山巓に降り立つ鳥

 誰かの父親は、高名な登山家だったという。氷点下一○度の寒気が肌を刺す張り詰めた白夜の下、六〇〇〇メートル級の夏の山顛さんてんが目の前に姿を現す。滑落すれば命のない岩稜を渡り、神々の座とさえ謳われる頂に降り立つ。

 胸を落ち着けて息を吐く。それに応じるように一陣の暴風が吹き抜け、吹雪が晴れる。視界の果てまで広がる漆黒に染め抜かれた地平。遥か眼下の闇色の蝋に塗れた怪鳥の群れ、奇声を上げて追い縋るそれらを振り払うように、火を噴き上げ、掃射される二基のガトリング砲。一機の傷だらけの軍用ヘリコプターと、護衛されながら、逃げるように飛ぶ中型の輸送機。

 新世界方形原領域ネオ・クアドラータロサンゼルス。黒い怪物が数万と蝟集する大地、北アメリカ大陸最高峰、デナリ山の頂上で、暴風に揺れ、バタバタと音を鳴らすヘリコプターの回転翼の下部の鋼に英語とラテン語で打たれた文字を、当たり前のように龍弥は読んでいた。

 彼は白煙のような息を吐くと、右目から涙を流しながら、眼下に見える群れを離れて自身に迫り来た体長一〇メートルほどの黒いヤツメウナギに、握った空色の炎の剣を振り下ろす。一閃。すっと、バターを切るような感覚。陽炎が揺れ、巨大な影が二分される。触れる全てを熔かすコールタールの粘液が散るが、内側から沸き立ち、その身体を部分的に覆った鶴の燃え立つ外皮によって弾かれ、蒸散する。

 赤い鶴になって『奇跡館きせきかん』から抜け出した。そこまでは何となく覚えている。飛んで、飛んで、さらに飛んで。ここだけではない。見渡す限りほとんど全ての大地があの黒い蝋の怪物たちに覆われていて、人の居住していそうな痕跡はほとんど見られなかったことも、記憶している。

 背後から音がする。甲高い銃声。距離のためか、『奇跡館』にいた他の誰の能力も観測できない。戦いとなれば、握った剣以外に借りられる武器はない。けれども、龍弥は何の危機感も抱かなかった。ふと後ろから響く銃撃音。龍弥の脚に無理やり掴まってそのまま脱出し、いま彼と背中合わせに立つ青年は、同じように迫ってきた八メートルほどの黒いアブラゼミを中空でバラバラに粉砕して、言う。

「いやぁ、しっちゃかめっちゃかだね。龍弥くん」

「あぁ」

 言葉の端々に興奮が聞き取れる青年、竹平純たけひらじゅんに頷きながら、もう一人の青年は木霊すら返らないこの極寒の頂に降り立った自分が、もう赤い鶴の姿ではないこと、掻き抱いた腕に湯河原ゆがわらロウズがいないことを思い返していた。目線が高い。気付けば、彼の身長は二〇センチほど伸びていて、背中から骨ばった白く傷だらけの巨翼が一対生えていた。髪の色も染めたことのない黒から、動脈血のように鮮やかな赤に代わり、薄橙の皮膚も所々溢れ出る熱に泡立っている。

 常人離れした容姿。立ち振る舞い全てに手に入れた覚えのない超然が伴っているのを感じながら、龍弥は涙を流した後のように澄んだ思考をさらに研ぎ澄ませる。右手には、変わらず光を上げる空色の剣。能力を借りることは出来ている。そして、身体の中に暖かい感覚がある。   

 治療室を出てから、ここまで。鶴でいる間に、赤い泥と共にロウズを身体の中に取り込んでしまったようだ。それがあり得ることなのかは定かではないが、どうしようもないくらいそうだという皮膚感覚の確信があった。

「純。二条令吾にじょうれいごを殺したのはお前か」

「えっ、死んだの。君の次に興味があったのに」

 振り向かず、龍弥は尋ねた。返ってきたのは、大いに残念そうな声だ。純は零下の気温と、吹き付ける風をものともしないほどの厚い装甲の鋼色の鎧を着込んで凍った地面に立っていた。がっかりした様子の青年が握った銃器は迫撃砲のような口径があり、遠目からみれば雪の山頂に座した軍事砲台の感がある。『奇跡館』から脱出時に鶴の泥に呑まれなかったのもそのためだ。言葉を聞いて、龍弥は握っていた剣を霧散させると、冷厳と押し黙り、辺りを見回す。  

 いつか自分を殺しに来た純を、龍弥はもはやほとんど危険に思っていなかった。色付いた歓喜も、驚愕も、憎悪も、絶望もない。あるのは虚無と、透明な涙を流す、やがて来る死への恐れだけだ。優しかった熱あるものは去り、あるいは凍てつき、全て剥がれ落ちてしまった。いま、燃え立つ鶴の皮を皮膚の内側に抑え込み、その手綱を握ることが出来ているのは、身体の中に静かに突き刺さった、ただ一つ暖かい楔のおかげだろう、龍弥は淡白にそう思った。

