翼を拡げ、飛び立とう
次の日は、
閉じ込められて一四日目の夜。夢を見る。
大学。広い講義室。木製の長テーブル。隣の席。目を覚ました様子の鶴が、むしゃむしゃと何かを食べている。横を向いて確認すると、鶴が食べているのは大きなイナゴだ。膨らんだ茶色の腹にくちばしを突っ込んで貪り食う。
おい、やめろよ。気持ち悪く思って
第一選抜は完遂されました。
第二選抜まで、あと六日です。
汗をかく龍弥の脳に、『
「――――えっ?」
通信から数秒遅れて、間抜けな声が喉から漏れた。完遂された。行われた。何が。第一選抜。『一週間以内に最も不要な一名を殺せ』。ということは、つまり、――つまり、誰かが誰かを殺したということ?
目が覚めて、嫌な予感とずしりとした違和感が彼の身体を仰向けのままベッドに張り付ける。重い。上半身が持ち上がらない。重いのは何故だ。感覚で分かる。染み出すように、絶えず暖かい液体を流す何かが、腹の上に乗っている。
足を持ち上げる。それは、ばたんと倒れてくる。重さが上半身全体に広がる。黒く短い髪が顔にかかる。心臓が脈打つ。血が巡る。黒く変色した右手首が疼く。借りられない。この『奇跡館』で一人、本来借りられるはずの能力が、行使されてもいないのに借りられない。頭痛が起こる。心拍が早まる。汗が噴き出す。息が荒くなり、視点が定まらない。
それでも、確認しなければ。壁掛け時計の音が響く。ゆっくりと横を向く。暖かい肌色の何か。そこから垂れ滴る赤い液体。枕の隣、倒れ伏し、目を瞑ったまま唇から大量の血を吐き出す
耳に鶴の鳴き声がする。鳴き声は甲高く響き、どんどんと大きくなる。しなだれた女性の身体を抱き、布団を跳ね飛ばして、ベッドから飛び降りる。足の痺れや身体の痛みはとうに消えていた。目を落とす。腕の中の血塗れの彼女。湯河原ロウズ。その腕にも、足にも、何かと戦ったようなひどく深い傷跡が刻まれている。特に右足は青く染まり、おかしな方向に曲がっていて、骨折していることは疑いがない。この治療室では到底対応しきれないような怪我だ。冷めてしまいそうな体温と、消え入りそうな鼓動が血で茶色に変色した服越しに伝わってくる。
このままでは、数分後に彼女の命はない。
だから、いますぐに、埋め合わせなければいけないと思った。
ドクンという大きな心拍音に合わせて、耳をつんざく鶴の声がした。龍弥の黒く変色した右手首から、赤い泥が漏れ出す。漏れ出して、皮膚を撫でながら肩を駆け上り、服を含めた身体全体を染め上げる。
そのまま、掻き抱いたロウズを自身の腕ごと身体を覆う泥の内側に取り込むと、閉じられた鈍色の治療室の扉に向かって歩く。開けるまでもない。龍弥が押し通るまま、扉は変色して溶け落ちる。
目的地は地上階、その大広間。階段を上る。背中がむず痒くなり、両の肩口がパックリと割ける。白い骨がすっと伸びて、皮が張り、さらに表面を赤い泥が覆う。それは翼だ。一対の、これがあればきっと死ぬことはなかっただろうと思われるだけの立派な翼だ。
廊下を進む。と、近くで女性の叫び声が聞こえた。誰かいたらしい。そう思うと同時に、感覚を奪われる。世界が一瞬漆黒に染まり、バタバタとした足音が少しふらつく龍弥の隣を駆け抜けていく。
続いて、ビアスをした優男と、小柄な少女の姿が見えた。龍弥を見るなり途端に鬼気迫った表情になった青年は、彼と龍弥の間に立って呆然としている少女の手を取った。瞬間、二人の位置が入れ替わる。咄嗟の覚悟の裏にぬぐい切れない恐怖が透けて見える青年と、その奥に庇われ、事態を察して目に力を宿す少女。そんな二人を避けるように、いつの間にか細くなった脚を進めて、龍弥は大広間に向かう。
寒い。凍えて、死んでしまいそうなほど冷たい。熔けた心の中で、鶴が大きな口を開いて龍弥を食い散らそうとする。このままでは自分がなくなってしまうという恐怖が全身を駆け巡る。未だ暖かな拍動を返すロウズを抱きしめていなければ、いまにもきっと怪物と変わらなくなっていただろうと、彼は震えながら思う。
各人の個室のある廊下を進み、後方から青年たちの逃げ去る音が聞こえて、大広間の扉の一歩手前。また後ろから、声がする。落ち着いた、何かを諭すような女性の声が。
「お前は、悲しく思っているのか」
悲しいか。そう尋ねられて、龍弥は頷きたい気持ちになった。何故だか分からないが、悲しい。全ての暖かなものに置き去りにされるような、取り残されてただ震えながら冬の死を待つような。茫漠とした白く冷たいその感覚が、自分を掴んではなさない。
現に彼に、置き去りにされてしまった。見ていないから、いつ、どこでなのか、詳しいことは分からない。けれども、鶴は声高に伝えてくる。行使されていないにも関わらず、本来借りられるはずの能力を借りることができない。
