それは丹い泥のようで

 緊張が世界を満たす。あの夜とは違う。戦えないことはない。今度は右肩に対戦車砲を背負い、その砲撃でロウズに迫るもう一方の前脚を吹き飛ばしながら、龍弥は思う。吹きあがる熱気を孕んだ風を頬に受け、ロウズも腕に力を籠める。瞬間、彼女の濃紺の瞳からすっと一筋の涙が零れる。

湯河原ゆがわらロウズ・紋章権能生体ソース・出血死した甲蟹カブトガニ

『権能名未設定・炎熱を発する剣を生み出し、操る』

 ショートカットの髪を揺らしながら、眉を吊り上げた彼女の腕に、青い血管の跡がくっきり浮かぶ。そして、そこから淡く色を吸い取ったように、ロウズの握る剣の炎が鮮やかな空色に染まる。剣先が丸太のような怪物の左腕にバチバチと食い込み、ついには両断する。

 大きな一撃。だが、状況はあまり良くはない。どれだけイナゴを攻撃しようが、その傷跡は黒い蝋に埋め合わされてしまう。対して、龍弥たち、特にロウズは体力がいい加減持たない。誰か他に助けを呼べなければ、命の危機はずっと近いところにある。

 どうすれば良い。思考を続ける龍弥の視界に奇妙な光景が広がっていく。イナゴが入ってきた扉を中心に、食堂の壁に横一線の黒い紋様が走り、そこから身体が浮き出てくる。空を滑るように食堂の壁を輪切りにして現れたのは、体長一〇メートルほどの黒い巨大なエイだった。エイはふわっと浮かび上がり、七メートルほどの高さの天井を削りながら二人の背後へ進むと、巨体を悠然と翻して入り口付近に鎮座するイナゴとは反対方向から龍弥たちへ迫る。

 突然現れたもう一体に驚いている余裕はない。恐怖ならもう十分すぎるほど感じた。今日何度目になろうかという死の予感に、龍弥はいまさら怯えることはなく、かえって驚くほど冷静に脳が回った。躊躇なく足を踏み出す。玉のような汗を流し、荒く息をするロウズの腕を左手で掴むと、再び右の拳で身体を沈めたイナゴに触れた。

 二人と一体の位置が入れ替わる。べきっと、爆音にも似た破砕音が後方から響く。黒い怪物二体は派手にぶつかってくれたらしいが、それで活動停止すると考えるのは楽観的過ぎる。ふと龍弥が違和感に目を落とすと、右手の甲の皮が溶けて、肉がむき出しになっている。痛みはない。だが、あと一度同じことをすれば、この手はもう一生使い物にならなくなる。それだけは分かった。

 数歩進み、廊下に出て、ふらつくロウズの手から炎の剣が消失する。体力の限界だ。彼女は泣きそうな表情になりながら、何度も空いた左手を振るうが、柄が握り直されることはない。龍弥は一旦ロウズの手を離すと、倒れそうになる彼女を背負うような体勢になる。早鐘を打つ鼓動と汗ばんだ体温が病衣にも似た薄い服越しに伝わる。浅い吐息を耳元に感じながら、龍弥は目を滑らせて、穏やかに言う。

「湯河原さん。大丈夫だよ。無理しないで、俺に任せて」

「ごめんね、私、また……」

 足手まといだ。そう言いかけた彼女の目に、燃え立つ炎の剣が見えた。空色の光を放つその刃の柄を握っているのは、片目から涙を流す龍弥の右手だった。剣が正面に振り下ろされる。炸裂音。図書室の扉を塞いでいた瓦礫が吹き飛び、道が開ける。『紋章権能』で『奇跡館』を傷付けることは出来なかったはずだ。その断片なら別なのか。考えながら、龍弥は落とさないよう背負ったロウズの背に片手を回す。

「力を貸してくれて、ありがとう」

 噛み締めるように言った龍弥に応えて、傷の刻まれた腕が肩から彼の胸の前に伸ばされる。ロウズは龍弥の能力を知らない。目の前の光景から推理するほど、頭が働く状況にもない。けれど、彼の言葉だけを受け取って、その体重を預けた。命の重さを背中に感じながら、龍弥は熱の籠る両足を動かす。

 取りあえず、考える限り最も可能性がありそうな図書室の扉を開ける。しかし、彼女はいない。ここ一番で最大の戦力になる人物、いつも図書室にいるはずのオートノミーは、中央ホールに巨木だけ残して姿を消している。と、そこで龍弥は気付いた。その寄生種の女王が、すさまじい強さでその能力を行使している。同時に、二条令吾にじょうれいごもその力を振るい始める。