「――緊急コード。至急救援を要請する! 現在座標は、北緯六三度三分、西経一五〇度五九分。マッキンリー南西壁。新世界方形原領域ロサンゼルス護衛機だ。クリーチャーどもに追われながら、生存者一八名と共に、アジア圏方形原領域へ避難している。三時間前、東方からの怪物の波がレッドウッド防衛ラインを突破した。全ての旧合衆国西海岸方形原領域は壊滅だ! このままじゃ俺たちも死ぬ! 生きているところならどこでもいい! たったいま山頂に赤いやつまで降りて来やがった! 応えてくれ、助けてくれ! おい早く、聞こえるか、なあ!」

 龍弥はただ超然と、圧倒的なまでの視力と聴力で、見て、聞いていた。眼下、迫る怪物の群れにガトリング砲をぶちまける傷だらけのヘリコプター。その中で、壊れた通信機を片手に叫び散らす男性。直後、弾切れ。熱を上げて空回りするバレルに追いつき、噛みついた巨大なハヤブサが、そのままの勢いで機体ごと北アメリカ大陸最高峰の山体に突っ込んでいく。

 激震。爆発的な閃光の後に砕けてきらめき空を舞う鈍色の鉄片。そして、護衛がいなくなり、一五メートルほどの黒いムカデに巻き付かれた輸送機が、白煙と叫び声を上げながらそれに続いて。

 かわいそうに。ただ単にそう思った。アラスカ山脈の歪んだ地平に太陽の据えられた白夜。二度目の振動を足元に感じながら、龍弥はこの絶望的な光景を波一つ立たない心で見送った。彼女が自分たちを見ていた時もきっとこんな感じだっただろう。薄褐色の瞳を覗かせ、赤い髪をなびかせ、背に傷だらけの白い巨翼を背負い、ときおり泡立つ肌を薄着一枚で隠して極寒の山巓に君臨する。遠い夏の夜の陽が、悪魔のような影を雪の積もった岩稜に揺らす。外見も中身もいつの間にか随分と人間離れしてしまった彼は、ふとオートノミーと自分を重ねた。

「僕ら、これからどうしようか」

 隣で、重装甲の純が笑って言う。これからどうするか。潤滑油もなしにくるくると巡る思考の方向を変えたところで、一つ、龍弥は気が付いた。『紋章権能もんしょうけんのう』が行使されている。ロウズのものでもなく、純のものでもない。

 眼下、デナリ山南西壁の尾根の腹、輸送機の残骸に群がる黒い蝋の群れ。その真ん中で、二人分の能力が決死の強度で行使されている。誰かが生きていて、まだ戦っている。薄褐色の瞳を少し彷徨わせたあと、龍弥は横の青年をすがめた。口を開く。

「助けるぞ」

「えぇ……」

 青年は乗り気ではないらしく、意外だと言わんばかりに肩をすくめた。こんな超然的なありさまになった龍弥に人並みに動くほどの熱量があるとは思わなかったと、殺人鬼は言外に告げる。そう思ったのは龍弥も同じだ。

 振るわれる二人の能力が、攻撃を防ぐ、あるいは傷を塞ぐ類のものでないことを彼は知っている。輸送機は墜落している。二人を助け、何らかの情報源として使うとしても、既に十全に使える状況にあるとはとても思えない。加えて、蝟集した怪物の数が二桁を超えている。相手の色が黒い限り敵にして後れを取るとは思えないが、それにしても時間はかかる。

 黒蝋種こくろうしゅ丹泥種たんでいしゅ。第一研究プラント群、新世界方形原領域しんせかいほうけいげんりょういき、第一討伐隊、ハブコロニー。旧環太平洋南日本圏域審議会きゅうかんたいへいようみなみにほんけんいきしんぎかい。各種計画。

 そして、生体研究室中央塔せいたいけんきゅうしつちゅうおうとう奇跡館きせきかん』。

 いつか、白い建物の中で聞いた言葉の群れを確かめる為には、空を飛び、大規模な施設を探した方が、ずっと効率的で、危険も少ない。

 けれど、暖かい感覚の残る心の奥から、声がした。

 助けてあげて。

 それだけで、脳を巡った冷たい打算の全てが溶け落ち、四肢に熱を持たせるには十分だった。

 白く雪の積もった山巓から、赤い鶴と軍事砲台が滑降する。累計一六体の黒い怪物を染みに変え、残りを追い散らしたころには、昼夜の見分けがつかない北方の大地に昼が訪れていた。


 ――我らみな死を畏れ 第一章 山巓に降り立つ鳥 完

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