だから分かる。二条令吾は死んだ。
あぁ、悲しいよ。どうにかなってしまいそうなくらい、悲しいよ。バサバサと訴えかけるような羽ばたきのあと、龍弥の口から言葉ではなく、歪な怪鳥の鳴き声が響いた。
「そうか、それは残念だ」
女性は、言葉を残して歩き去った。超然としたその声の裏に含まれた小さな憐れみを聞き取って、彼は思わず振り返る。しかし、おぞましいほど無機質な廊下は、茫漠としたいつもの白に照らされるばかりで、そこには誰の影もない。消えてしまった。暖かく、熱のあるものは全て、彼の目の前からはなくなってしまった。
脚を進める。前へと身体が進む。身体から溢れて流れ落ちるマグマのような赤い粘液質の液体は、三枚爪の深い足跡を床に残しながら、どんな能力を持っても壊れなかった大広間の扉を簡単に溶かしていく。
大広間では、一人の男が彼を待っていた。
冷え切った心で、冷たい鋼色の武器を持って。
「お帰り。龍弥くん」
一撃。広間の扉から首だけ出した龍弥の顔面に、ロケット弾が突き刺さる。爆発は『奇跡館』全体を揺らすが、龍弥は――赤い真鶴は、何事もなかったかのように広い空間に押し入った。
「待ってたよ」
竹平純は大広間に備え付けられたテーブル席から手を振ると、弾を吐き出した武器を霧消させながらコトンと床に降り立った。彼はこの上なく楽しそうな表情のまま、左目から涙を流し、大きく腕を振り上げる。
重力に従い、白衣が捲れて現れる皮膚の全てを覆うように、赤黒い紋章が現れる。次の瞬間、殺人鬼の青年の腕に握られていたのは、見たこともない形の長銃だ。興奮に目を見開いた純は、大きな赤い的に狙いをつけて、その引き金に手をかける。
パァンと、甲高い発砲音。直後、真鶴の右翼が吹き飛び、天地がひっくり返るほどの衝撃波が大広間を五周した。
ここから逃げ出したかっただけなのに。目の前の青年がどうして自分を襲うのか、鶴には分からなかった。赤い泥に濡れた翼を取り戻して、奇声を上げる。何もしていないのに、攻撃された。それが恐ろしくて、悲しくて、死んでしまいそうだった。
鶴は必死の思いで青年へとんでもない速度で突進し、部屋中の壁面に凹凸を作っていく。青年も青年で必死だ。空振さえ伴う赤い鶴の体当たりを、全て躱すことはできない。あるいは武器で受け、あるいは避け損ねて掠り、身体中に血と傷跡を重ねていく。
鶴はいつかのゾウを思い出す。まだだ。まだ、身体が十分に出来上がっていない。生まれたばかりといっても良い。膂力も何もかも劣っている。あのゾウほどの力を手にするには、時間が足りない。色は静止した蝋の黒ではなく、燃え滾る泥のような
寒い、悲しい、まだ温まらない。暖かいものを抱いている。だから、全て失って荒れ狂うほどではない。けれど、少なからず失った何かを埋めるには、心から安心するにはまだ足りない。
銃口が鶴を捉える。甲高い音と共に、鶴の左脚が圧し折れ、床に倒れる。余りに大きな隙だ。しかし、追撃は来ない。反動が強すぎるからか、目の前の井戸の底のような瞳をした青年の腕が、おかしな方向に曲がり始めている。純は顔を少ししかめただけで再発射の構えを取ろうとするが、それは初弾のときよりずっと遅い。
どうして、彼は自分を痛めつけるのだろうか。鶴はとても辛く、寂しく、悲しくなって、首を持ち上げた。凹凸のある床や壁面とは違い、キャンバスのように白く透き通った天井。心の内側から声がする。こんなに苦しいときには、自分には絵しかなかった。長く腹に溜まった絶望は、耐えがたい吐き気と共に喉にせり上がり、口元の泥の炎を得て青色に変じる。
描く。赤い泥のような両翼を拡げる。空気が膨張し、歪な影が床をなでる。耳にざらざらとした轟音。うだるような熱波を噴き上げて、口腔から青白い爆発的な閃光を撃ち放つ。激震。白い大広間の天井が一瞬で変色し、同心円状に溶け落ちる。
開いた空洞から吹き返す冷たい風に身を屈める。寒い、寂しい、どこにもいない。天井の穴の先は明かりのない漆黒だ。けれど、赤い真鶴の目の前には、描かれた幻想の地平線が開ける。西日が照らす水田。風は穏やかに稲穂を揺らす。頭上には、去っていく複数の仲間たち。待ってくれ、置いていかないでくれ。鶴は叫んで、埋め合わされた左脚に力を籠める。
翼を拡げ、飛び立とう。
ここにいたのでは、死んでしまうから。
身を裂く冷たさに、心まで凍りついてしまうから。
身体を震わす。脚を掴まれるが、もはや他の何物も目に入らない。
進む。追い駆ける。羽搏く。
あぁ、きっと辿り着ける。
いまなら。
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