髪を弄び、澄んだ目で冷静にものをいう少年。純に続いて底知れなさのある彼に、ぽんぽんと頭の上で二枚の座布団が跳ねる龍弥りゅうやが頷くと、二人は階段を上る。

 二階の構造も一階と同じで、元の洞窟と接する面を弓の弦にした半楕円状の空間だ。弧の位置にあたる壁面は全て書架になっており、年代別に書物が並んでいる。『叙述された銀河たち』も三つが天井に設置された袋にはめこまれ、淡く暖かい光で部屋中央の閲覧席を包み込む。一階と明らかに違うのは、書架が水平移動することによって、階段を上って正面、弧の中央にあたる部屋の最奥の壁に青白い扉が見えていることだ。

 音を立てないように近付き、耳を当て――ようとしたら自動的に扉が開き、そのまま間抜けを発動してバランスを崩した龍弥一人が、座布団二つと共に部屋に転がり込む。

 ずっと前、『奇跡館きせきかん』で湯河原ゆがわらロウズが男湯に誤って入ってきたのを思い出した。写字室の裏に隠れていたのは、八畳ほどの小さな子ども部屋だった。高い天井には模型の星々がぶら下がっていて、壁には有名なファンタジー映画のポスターが貼られている。倒れたままゆっくりと顔を動かす。流れる視界。ログハウスのように張られた天井の梁、その上の灯火袋に納まった一つの光る座布団。壁面に置かれた棚、中に並べられた可愛らしい妖精のフィギュアと、旅行で撮ったらしい家族写真。床に置かれた小さな書架と横付けされた白いベッド。一冊の本を抱き締めて目に涙をためたクローシェは、そのベッドの上から、驚いたような表情で闖入者を眺めていた。

「へっ?」

「あっ……」

 しまった。明らかにどう考えてもしまった。万一全てを知った彼女が自殺でも考えたらいけないから、慎重に様子を伺っておこう。そう考えていた龍弥は、不審者極まりない姿勢で、五歳年下の女の子の部屋らしい場所へ大きな音を立てて転がり込んだ。しかも、当の彼女は絶望して凶行に思い至るというよりは、ずっと静かに、悲しみと懐かしさを噛み締めている様子だった。『一五歳と、これからのクローシェへ、空にいるパパとママより』。ブロンドの少女が抱き締めた本のタイトルに龍弥が固まっていると、正気に戻ったらしいクローシェは涙を拭い、ちょっと困ったような顔をして口を開いた。

「ええと、入るならせめて外から声をかけてからにしてくれても……」

「ごめん……。いままでの人生で一番反省と後悔をしているところだよ……」

 寝転んだ背中に二つの光る座布団がポンポンと跳ねる龍弥の謝罪に、ふふっと笑い、彼女は、天井の星座模型、その最外殻の惑星のさらに少し離れたところに吊るされたスペースシャトルに似た宇宙機を指さした。小さな文字で、『旅人三号ボイジャー・ザ・サード 第四艦マニュスクリプト』と彫ってある。

「ここの写本、本物は私の両親と一緒にいまオールトの雲の辺りを飛んでいるんですよ。この星系を超えて、人類の未来を届けていくために」

 アカシックレコード計画はこの距離六〇〇キロメートルほどの洞窟壁画群の作成だけでなく、宇宙空間への人類の遺物の退避なども含まれていたらしい。ここの壁画と全く同じものが、世界一三の天文台からのレーザー光線で月に描かれています。クローシェは言ってベッドから立ち上がり、龍弥に手を伸ばした。彼女の灰褐色の両目からは、静かに再び透明な涙が流れつつある。

「……龍弥さん。もう少しだけ、一人にしてもらって良いですか。助けてもらった命です。心配をかけるようなことは、決してしませんから」

 彼女の真摯な言葉に頷き、立ち上がって、部屋を後にする。そして、外で待っていたカノートに手招きし、階段を降り、中央の閲覧席に座り、深くため息を吐いた。不思議そうな顔をして隣に腰かけた褐色の少年に、龍弥は深く様々な思いを込めて、言う。

「人生の先輩として言っておくけど、さっきのようなことをしてはいけないよ……」

「先輩ってのが分からないけど、僕はあんな間抜けなことはしないよ」

「そうか、それなら良いんだ……。うん、良いんだ……」

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