怪物と冷凍線

 プシューと、空気が抜ける音。引き出しが自動的に動き、三つ編みのラテン系の少女が身体を起こす。クローシェ・ケーニッジ。幼い顔立ちの割に一七〇センチを超える長身でスタイルにも恵まれた彼女が初めに見たものは、見渡す限り炎に満ちた床に立った、身長一九〇センチの青年の姿だった。

 この地下シェルターの死に塗れた凄惨なありさまを目覚めたばかりの彼女の目に映すわけにはいかない。空色に燃え立った剣はさっきの一振りで眩い別の地獄を作り出した。 

 死体を隠し地を舐める熱波に照らされて、悪魔のような影がシェルターの天井に揺らめく。炎上する大地から突き出した青白い棚から顔をのぞかせ、衝撃のあまりただ唖然とするばかりの彼女。龍弥りゅうやは火の海を歩きながらゆっくりと近付くと、剣をもっていない方の腕で優しく抱き上げてそのまま高く飛び上がる。

 しかし、思いの外勢いが出過ぎた。うっかり激突しかけた天井を、身体を捻って全力で蹴り飛ばす。激甚的な衝撃は爆音と共に五○○メートル四方の倉庫型スーパーを上空にかち上げ、当の怪物は夏の日差しがきらめく旧道一○一号線に降り立った。

「あ。しまった、袋が」

 ただ呆然と自分を見つめる少女の目線にあてられた龍弥は、ここでようやく自分が勢いで間抜けをやらかしたことに気付いた。スーパーの前にまとめて置いていた食料品が入った袋はその残骸と共に吹き飛んでしまったらしく、影も形もない。背後に墜落して地を揺らす残骸の音を聞きながら、自分の力について思い返す。

 この超然的な姿になって三日、膂力や感覚の鋭さ、知識、思考の速度は大きく増したが、それと共に、意外と以前はなかったようなポンコツが増えてきているように感じる。

 原因かもしれないものは思い当たる。『奇跡館きせきかん』を脱出する時に身体の中に取り込んでしまった湯河原ゆがわらロウズという女性だ。彼女は人格的には申し分ないものの、割とこんな感じに抜けているところがあった。それが、ガーネットキマイラ:アーチストとなった自分にも影響しているのかもしれない。

 だから何が悪いとも思わないので、ごめんなさいと言いたげに風に揺れる炎の剣を安心させるように強く握って手元から消し、浜辺への帰路を歩む。

 一度強く注意を引けば、腕の中の少女、クローシェの注意が自分から外れることはない。街中がどれほど死に満ちていようと、彼女の琥珀色の瞳にそれは映らない。『奇跡館』でオートノミーと対峙した龍弥がそうだったのと同じだ。それでも配慮してなるべく亡骸の転がっていない脇道を選んで進む。

 途中で地面に埋まった巨大な白いパイプが道を塞ぐ。行きは飛んできたのでぶつからなかったが、ガーデナーから聞いて知っている。これは『冷凍線れいとうせん』と呼ばれる防衛設備で、各新世界方形原領域の外縁に敷かれているものだ。

 人類が黒蝋種について解明した事実の一つとして、冷気に弱いことがあげられる。パイプから吹き出された冷凍剤によって外縁付近で黒蝋種を足止めして、原領域内部から遠距離砲撃で破壊する。そういった防衛システムを、生き残った人々は構築したらしい。

 振り向けば、崩壊したビル群の複数の階層に、ガトリング砲などの拉げた重火器が置かれているのが見える。西海岸方面だけで、計五〇門ほど。これが制圧できないほどの数の黒い波が押し寄せたのか、単に弾薬が切れたのか、あるいはより強力な怪物、丹泥種たんでいしゅが現れたのか。恐らく、そのどれもだろう。煙に曇る淡い景色の中、もっとも高いビルの頂上階が、マグマのような赤い泥に溶け落ちていた。

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