それは黒い蝋のようで
第一種警戒発令。
第一討伐隊はハブコロニー辺境を哨戒中のため、現状、丹泥種の迎撃は不可能です。
以下、
各種計画を一時的に中断。
両種を
何か起きている。この『奇跡館』に閉じ込められてから、いままでなかった何かが起きている。あの言葉たちは何だ。黒蝋種、丹泥種、第一研究プラント群、新世界方形原領域、第一討伐隊、ハブコロニー、旧環太平洋南日本圏域審議会、各種計画。そして、生体研究室中央塔『奇跡館』。彼が拾った謎の音声は、ほとんど訳の分からない単語ばかりを含んでいたものの、この白い施設の外からきたものであることは明らかだった。
ともかく、
声が出なかった。瞬きすら止まった。強く目を刺激する警戒色も、耳をつんざく警報も、全て淡く遠ざかっていった。浅い自分の呼吸音と心拍だけを背景に、見える。黒いコールタールのような体液を滴らせ、周囲を見回す、体長五メートルほどのイナゴの怪物。あの夜自分を襲った怪物と同種の何か。それが、どうしようもないくらい明確に、大広間を歩き回っているのが。
混乱に脳を奪われる前に、イナゴの黒い蝋に濡れた目がゆっくりと彼の方を向き、その巨体が深く沈み込んだ。跳躍の前動作だ。心臓が早鐘を打ち、血が身体に巡る。凍り付きかけていた四肢に熱が戻っていく。やばい。そう思った龍弥の左手は反射的に背後の自室のドアノブに伸ばされていた。
彼は身を翻し、すぐさま部屋に閉じこもって鍵をかける。瞬間、鉛色の扉越しの背後を新幹線が通過するような轟音が駆け抜け、それは一秒後に爆音と激震に変わって階段口から響いた。個室のベッドが跳び上がり、棚と物置が大きく揺れ、倒れる。栞や筆記用具が床に散らばる。壁際の絵画が剥がれ落ち、額縁ごと粉々に割れる。爆撃でも受けたような部屋の中で、龍弥はただ呆然と立ち尽くすだけだ。
巨体が跳んで、廊下を一直線に貫き、階段の踊り場の壁面にぶつかったのだと気付かない方がおかしかった。瓦礫の音に紛れて、カタカタと足音がする。龍弥は扉から数歩離れると、息をひそめ、耳に神経を集中させる。目が合った。だから、自分がどの部屋に隠れたか、あの怪物は知っている。不気味な音が迫ってくる。迫ってきて、彼の部屋の正面で、ぴたりと止む。
鍵は閉めてある。『奇跡館』の構造物は『
しかし、いまさら一枚の壁に彼は何も期待していなかった。
案の定、何の装飾もない目の前の鈍色の扉の中央部に黒い染みが浮かぶと、それは瞬く間に同心円状に広がった。龍弥が部屋奥のベッドに逃げ上がると、完全に漆黒に染まった扉から、ぬっと巨大なイナゴの頭が突き出した。コールタールのような液体に濡れた四肢が、白い煙さえ上げながら、震える彼の前に歩み出る。
生暖かい風が肌をなでる。龍弥はあの夜の怪物をありありと思い出す。黒い蝋を滴らせながら、イナゴの怪物の前足が伸びる。電柱のような太さの脚、その先にきらめく鋭い爪が彼の喉元を捉える。
――その直前。
「龍弥くん! そこにいるんでしょ!」
廊下から、決死の叫びが響いた。彼女、
「逃げよう、早く!」
しかし、怪物の傷跡は流れ出た黒い液体によって簡単に埋められてしまう。ロウズは繰り返し、懸命に龍弥に向かって叫びを上げる。巨体に視界を塞がれて、彼には声しか届かないが、能力発動を感知する龍弥の能力は、彼女が全力で力を振るい、彼を助けようとしていることを誤解のしようがなく伝えてきた。
何をやっているのか分からなかった。一人で逃げるべきだ。こんな怪物を相手にしたら、彼女はきっと死んでしまう。自分の命が一番大切なはずだ。ロウズだって自らに危害を加えた黒い怪物を恐れていた。イナゴは彼女に気付いていなかった。廊下に出てもすぐ個室にさえ戻れば、彼女は何事もなく無事でいられたはずだ。
それなのに、生まれながらに身体の弱いロウズは、無謀にも、襲われている龍弥を助けるために、いま、自らの命を投げうっていた。
動きの止まった怪物を正面に、さっきまで怯えていた青年は強く唇を噛んだ。自分が一人で逃げ切れずに死ぬ分には仕方がない。けれど、助けに来てくれた彼女までみすみす死なせてしまったら、いよいよ死んでも死にきれなくなる。火が付く。龍弥のささやかな胆力に油が注ぎ、燃え上がる。目に光が戻り、熱い血が全身に通う。彼は拳を握ると、振り上げられたままの怪物の前足に軽く触れる。同時に、『紋章権能』を行使した。
『
『権能名未設定・接触した対象と、物理的位置を入れ替える』
視界が暗転し、次に龍弥の眼前に現れたのは横凪ぎに振るわれる炎の剣だった。能力の使用タイミングならずっと前から分かっている。龍弥は部屋で咄嗟に掴んできた長い定規で剣を逸らすと、それを瞬時に投げ捨てて空いたロウズの手を握った。
「え、龍弥くん、いま、いきなり現れて……」
「後で説明する。行こう!」
階段口に走る。イナゴの激突によって未だ吹きあがったままの埃を払いながら足を進める。背後から、カタカタと迫る音が聞こえる。時間はない。階段を下る。視界が晴れると、地下階第一階層だ。目を向ける。ここ一番で最も助けになりそうなオートノミーがいるはずの図書室の扉は、廊下の天井が剥がれ落ちた瓦礫片で塞がれている。
第二階層まで降りてしまうと袋小路になるので、第一階層で図書室の次に最も近く、広い、食堂へ転がり込む。振り返るまでもない。背後で鉛色の融ける音がして、巨大なイナゴが顔を出す。何処に逃げたところで、怪物は追いかけてくる。生き残るためには戦わなければいけない。何か強力な武器が必要だ。龍弥の思考は恐ろしいほどクリアで、身体は思った通りに動いた。
ちょっと離れて。そう言って、食堂の真ん中でロウズの手を放す。そして、彼は、漠然と「強そう」というイメージの元に、一時間前に見た四連装ロケットランチャーを顕現させ、背負い、思いっ切り振り向くと目の前まで迫っていた怪物に向ける。
肩にズシリと固い重量感。どうやって撃ったら良いか分からなかったが、引き金を引いたら取り合えず弾が出た。彼我の距離五メートルと少し、咄嗟の素人仕事も、四発も撃てば一発は命中する。
爆発。黒い怪物は一瞬顔の右半分が吹き飛ぶが、それも全身から滴る蝋に埋め合わされていく。ただ、ロウズの与えた刀傷よりは時間がかかっている様子だ。バックファイヤーこそあったものの、反動で折れそうになった腕を振り、弾を吐き出した用済みの武器を消滅させる。
イナゴも黙ってはいない。素早く自身にとって最大の脅威となりそうな龍弥へ前脚を伸ばす。しかし、それを彼の前に飛び出たロウズが受ける。剣を侵食するように滴る黒い液体が、爆発的な炎熱によって堰き止められる。恐らくこの怪物の攻撃を何でもない道具で直接受け止めようとすれば、握った腕ごと液体に呑まれて終わりだ。現に、あのイナゴの怪物に触れた龍弥の右手の皮膚はドロドロに赤く爛れていた。
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