七月四日 トンネルにて-1
翌日。昼が過ぎたころ。
朝食の片づけをする子どもたちを横目に、龍弥は車体下の格納庫から洗濯物干しを取り出すと、少しばかり湿ったアスファルトの上に設置する。同じく外に出した発電機に液体を注ぐガーデナーから洗濯籠を受け取り、中身を長い竿にかけていく。
手を振る。握られたのは、出力を絞った炎熱を発する剣。生み出される暖かく乾いた空気が、昨日の海で遊んだ衣服の水気を見る間に蒸発させていく。昨日、便利なやり方だなぁと上機嫌の彼女の下着をうっかり燃やして一触即発になったこの乾燥方法だが、流石にもう加減を間違うことはない。
「食い物はまだ一週間は持ちそうだが、ガソリンがあと八ガロンしかねえな。電気や冷房が使えなくなるより先に、どっかで取ってこれりゃあ良いが……」
数分で仕事を終え、取り込む衣類を両手に抱えた龍弥に、ワンピースの女性が耳打ちをする。キャンピングトレーラーを動かす全ては、定期的に補充する必要がある。食料品や日用品などは集め慣れているが、発電機のガソリンはトレーラーの給油タンクに入っているのをそのまま使っているので探しに行ったことがほとんどない。サイズが大きく、ある場所がより限られている分、
ふと目を横に向けると、子どもたちが協力して大きな浄水器をトンネル端に移動させ、降り注ぐ雨水をその上部容器に入れていた。綺麗な水が溜まるまでおよそ数十分。車内の貯水タンク一杯になるまでは八時間といったところだ。そこそこの大きさの海水浄化装置と、保存を効かせる塩素剤なんかがあったら割と違うんだろう。飲み水はまた別の小さい浄化装置を使うので、一日仕事になりそうだ。
雨音がする。七月初旬の温い風が肌を撫でる。確か、トレーラー内の気温計は摂氏二八度程度だったはずだ。地球温暖化なんて遠く懐かしい言葉が頭を過る。能力者がどれほどの外気に耐えられるのかは分からないが、ともかく冷房が切れると未明から三五度を超える気温は、体感でつらいことには変わりない。
汗を拭きながら我先にと比較的涼しい車内に戻る子どもたちを見送ると、ガーデナーは発電機を片付けてトレーラーの進行方向のトンネルの出口へと足を進めた。
「動けねえ間、ここら辺探索してくるわ。善は急げって言うし」
雨にも慣れてるしな。言葉の最後に含んだささやかな悲しみを振り払うように、茶髪の女性は降りしきる水の中に走り、飛び込んだ。夕方には帰るぜー! と力強い声が短いトンネルの中に反響する。することがなくなった龍弥も少し休むことにした。
窓越しから確認すると、ソファーに座って
目が覚めたら一三年経っていて、世界は怪物どもに覆われていた。家族は、友達は、きっと無事ではないだろう。けれど、もし生きて再会が叶ったとしたら、どう言葉をかけようか。
読んでいたシリーズ小説は完結しただろうか。見ていたアニメは最後まで放映されただろうか。夢を語り合った友達は、どんな職に就いただろうか。大学入学記念に実家の庭に植えた
暗いことを考えても仕方がない。龍弥はいつか奇跡館でやったように、立ち上がって両手を拡げる。いまや彼は、桜並木に立っていて、次々と現れる知り合いとの再会の喜びに沸いている。一人一人を抱きしめ、一三年間の空白を埋めるように語り合う。そうして、最後の二人、両親に涙ながらに言葉をかけたところで、眼下、トレーラーに横付けされた梯子から顔を出した女性、クローシェと目が合った。
「ご、ごめんなさい……私……」
ガーネットキマイラの圧力に怯えながら恐る恐る龍弥を見た彼女は、一人芝居をする彼の様子にものすごく申し訳なさそうな表情になって、すっと顔をひっこめた。
「違う。違うんだ……」
弁解虚しく、美しいブロンドの髪をした少女はさっと車内に消えてしまった。それから一時間近く経って、彼女が再び顔を出したとき、龍弥はショックからその巨体も小さく天井の上にまるまっていた。いたたまれない気持ちになりながらも、少女は、車体にゆっくりと腰を下ろす。