 二人が何処かで争いごとを始めたのではなさそうだ。オートノミーは超常的な力を持っている、相手が令吾でも恐らく一分と経たず倒してしまうだろう。戦闘は継続している。コクロウシュ、タンデイシュという脳に響いた言葉が頭を過る。二体の黒い怪物が同種の存在だとすれば、もう一つの種類の何かがこの施設に現れていても不思議ではない。地上階と地下第一階層で二人とはすれ違っていないから、地下二階層で、彼らは自分たちが戦っているのと別の何かと対峙しているに違いない。

 振り返る。目の前には、横に黒一線の紋様が染みた白い廊下の壁面。中心に、開かれたままの食堂の扉。その奥に控えた二体の巨大な怪物。現状、二対一だ。これ以上戦えば、こちらが持たないことは考えるまでもない。どうする。地下第二階層まで逃げて、オートノミーに協力を頼むか。それとも……。

 直後、思考を両断するように、図書室の入り口に立つ龍弥の目の前をとんでもない勢いで何かが横切った。それは、廊下の突き当りの治療室にぶつかるより前に、元より拉げた四枚の羽根を拡げると、空中で制動し、瓦礫まみれの地面へと降り立つ。

 見間違えるわけがない。階段口から一直線に吹き飛んできたのは、オートノミーだ。薄い線虫の衣から覗く白磁のような彼女の手足には深い火傷が刻まれ、頬には横一線の血痕が滲む。同時に、爆音がする。眼前の食堂の壁がイナゴの体当たりによって粉微塵に破壊され、後ろから続くエイも含めて、二体の怪物が、廊下に立つ青い髪の彼女に迫る。

 しかし、彼女は枯れ葉色の瞳で一瞥だけすると、背の羽根を大きく拡げ、無数の蔦でどちらもを絡め取る。猛進していた怪物たちが嘘のように掴み上げられていく。怪物に触れた蔦は黒い液体に侵食されるが、新しいものが伸びてくる方が数段早い。オートノミーがそのまま植物を操り、食堂の天井と床に数十回叩きつけると、その怪物たちは溶けるように姿を消した。

 圧倒的だった。ほんの一分足らずで、龍弥たちが死を覚悟したイナゴとエイの怪物は簡単に霧消した。だが、彼はそんなことに喜んではいられない。地下第二階層、そこに現れたのは、自分たちを襲った二体と同格の怪物ではない。オートノミーが傷を負って、ここまで吹き飛ばされるだけの何かがいる。

 それは現れた。左手に見える階段口、奥の闇。そこから顔を出したのは、溢れる血のような赤い液体を全身にまとったゾウだった。大きさは特に普通のものと変わらないが、放つ禍々しさが違う。ゾウは大きく鼻を鳴らすと、瞬くようにその姿をくらます。

 直後、暴風。煽られて図書室へ転がり込んだ龍弥たちの目の前で、鈍い衝撃音が響く。機関車のようなイナゴのそれとは違う、目で追えないほどの突進が、植物や虫を固め、ほとんどマリモのような防御姿勢を取ったオートノミーに廊下の奥で激しく炸裂した。再びロウズを背負った龍弥が廊下に出て確認すると、ゾウの赤い液体の熱に、寄生種の女王を囲った植物塊が発火するのが見える。

 思わず声をかけようとした彼だったが、それは喉元で止まる。燃える植物塊から拉げた四枚の羽根が拡がっていく。マリモからすっと突き出された首。焼け焦げた彼女の頬がうねり、枯れ葉色の視線が力を増す。

 蚕食。ゾウの両前脚からぶちぶちと鈍い音がして、二メートルほどの赤い身体が前のめりに傾く。長い鼻を鳴らして数歩後退ると、ゾウは爆発的な明かりを放つまでに体温を上げる。龍弥たちの影が炎熱に伸ばされ、揺れながら背後の図書室や廊下を染め抜く。赤い怪物の身体中の虫が焼け死に、穴だらけの脚は泥のような体液に埋め合わされる。枯れ葉色の瞳と、赤い泥にくぼんだ眼が、空気をすり潰すような圧を伴って睨み合う。長い廊下で対峙する怪物たち。信じがたいことだが、オートノミーの方が不利に見える。

「お前たちもここにいたのか」

 少し経って、階段口から大柄の人影が見える。二条令吾だ。オートノミーほどではないが、応戦したらしい。傷だらけ大男は、しかし息を荒げることなく、長距離選手のような整ったフォームで走ってくると、龍弥たちを図書室に連れ込んだ。

 再び背後、今度は図書室の扉に近いところで怪物たちの激突が起こるが、令吾の手背に黒い紋章が輝くと、急展開された透明な盾によってその衝撃波が受け流される。爆撃にも似た音。図書室の書架が弾け飛び、無数の本がパラパラとページを捲られながらドーム状の防壁の上を舞う。バサッと、一瞬だけ防壁の上に張り付いた動物図鑑のインドゾウのページが、ぼんやりとしかけていた龍弥を現実に引き戻した。

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