俺たちは絶対に

 夢を見る。暖かな日差し。まどろみの中、大学の広い講義室で授業を受けている。木製の長テーブルの上に置いたノートが風に揺れ、片手で弄ぶシャープペンシルが空を切る。油断すると眠ってしまいそうだ。そう思っていると、ぎぃいと扉が開く音がする。目を向ける。顔を出したのは一匹の鶴だった。鶴は入り口付近の檀上の教授を無視して足を進め、龍弥りゅうやの隣まで歩み出て、席に着き、ゆっくりと寝息を立て始める。おい、俺も眠たいのに勘弁してくれよ。鶴に何処か親しみを感じ、笑って言う。立派な白い双翼を撫でている間に、瞼が重くなる。それを眼下で黒板に指示棒を振るう教授が見咎めて、彼の名を繰り返し叫ぶ。

「……くん、龍弥くん、龍弥くん!」

 目が覚めると、地下第一階層、治療室のベッドにいた。隣で声を上げていたのは、短い黒髪の女性、湯河原ゆがわらロウズだ。上半身を起こすと、自分の右手首から先が黒く壊疽しかけているのが見えた。あの黒い怪物に直接触れた手だ。半分くらい泣きながら話すロウズによると、いまはあの戦闘から三日経った昼のようで、一〇日目、『第一選別』の内容が発表されてから丸一日になるらしい。


 一週間以内に、最も不要な一名を殺せ。


 余りに端的で残酷な内容。ロウズたちは二条令吾にじょうれいごをリーダーにして、改めて得られた情報を整理し、脱出会議を進めているという。黒いイナゴに直接触れた龍弥以外は全快し、日常生活に支障もないようだ。

 はぁ。と深く息を吐く。良かった。そう思わず口に出て、彼は驚いた。どう考えても現状で最も役に立たないのは自分だ。身体は持ち上がるものの、足が痺れて歩くことすらままならないし、この状況がいつまで続くのかも定かではない。喜んでいる場合ではないのは明らかで、第一選別の内容に従うなら、いま最も死に近いのはどう考えても龍弥自身だ。

 しかし、彼の表情は明るかった。自分が考えた作戦で、ほとんど全員の協力を取り付け、敵を倒し、自分以外に大怪我を負った人間は出さなかった。上出来だ。いままでこんな経験はなかった。はじめて自らの意思で一歩先に踏み出した。そのことが、置かれた危機的状況が気にならなくなるほどの喜びを彼にもたらしていた。ここで能力を発動すれば簡単に龍弥の首を撥ねることが出来るロウズも、彼に襲い掛かる様子はない。むしろ、眠ることなく彼を見守ってくれていたらしく、涙の流れる目元に隈が浮かんでいる。

「ごめんね。私、あなた一人に負担をかけちゃった。助けたと思ったのに、最後も役に立たなくて……」

 ロウズは、泣きながら謝った。とんでもない、と龍弥は思う。彼女がイナゴの脚に攻撃を加えて、自分に叫んだあのとき、どれだけの勇気が必要だったか。龍弥より先に一歩を踏み込んだあの行動のおかげで、彼の命はここにあり、結果的に全員が助かった。黙っている必要はない。ありのままの思いを椅子に座ってこちらをのぞき込むロウズに告げる。

 彼女は意外だと言わんばかりに目を見開き、視線を泳がせたあと、涙を拭い、照れたような表情を浮かべる。お世辞でも、気を遣われたわけでもなく、素直に優れていると褒められている。その感覚が初めてだったのか、短い黒髪をいじりながら、えへへと小さな笑みを見せる。

「俺の方こそ、ごめん」

 今度は龍弥が謝った。卑怯な力を得て、全員を欺いていたことを。そして、それを黙っていて、あわよくば自分の武器として使おうとしていたことを。

「それは仕方ないよ。私たちはこの力を選べたわけじゃないんだから」

 ロウズは、久し振りに見る勝気な眼差しで、それをきっぱりと力強く赦した。

 彼女が言ったことには、あの後、七枚の栞が個室の廊下に散らばっているのが見つかった。戦闘が終わったことを悟って部屋から出てきたロウズを含め、元々居ない竹平純たけひらじゅんと早々に立ち去ったオートノミーを除いて、二条令吾、二条市陽にじょういちはる大幕街おおまくまちユウ、湯河原ロウズ、榎木園已愛えきぞのいあの五人全員が寄生種の女王以外の能力の情報を共有した。

 作戦を説明するときに龍弥が打ち明けたことを信じるなら、彼は事実上この場の全員を騙していたことになる。その事実に場が静まりかけたところで、ある男が手を上げた。二条市陽。単純な話だった。『奇跡館きせきかん』の中で、自身以外の全員を欺いていたのは、龍弥だけではなかった。

 優男は、その軽薄な普段からは想定できないほど暗く深刻な表情のまま、自室から一枚の地図を持ってきた。それは、ランドリーの壁を特殊な方法でノックすることで開く扉から繋がる、地上二階の間取り図だった。描かれていたのは一つの直方体の部屋だけで、その中央は大きく『武器・薬物庫』と記してある。

 本当は、すぐに開示しようと思っていた。けれど怖くなった。誰も信用は出来なかった。自分だけが知っていた方が安全だと考えた。いま思えば、どこかでこれを、自分だけが生き残るために使おうと考えていたのかもしれない。――そう言って、市陽は続けた。

「夢を見るんだ。オレが魚で、みんなと一緒に回遊している。あるとき、一匹の大きな魚がやってきて、オレは食べられてしまう。それが酷く現実味を帯びていて、辛くて、悲しくて……。目が覚める度に、思う」