「さっきは失礼なところをごめんなさい……。私、あなたに助けてもらったのに、お礼をまだ言ってなくて……」
およそ一〇代前半にして、ガーネットキマイラになる前の龍弥より高い身長。ハリウッド女優だと言われれば納得するほどの美貌に加え、彼女からすればほぼ奇行に及んでいた怪物である龍弥に一人声をかける勇気も、礼を言う誠実さも持ち合わせている。
これが『
「どういたしまして。君だけでも無事で良かった」
言葉に、クローシェは押し黙る。彼女には記憶がないという。
「遠目から、街を見ました。薄情者ですよね。私の全てがあったかもしれない場所なのに、涙すら流れなかった。全て、忘れてしまって。最低だ。一日経っても、まだ思い出せないんですよ。自分の名前なんてどうでも良い。私が覚えてなきゃ消えてしまう、いままで生きていた人々のことを、私は全部……。せっかく生き残ったのに、これじゃ……」
湯河原ロウズも、ガーデナーも、そんな笑い方をしていた。もしクローシェが全て覚えていたなら、きっと彼女はいまにも死んでしまっていたに違いない。無意識に立ち上がり、足が動く。それは、龍弥というより、心の中に残ったロウズの意思によるものだった。こんな怪物になって、いまさら恥じ入ることなど何もない。肩を震わせる彼女をひょいと抱えると、白い車体に腰を下ろす。
「この街の皆が、君に生きていて欲しかったんだと思う。そして、いま君は生きている。まず、そのことを大切にしてあげて。それから、ゆっくり寝て、いっぱい食べよう。ね」
思った通りの落ち着いた言葉が出た。龍弥の腕の中で、クローシェは次第に表情を崩し、その大人びた雰囲気が嘘のように大粒の涙を流した。彼女が泣き止むまでの数十分、龍弥はその場を動かなかった。
見える限り、黒も赤も、
一緒に脱出しよう。そう誓ったロウズは、結局良く分からないことになってしまった。そして、
薄く冷たくなったはずの恐怖が焦りを火種に沸騰し、爆発的に嵩を増していくのを感じる。あぁ、ダメだ。クローシェに偉そうなことを言ったが、自分もそこまで変わらなかった。この借り物の超然の皮を剥がせば、一個の人間が露になる。そしてそれは、肯定的な文脈で捉えられるべきでない、浅はかで、小さいものだ。
怪物になってしまった。けれど、怪物になる前の矮小な自分は、決して対照して言葉と心と温もりを依拠できるほどの立派なものではなかった。最後に『奇跡館』で怪物どもと戦った時は違ったかもしれない。けれど、ロウズに勇気をもらうまでの数日間、龍弥は全員の能力を知りながら自分の能力をこそこそ隠して過ごしていた。はじめから令吾のような胆力があれば、誰も死なせずに、脱出することだって……。
思考を沈める龍弥の耳に、小さく乾いた音がした。瞬間的に首を振るのと同時に、一陣の風が龍弥の頬をかすめ、パックリと血の線を引く。目を落とすと、眼下、トレーラーから数メートル離れたアスファルトの上に立った殺人鬼の青年が、煙を吐き出す銃口をこちらに向けている。泣き疲れて眠ったクローシェを抱きながら、龍弥は口を開く。
「……何の真似だ、純。この子に当たったらどうする」
「いやだなぁ、違うよ。僕は止まった的を外すほど素人じゃない」
心外だという風に顔を膨らませて見せると、見た目だけは純朴そうな青年は、お昼が出来てるから早く食べちゃって、と言い残して車を離れ、子どもたちと洞窟端で手持ち花火を始めた。昨日の夜、街を一人徘徊して見つけてきたらしい。相変わらず思考が読めない奴だ。クローシェを起こしてキャンピングトレーラーから飛び降りた龍弥は、そのまま腰をかがめて車内に入った。
用意されていた冷凍食品のチャーハンをそれぞれ平らげると、皿を受け取って、龍弥はクローシェに目配せした。洗うのは任せて、遊んでおいで。綺麗なブロンドをした彼女は、雨上がりのような晴れやかな笑みを浮かべると、子どもたちの集団に加わった。
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