水面の翼

 深夜。遊び疲れた子どもたちが眠ったころ。一人勝手に再び街に向かったじゅんを他所に、龍弥りゅうやたち二人の姿はキャンピングトレーラーの上にあった。寄せては返す波を眺めながら、白い天板の上に乗せたピザを口に運ぶ。ガーデナーの褐色の足に巻き付いた影は、すっとその先端を伸ばすと、車内の冷蔵庫からコーラを巻き取って、彼女の手に握らせる。

「確かワインもあったろ。ちょっと俺にも取ってくれない」

「生憎様。ここにはもう置いておりません。六三年前に来やがれ」

「……え、一九六九年に何かあるのか」

「あー。そういやてめえ日本人だったか。違和感なく英語喋るもんだからすっかり忘れてた」

「こっちも、そっちが流暢な日本語喋ってるように聞こえるよ」

 少しして、龍弥はガーデナーが持ち出した赤ワインを紙コップに注ぎ、ラッパ飲みを中断したコーラの瓶と音のない乾杯をする。隣から、ワインで合衆国っつったらカリフォルニアだったんだぜ、と静かに呟く声。浜辺の月夜に照らされた怪人二人の影は、身を満たす超然的な虚無の上に膜を張った人らしい哀愁に揺れる。

 ガーネットキマイラ。常人とはかけ離れた容姿と力を持ち、振る舞いと心さえ神に似た静謐さに蝕まれた化け物。能力者がどうして能力者を身体の内側に取り込むことが出来るのか。取り込むとどうしてこのような有り様になってしまうのか。黒蝋種こくろうしゅ丹泥種たんでいしゅに変化する過程と同じように、どちらも不明なままだ。

『行使されていない他人の能力を行使できる』ガーネットキマイラ:アーチストを構成する主人格である龍弥の能力は、自身を中心にある一定範囲の能力者の能力とその行使状態を常に把握することを可能にする。純、そして三人の子供たちの能力を知っていることを、龍弥は既に彼らに報告していた。ガーデナーについては例外で、龍弥と同じく主人格の能力しか感知できない。起動させない限り、もう一人の能力は分からない。ガーネットキマイラはみなそうなのだろうか。

奇跡館きせきかん』で聞いた通信を思い出す。


 第一種警戒発令。

 黒蝋種こくろうしゅ、及び丹泥種たんでいしゅが第一研究プラント群に侵攻中。

 新世界方形原領域しんせかいほうけいげんりょういきのみなさんは至急避難してください。

 第一討伐隊はハブコロニー辺境を哨戒中のため、現状、丹泥種の迎撃は不可能です。

 以下、旧環太平洋南日本圏域審議会きゅうかんたいへいようみなみにほんけんいきしんぎかいの決定です。

 各種計画を一時的に中断。

 両種を生体研究室中央塔せいたいけんきゅうしつちゅうおうとう奇跡館きせきかん』へ誘導し、一時的な封じ込めを図ります。


 ここで重要なのは、『奇跡館きせきかん』の属する新世界方形原領域ネオ・クアドラータには第一討伐隊という組織があり、それはいまの龍弥が戦って引き分けるほどの強さを誇る丹泥種を迎撃できる力を持っているということだ。いかに超然的な力を手にしたと言っても、龍弥だけではあの白い施設に閉じ込められたままになっている彼らを助け出すことは出来ない。

 昨日事情を話すと、ガーデナーはこう答えた。

 彼女らガーネットキマイラも、ずっとこの死地で放浪の生活をしていくことは考えていない。前々から話は進んでいて、アメリカ西海岸が死に覆われたことが一歩を踏み出す契機になった。これから数日のうちに最も強力なアジア圏の新世界方形原領域に交渉を仕掛け、その中に生存権を勝ち取る。それまで、少し待ってくれ。言葉遣いの割に誠実な瞳を信じ、龍弥は静かに頭を下げた。

 午前零時。欠けた月が天頂に座す。静かな闇色の海。潮騒の音に向けて、澄んだ瞳の女性は足を進める。

「昔は、光ってたんだ」

 風が彼女の頬を撫でる。青ざめた月明かりに照らされ、影が長く伸びる。ガーデナーの褐色の両足に絡み付くように浮き出た紋章がすっと地面に枝垂れ落ち、光に煽られ影と重なって拡がる。波打ち際からキャンピングトレーラーまでおよそ三〇メートルと少し。やせ細った枝に、萎びた葉。いまにも落ちそうな花が気力なくかしぐ。砂浜に黒々と描き出されたのは、ガーデナーの『紋章権能生体もんしょうけんのうせいたいソース』、枯死した向日葵だ。

「ここ。プランクトンがたくさんいて、一夜に一回輝くんだって母さんが言ってた」

 振り向かずに彼女は言う。静寂。雲が流れ、星を隠し、浜が暮れる。龍弥はふっと車体から飛び降りて、赤い翼を拡げ、空を滑って彼女の眼前に滑り込む。

「目が覚めたら、七年経ってた。お前は丸々一三年だっけか。みんな真っ暗になっちまって、ほとんど何も残されちゃいなかった」

 闇に満ちた海岸線で、地に根差した向日葵の赤い瞳と、中空の鶴の薄褐色の瞳が交差する。ガーネットキマイラは怪物。波一つ立たない心の上に、死への畏れが浮かんでいる。それはきっと心が揺れてしまったら、彼らの最も忌避するべきものが簡単に溶け込んで、全身に回って、脳を侵して、人らしさの全てを失ってしまうから。

 はじめの感情は余りに薄い。龍弥の身体の内に熱が灯っていて、起伏のある会話が出来ているのは、ひとえに意図せず体内に取り込んでしまった、湯河原ロウズのためだといえた。

「寂しいもんだな」

 悲しそうに呟くガーデナーの後ろに別の誰かを感じながら、龍弥はくるぶしほどの浅瀬に降り立った。足元に、寄せては返す水の感触。見上げると、再び顔を出した星空に、何筋かの光が煌いて流れていく。プラズマ光を発するその軌跡は夜空に揺れながら鮮やかな幕を下ろし、その弾頭は黒蝋種に覆われた街に突き刺さると、周囲数キロを凍りつかせ、再びの人類の訪れを待つという。この三日間に何度か見た。アジア方面の新世界方形原領域から撃ち放たれた弾道ミサイルだ。

 誰しもが、生きようとしている。死を畏れている。それが少しばかり嬉しくて、仲間でもない誰かの努力に、自分たちを害するかもしれないその努力に、二人して表情を崩した。空を切り分けるように降りた幕は海面に照り輝き、見る間に世の終わりにも似た絶景を作り出す。太平洋の水平の彼方から闇夜を裂いて拡がる淡い緑の翼。その真ん中で笑い合う向日葵と鶴は、この街の冷たい死からは遠いところにあった。

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