 好青年は、やつれきった笑顔を見せて、言葉を閉じる。

「身が触れるほど近くを泳いでいたのなら、他の誰かが代わりに死んでしまえば良かったのにって」

 誰も、言葉を返すことは出来なかった。あまつさえ、卑怯者と、気でも違えたのかと、糾弾することは出来なかった。誰もが、夢を見ていた。黒い蝋の怪物に襲われる夢とは別に、余りにリアルで、最後には自分が死んでしまう、とても悲しい夢を。

 その場にいた已愛でさえ、自分が同じ立場であったなら、他人に先駆けて有利な武器を持っていたとしたら、それを自らの生存のために用いないとは限らなかった。

「俺も謝ろう。俺はこいつが何かしらの隠し事をしていることを聞き出した。ただ、自分で勇気を持って言い出すまで、黙って待っていたのは間違いだったかもしれない。同罪だ」

 沈黙の中、重く低い声で二条令吾が口を開いて、全てが修復された白い床に腰を下ろした。七日目『水槽の脳』の通信があった日、食堂の調理室で、兄弟二人の会話があった。大柄の兄は端的に説明して頭を下げる。

 再び沈黙が場を支配する。その沈黙をさらに深く沈降させるように、世界が暗転する。聞こえるのは、鈴を鳴らすような透明な女性の声だけ。

「能力と地図を手にしたのが、皆嶌みなじまくんと市陽くんで良かった。そうでしょ?」

 初日最も怯えていた女性、大幕街ユウが精一杯力強く言葉にすると、已愛とロウズが賛同した。その場の誰しもが、誰かを責めるつもりはなかった。それはもちろん、龍弥に対しても同じだった。

 ロウズは続けた。第一選抜の内容が明かされたあとも、五人は集まって解決策を探している。あの黒と赤の怪物、紋章権能生体ソースという言葉を含めてヒントは増えた。だから、前よりずっと希望がある。龍弥くんは私たちが護るから、いまは安心して寝てていいよ。

 優しい微笑み。肌を刺すような壁面の白い明かりなど気にならないほど、ふわふわとしてとても暖かい空気に満ちた空間で、ベッドに寝転んだ龍弥と、椅子に座ったロウズは、他愛ない会話をした。同年代で、感覚の近い誰かと長く話すのはお互い久し振りだった。

 映画、漫画、アニメ、小説。彼らの没個性的な会話は、それが故におおよそ合致し、思いのほか弾んだ。どこか違うところで出会っていたら、もっと早く友達になれただろうか。お互いそう考えざるを得なかった。

「ねぇ、龍弥くん。私もね、一つ秘密があるの。まだ已愛にしか言ってないんだけど、あなたにも言って良いかなって思って」

 ロウズは、壁の方を向き、龍弥を眇める。その動きに合わせて、髪が揺れ、健康的な色の肌が輝く。治療室の明かりに照らされた彼女の姿が魅力的に映って、彼は思わず目を逸らす。秘密。ロウズの秘密。それは何だろうか。言葉の響きに甘く暖かなものを感じて少し顔を赤らめた彼だったが、長く次の言葉が紡がれない。どうしたんだろうかと問い返すより先に、諦めにも似た乾いた声が響いた。


 飲まなきゃいけない薬を、ここに来てから、ずっと飲んでないんだ。


 空気が重くなる。粘度を持った湿り気が喉に詰まり、まともな呼吸が出来なくなる。生まれながらに病弱だと聞いた時点で、思い当たっても良かったのかもしれなかった。この『奇跡館』で目が覚めたとき、スマートフォンなどのポケットの中身は空っぽだった。当然、常用薬など持ち込めているわけがない。

 ずっと彼女の胸の内に留めてあったらしい胸を締め付けるような恐怖は、干上がってざらざらとした灰色に染まり、自分自身を冷ややかに諦めたような表情に張り付いている。

 反応から分かる。飲んでいないのは、恐らく彼女の生死に直接かかわってくる薬だ。壁際の時計が、彼女の余命を刻むように無機質な音を鳴らしている。絶望以外の何もない空間で、しかし龍弥はこの期に及んで沈黙を守ることはなかった。

 思いっ切り息を吐き出すと、ベッドから無理やり立ち上がる。足は痺れて中途半端にしか動かない。吹き出る玉のような汗と、関節の痛みを無視して、ベッド端の手摺を強く掴んで進む。驚いたのはロウズだ。ふと我を取り戻すと、危ないよと慌てて椅子から立ち上がる。ふらつく身体で短い黒髪の彼女の前に歩み出た龍弥は、全く無遠慮にその身体を抱きしめた。

「えっ……」

「大丈夫だ。俺たちは絶対に一緒にここから出るんだ。そして、薬を見つけよう」

紋章権能もんしょうけんのう』と呼ばれる能力を得ている時点で、いまの身体の状態が、この『奇跡館』に閉じ込められる前のそれと同一とは限らない。そんな事実を持ち出すまでもなく、体温と、鼓動と、息遣いで、龍弥は噛み締めるような決意をロウズに伝えた。突然の出来事に頬を紅潮させた彼女は、しばらく視線を彷徨わせたあと、深く息を吐き、目を瞑って、静かに、うん、と頷いた。

 怪物三体と戦ったあの日だけで、たくさんの新しいことが分かった。

 第一選抜終了までの期限は一週間ある。きっと、何か解決策が見つかるはずだ。

 

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