新世界方形原領域 サン・フランシスコ

 巨大な建物の横には、一五メートルほどの大きさ機械兵が関節部からバラバラに破壊されて転がっている。その熔け落ちたコックピットから覗く首のない亡骸を横目に、龍弥りゅうやは拉げた灰色の外壁を圧倒的な腕力で剥がし、放り捨てる。

 スーパーマーケットの内部は穴の開いた天井から漏れる光で必要最低限の明かりが確保されており、黒い波の衝撃に圧されて商品が至る所に転がっていた。ここでも戦いがあったのか、銃火器の残骸と共に数人の死体がゴミに紛れている。いまや価値の失われたドル紙幣が乱雑に飛び散ったレジを抜けてバックヤードに進むと、業務用冷凍庫があった。停電から一度も開かれていなかったからか、中にはまだ可食期限に達していない冷たい肉類が保存されている。

 物色に物色を重ね、キャンピングトレーラーに保存できるだけの食料をビニール袋二つに詰め込んで歩き出す。瞬間、背後、瓦解した棚の群れの奥から音がした。足を止め、耳を澄ます。まだ怪物が残っているのだろうか。ここのビーチ沿いには明日の朝まで滞在する予定だ。ガーデナーや龍弥などには特に何の苦もない相手だが、運悪くトレーラーで共に暮らしている少年少女が対峙すれば危険は避けられない。始末せずに置いておく理由はない。

 袋を床に寝かせる。息を吐き、薄褐色の右目から一筋の涙を流す。瞬間、龍弥の顔面を赤黒い紋章が覆い、皮膚が泡立ちながら丹色あかいろの泥に覆われていく。背からは爆発的な光を放つ一対の赤い翼が伸び、手には空色の剣が握られる。一歩足を踏み出すと、周囲の空間が熱に歪み、悪魔のような影がドーム球場にも似た広さの拉げた天井に曝し上げられる。

 二つの『紋章権能もんしょうけんのう』と呼ばれる異能力を持ち合わせ、全身が赤い泥に覆われた怪物。ガーネットキマイラ:アーチスト。『奇跡館きせきかん』という監禁施設から湯河原ゆがわらロウズを取り込んで脱出した龍弥は、そうした存在になってしまったらしかった。

『行使されていない限り、他人の能力を行使できる』。彼自身の能力は、約三キロ離れたガーデナーたちの『紋章権能』の行使状態を逐一伝えてくる。握った炎の剣に相変わらずの暖かさを感じながら、瓦礫を磨り潰す重圧を外套のように着込んで、前へと進む。音はまだ聞こえる。

 普通の黒蝋種こくろうしゅなら、この程度の距離まで近づけば死を恐れて逃げ出すはずだ。デナリ山の頂上に降り立った時より、龍弥の超常的な力は完成されていた。いまや分かりやすく威嚇しなくても闇色の怪物どもは避けて通る。それが、何故。

 丹泥種たんでいしゅ。黒蝋種がより死から遠ざかる程に力を高めたもの。野生でめったに遭遇しない自分と同格の怪物の存在を想起して、彼は剣を強く握りしめる。

「……誰か。誰か、居ませんか」

 しかし、さっき音が聞こえた方から声がした。女性の声だ。超然的なありさまになってしまった龍弥は、およそ三日ぶりに驚くという表情の変化をささやかながらも取り戻した。生存者。そんなものは、黒い波に覆われた街では見たことがない。足を進めて耳を澄ますと、声の他に下から風の抜ける音がする。この建物ではなく、地下に何かあるようだ。

 炎の剣を、ゆっくりと振り下ろす。接触と同時に、目を灼く光。瓦礫に覆われたスーパーマーケットの床が泡立って熔解し、断面が赤く歪んだ切れ目が入る。吹き返す冷たい風を浴びながら、眼下の暗闇に飛び降りる。カランと乾いた靴の音。自分の身体から漏れ出る明かりを頼りに周囲を見渡すと、そこは巨大な石柱に支えられた体育館ほどの広さの空間だった。破壊された街とは対照的に、視界の限り機械的な鋼色の静寂に満ちていて、強固な四方の鉄の壁に刻まれた文字が目を引く。

新世界方形原領域ネオ・クアドラータサン・フランシスコ:中央シェルター』

 見回すと、壁面にはノイズが走った複数のモニターが埋め込まれ、壁際には入力用の電子機器が置かれている。足の踏み場はほとんどないに等しく、複数のパイプや細いコードが床に壁に天井に駆けている。降り立ってみて分かったが、街の他の場所と同じように、ここも無事ではないようだった。床には所々熔けた深い穴が開き、そこから複数の黒い怪物が部屋中を這い回った痕跡がある。残された闇色の蝋が描く複数本の軌跡に両断されるように、溶けた鉄片やむき出しになった電子盤が静かに煙を上げている。研究者然とした白衣を着た死体も見た限り五人分は転がっており、天井から漏れ出る明かりに、血の抜けきった亡骸が照らされる。街道の飛び散った凄惨なそれとは違い、ここには静かに冷たく押し黙った死が満ちていた。

 ここが名前の通りシェルターで、内部がこの様子では、やはりこの街に生存者は存在しないはずだ。そう思考した龍弥の前、視界中央のほとんどを占領してシェルターを支える石柱の裏側から銃声がした。足に力を籠め、瞬時に世界がぶれる。およそ一〇〇メートルの距離を一瞬で駆け、巨石を軽く抜き去ると、翼を拡げ、ふわりと中空に浮いて、音の主を見下ろす。

「何だ龍弥くんか。悪いけど君にいま興味はないんだ。アピールならあとで受け付けるよ」

「それはこっちの台詞だ」

 呆れたような声と、退屈に歪んだ眉。見知った顔が、こちらを見上げながら、『紋章権能』で作り上げられた長銃の銃口を向けていた。直後、射撃音。軽車両くらいなら簡単に爆散させる一撃を軽くかわして、龍弥は軽やかに地面に降り立つ。  

 闇夜の井戸の底にも似た漆黒の瞳と髪に、息を吸うように人を殺してしまえる倫理観のなさ。『奇跡館』からこの方行動を共にしているサイコキラー、竹平純たけひらじゅんは砂浜からいつの間にか抜け出していた。自分が手を出した赤い翼の怪物を無視して、彼は石柱の方に目線を動かす。龍弥も同じように顔を向けて、再び少し驚く。剣を振り下ろして降り立った面からみれば茶色く武骨なだけだった石柱だが、こちらの面には巨大な宗教画のレリーフが刻まれていた。黒い怪物の襲撃で部分的に熔け落ちて煙を上げる目の前の美術作品には、題名の代わりに英文が添えられている。

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