悲しく思う
久々に訪れた図書館中央ホールは、驚くほど様変わりしていた。眼前には緑の蔦が数百も縫い合わさって作り上げられた巨木がそびえていて、その中央部の洞に、一冊の本を持って、七色に輝く線虫のドレスを着込んだ女性が腰かけている。
殺人鬼に追われて逃げ込んだ。だから、もたもたしている暇はない。そのはずなのに、龍弥は思わず声もなく立ち止まってしまう。彼を眇める枯れ葉色の瞳から流れた透明な筋が、白磁に似た頬を伝って、大樹に滴る。まるで神が初めて涙を流したような、どんな絵画をも凌ぐ超然的な美の光景がそこにはあった。
「何だ」
流れる涙を気にする様子もなく、彼女は言う。虫を用いて読んでいた無数の本は全て書架に戻されている。彼女の艶やかな手にある大判の一冊、昆虫図鑑だけが例外だ。言葉を最後に静寂をまとったオートノミーの姿に圧倒されながらも、龍弥は何とか必死に答えた。
「た、助けて欲しい。追われて――」
「別に、君の方が面白いかなって思っただけさ」
直後、爆音と閃光と激震が図書室を支配する。煙と炎熱が逆巻き、視界が一気に真っ暗に染まる。何だ、何が起きた。混乱しながら、咄嗟に真後ろのドアノブに手を回す。何かに掴まらなければ、立っていられない。不意に、ガシッと後ろから肩が組まれる。皮膚を伝って、体温が伝わる。
はっはっはっと一周回って気持ちのいい高笑いが終わると、純が龍弥の隣に立っていた。もう一方の肩に煙を上げる小型の四連装ロケットランチャーを担いで、雰囲気だけは純朴そうな青年は、共に馬鹿をする親友のような笑顔で龍弥に目配せする。
動転しそうになりながらも頭を働かせた龍弥だったが、それは、彼にとっても案の定起こった。図書館ホールの塵埃を割いて、数本の蔓が伸びてくると、純の四肢を一瞬で縛り上げる。彼も瞬時に数十の重火器を顕現させ蔓に向かって掃射し、抵抗するが、遅い。
命を脅かす大量の銃声に小さく丸まった龍弥の横で、波のような植物の壁がうねりを上げながら純を怒涛の勢いで図書室外に押し出した。続けて、蔓は粘性を得て扉に張り付き、開閉を妨げる。複数のくぐもった爆発音が響くが、『
「何だ」
取り残され、たいへん居心地の悪い思いをしている龍弥に、声がかけられる。枯れ葉色の瞳をした女性は、相変わらず女神のような超然さで巨木のうろに座っていた。ただ、彼女を含めた巨木全体を覆うように絹糸を縫い合わせて作られた盾のようなものが五重に浮かんでいて、その表面の一層が焦げ付いている。
するすると、糸が解けて優美な彼女のドレスに戻るころには、図書館ホールの光景はほとんど三分前のそれと変わらなくなった。
「ええと……」
龍弥がたどたどしくここまでの事情を伝えると、枯れ葉色の瞳で彼女は答えた。
「――それは、確かに意義があろうな」
凍りつく思いがした。純の龍弥に対する凶行を、オートノミーは肯定した。振り向く。扉はまだ固く閉じられていて、触れようもない。意義がある。そう言ったのだから、目の前の敵とも味方ともいえない彼女が、同じことをしないとは限らなかった。そして、力量的にも、場所的にも、いまここで争いが起これば自らの死しかないことを龍弥は理解していた。
張り詰めた緊張が世界を満たす。足が震える。心臓が高鳴り、喉が干上がる。へへっと、乾いた笑いさえ零れる。こんな人間に殺されるなら、自分の人生に少しは箔がつくというものではないか。そんなふざけた考えが思わず頭に浮かんで、おかしくなっている自分のありさまがまじまじと感じられる。
静寂は数分、扉は開かれない。ただ、オートノミーは昆虫図鑑のページを捲っていて、その枯れ葉色の両眼からは透明な涙が流れていく。刻々と時間が過ぎる。図書館には壁掛けの時計があるが、それを確認するために彼女から目を逸らすことはもうできない。どれだけ経っただろうか。我慢と緊張が限界に達した龍弥は、つい気になったことを口走ってしまう。
「ど、どうして、泣いているのですか」
声も絶え絶えに尋ねた言葉に、オートノミーの頬がうねり、枯れ葉色の瞳が植物図鑑から上がって彼を
「お前は、悲しく思わないのか」
悲しく思う。何を。ここに突然閉じ込められたことを。家族や友人がいまどうなっているのかわからないことを。それとも、もっと根源的な、生きること、死ぬことについて。思考がまとまらない中で、オートノミーの背中にある、彼女の髪と同じ青水色の二対の大きな羽がバタバタと羽搏いた。それは改めて見ると、素材の美しさこそあるものの、ところどころ千切れたり、しわになったり、穴が開いたりして、とてもまともな羽とはいえないものだった。
続けて、艶やかな髪をかくのに合わせて、彼女の背から長い蔦が伸びる。それは図書館の奥の棚を物色しはじめたかと思うと、直ぐに一冊の本を絡め取ってきて、龍弥にトン、と押し付けた。『動物図鑑』。そうタイトル付けられた本の表紙に描かれた鳥の姿に、龍弥の目が見開かれる。見開かれて、透明な涙が溢れてくる。
「――お前も、飛べないのに」
不意に、顔面の紋章が輝く。同時に、龍弥の脳内に映像が流れ込んでくる。
仲間たちが南の大地に帰って行くのに、野犬に襲われて、片翼と右目と喉がいうことを聞かなくなった。悲しかった。自分だけが取り残されて、一羽で死ぬのが悲しかった。沼地にくずおれ、水の冷たさが身に染みる。痛い、寒い、怖い、寂しい。日が沈む。彼方に、仲間たちの遠い影が見える。自分だって、あそこに在ったはずだ。風を掴むに足りる翼が、行き先を見据える目が、声を聴かせる喉があったなら。それらを、冬に飛ばない誰かが貸してくれればきっと……
目を擦る。コンと、子気味の良い靴の音。はっと顔を上げた龍弥の目と鼻の先にオートノミーが立っていた。間近に立って、改めてその圧倒的なまでに整った顔と、優れた容姿に息を呑む。風が彼女の髪を揺らす。甘い蜜の香りが世界を覆う。ただ呆然と見惚れるばかりの龍弥に、彼女は手に握っていたカラフルな八枚の栞を渡した。その一枚目に書かれた二行の文字列を見て、彼の頬が引き攣る。
『
『権能名未設定・行使されていない限り、他人の能力を行使出来る』
脳に響く衝撃があった。一枚目、薄桃色の栞に記されていたのは、彼の能力に関係すると思われる文章だった。これが、こんなものが、何処に。
顔を上げた龍弥の目に、今度は一枚の紙が映る。オートノミーが次に彼の前に掲げたそれは、地図だった。地図には、食堂や医務室、図書室などがあるこの地下階第一層の間取りが描かれていて、食堂と図書室のところには丸印が記してある。地図も栞も、印刷されたものだ。『奇跡館』の全ての場所を確認して、印刷機器は発見されなかったことから、これは明らかに龍弥たちを閉じ込めた何者かが用意したものといえる。
「この部屋にあったものはそれだけだ。他の場所は見ていない」
オートノミーは地図を龍弥に押し付けると、龍弥に渡した栞のうち、自分の能力が書かれた青色の一枚をひったくった。
『オートノミー・紋章権能生体ソース・
『権能名未設定・寄生種を生み出し、従える』
彼女は栞を植物図鑑に挟むと、白亜の城へ向かう姫のような足取りで木のうろへ戻った。図書室の扉に張り付いていた蔦が外れていく。出て行って良い。枯れ葉色の視線を感じて、龍弥は恐る恐る彼女の元を離れた。
龍弥は栞と地図をポケットに入れ込むと、足早に廊下を進み、階段を上り、自身の個室の扉を開き、内側から閉じた。息を吐き、冷や汗をぬぐって、そのままベッドに倒れ込む。眇めた壁面の時計は、深夜三時まであと少しだ。殺人鬼に追い掛け回され図書室に閉じ込められる。彼にとって永遠とも思えた時間は、およそ三〇分にも満たなかったということになる。
転がったまま、栞と地図を確認する。能力が書かれた栞。これは、既に全員の能力やその行使状況を把握している龍弥個人にとっては、いまさらほとんど何の役にも立たない。しかし、『紋章権能生体ソース』という言葉と、その横に記された記述は、何らかの脱出のヒントになるだろう。対して地図。これはもっと明確な可能性がある。図書室と食堂の丸印。図書室には栞があった。きっと食堂にも何かあるはずだ。
その何かが、純の手に渡ったらまずい。場所を把握している自分が、いち早く回収しに行かなくては。そして、朝には、『行使されていない限り、他人の能力を行使出来る』という自分の能力も加えて、この夜知った全てをみんなに伝えよう。
ただ、これから一人で行動する気にはならないから、食堂を知っていて自分よりずっと力のある
心拍は次第に落ち着いてきた。未だ冷めない深夜の熱に浮かされた龍弥は、七枚の栞をベッドの上に置いて立ち上がり、再び個室のドアノブを回した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます